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ヨットは人生の縮図である

「ヨットは人生の縮図である」について解説したい。

私がヨットに初めて乗ったのは22歳の時だった。大学院に進学して福岡にやってきた僕は、ある社会人のコミュニティに入る。そこから福岡の姪浜を中心にディンギーヨットに乗り始める。「ヨットは人生の縮図である」という言葉を知ったのはその時だった。

少し、ヨットに関する情報を話しておこうと思う。

ヨットの原型はシンドバッドの冒険の舞台となっている8世紀まで遡り、当時河川の上流と下流を行き来する方法として、簡易な帆船が作られたのに起因するらしい。

何故帆船が前に進むのかが明らかになる前から、「よく分からんけどこうすれば下流から上流に移動できて、しかも便利だから使う」というのは人間らしくて面白い。

それから、帆船はさまざまな場所でさまざまな形で作られ、利用されていく。
モナコでは、小学生が自転車に乗る感覚でディンギーヨットに乗っているらしい。富裕層の嗜み的なものだと、そのコミュニティで教わった。

しかし、自分で乗ってみて、これほどエキサイティングで地球の偉大さを感じながら遊べる乗り物はないと思う。
地球は常に自転と公転を繰り返すことで風邪が発生する。コリオリの力で風向きは曲げられ、月の引力で潮は満ち引きをする。物理法則に則っているにもかかわらず、人間にはコントロールできない海というステージで、エンジンのついていないディンギーヨットで滑走するというのは、22年生きてき田中でも格別の体験だった。初めてヨットに乗って1年後の間に、海図を読み、沖縄、愛知、大阪の海でヨットに乗り、ニュージーランドのクック海峡をディンギーヨットで横断できたのは運が良かった。

話を戻そう。いかに「ヨットは人生の縮図」なのかという話について。

まず、ヨット(特にエンジンのついていないディンギーヨット)がどういう乗り物なのかを理解する必要がある。

ヨットの推進力は風だ。
風が強ければ、スピードを出してぐんぐん進めるかもしれない反面、波も高くなる。しかし風が強すぎれば転覆したり、最悪マストが折れて再起不能になる。
逆に風がなければ前に進むことさえできない。完全に薙いでいれば、何も起きない代わりにほとんど前に進めない。時にはそんな人生もいいのかもしれないが、風で進んでいないだけで、海流に流されて移動している。

そもそも、ヨットに乗ってどこに向かおうか。ヨットは乗っているだけで楽しいけれど、目的地を決めなければただ流されているのとほとんど変わりはない。陸地に近かったり近くに島があればいいが、大海原にほっぽり出されたら周りに目印がなくて途方に暮れてしまうだろう。だからこそ人生にはコンパスや指針が必要なのかもしれない。

風の話に戻る。適度な風が吹いていて進めているとしよう。目的地も決まっている。前に時速4kmで進めていたとしても、海流が時速4kmで逆方向に進んでいるということもある。帆は風でたなびいている。全身で風と波飛沫を感じていても進んでいない。もしかしたら、潮に流されて横流れしているかもしれない。

ヨットが人生の縮図だからなんなんだと言われたら、別に大した意味はないとしか返事ができない。きっと一生ディンギーヨットに乗らなかったとしても良い人生は送れると思う。しかし、車や飛行機があるこの時代にわざわざアナログな乗り物であるヨットに乗ることで、人間の根源的な感覚を呼び覚まし、人生について考えることができるのではないかと思う。

でも、実はヨットはもういいかなと思っている、根源的な感覚を呼び覚ますアナログな乗り物として次は乗馬もいいかもしれない。でも人生の縮図になるのは多分ヨットだけな気がする。

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