痛みの為の痛み
人が生きていくのは大変だ。その人の諸々の状況によっては絶え間ない辛み苦しみにもなる。当然心は常に痛みを感じ続け、日々過ぎる中で疲弊し続ける。
それは現代では「ストレス」と表現するのが一番分かり易い。そしてそれがその個人の許容限界値を超えれば、トラウマにも繋がるような精神疾患となる。
その痛みをこらえる為、あるいは忘れる為に人は様々な解消法を模索する。その種類は様々だろう。
典型的なところで言えば「酒・煙草・ギャンブル・異性・浪費」あたりが、最もメジャーかもしれない。スポーツやその他の健康的とされる娯楽を見つけられればとても良い。ゲームや漫画アニメ等のエンタメ娯楽でも十分過ぎる。
しかし中にはそういったストレス解消の手段にのめりこみ、果てには自らを追い込みだす人もいる。
寝食を忘れたり自らの体や心がそれをやる事に生活のリソースを割きすぎて、別の心身における疲労を生み出してしまっている事もある。
傍から見れば「楽しみのはずの娯楽で、なんでそんなに強迫的にやってるの?」と言いたくなるほどに。
(ここからは完全に私個人の体験による見解となる)
人は誰しも痛みを追っている。そして中にはそれがトラウマになっている人も。
そういう人は生きる日々の端々で、その痛みを感じる場面に出くわす。実際は痛み自体は常にあるのだが、それは長年を経て慢性化している為、感覚を伴っては感じ辛くなっているのだ。それでも決して痛みが消える事は無い。
だから、その痛みの辛さを忘れる為には、もっと大きな・あるいは別の痛みが必要なのだ。特に痛みが悪化した時などは、それが紛らわせるなら自分が有効だと感じられる手段はとる。どんな事であっても紛らわせられれば。
私の場合はとあるスポーツだ。
私はそのスポーツを最初は息抜きの楽しみとして始めた。事実最初の1年は楽しいばかりだった。
しかし次第に技術の向上にばかり意識が向くようになり、取り組む姿勢は強硬なものに変貌していった。やっている最中は、常に問題点を探す事ばかりに注意が向き、帰宅してもネットで情報を探したりそれを室内で体を動かして確認してみたり。
とてもではないが、当初の「息抜きの為の楽しみ」なんて言える要素は欠片も見つからなくなっていた。
そうした事が常態化していたある時、そのスポーツで相も変わらず問題点を探しながらやっている最中にふと気が付いた。
「俺は痛みや苦しみから逃れたいが為に、今現時点で最も大きな苦しみを味わっているのでは」
と。現に少し前から、それを意識する度に昔のただただ楽しいだけだった頃を思い出し懐かしむ事が増えていた。
そしてその「痛みに対抗する痛み」を考える内に、これまたふと考え付いた事がある。
「これってリストカットなどと、心理的原理はおなじようなものなのでは」
私はそういった分かり易い自傷行為は行った事が無いので、実際にその人達がどういう心理状態で行うのか、その生の声までは知らない。
ただ、もしも「心の痛みが耐えられなくなりそうな時ほどやってしまう」と言うのであれば、もしかしたら似たようなものなのかもしれない。
私自身、そのスポーツに入れ込み過ぎて体を故障する事が増えていた時期があった。それでも止める事が出来なかったし、その理由も知っていた。
それをやる事だけが、今自分が社会的にまともと言われる状態でいられるからだと知っているからだ。だから止める訳にはいかなかった。
そしてその判断は最早意識可能な理屈の範疇をとうに超えていた。無意識レベルで判断と行動出来てしまう、その意味では既にトラウマ化しているのかもしれない。
人が社会で正気と呼ばれる状態を保ちながら淡々と・粛々と生きていくのは大変だ。「そうあらねばならない」と自制心を持ち続けるのはなお大変だ。
だから痛みの為の痛みもまた必要な要素なのかもしれない。
「痛みを知るからこそ人に優しくなれる」
そんな言葉がある。
痛みを抱いたまま誰かを包み込む、その人の両肩に温かい手の平を置いてくれるそんな人がいるのだろうか?
そしてその人もまた痛みを背負いながら、それでも両の手に温かさを宿しているのだろうか?
生きる。か。
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