「本を読む」ということについて

僕は小さい頃から本を読むのが好きで、今でも読む冊数は減ったがちょくちょく本を読んでいる。

我が家の母は教育の一環として「子供達にはとにかく絵本を読み聞かせる」ことを意識していて、幼い姉2人と一緒に、末っ子の僕には少し難しめの絵本を何冊も何冊も読み聞かせてくれていたらしい。

その甲斐もあってか、小学校1年生の時にはすっかり本が大好きになっていて、近くの図書館に隔週で通って毎回10冊くらいの本(たくさん借りるために家族全員分の名義で図書カードを作って2冊x5人=10冊)を借りてきていたし、夏休みには合計100冊の本を借りるという目標をたてて読破した。

当時はベタなところでいうと「怪傑ゾロリ」や、「ズッコケ三人組」シリーズなどの物語系のものが特に大好きで、いまでもそうだがファンタジーやSF物のわくわくするような世界観があるものがお気に入りだった。星新一のショートショートもめちゃくちゃ好きで、文庫本は新しいのを見つけるたびに買っておそらく40冊くらい持っている。他にもモーリス・ルブラン「アルセーヌ・ルパン」シリーズとか上橋菜穂子「精霊の守り人」シリーズとか児童書コーナーにあるファンタジー系はだいたい読んだような気がする。そういうお話はだいたいその世界の地図だったりが、本の裏表紙のところに書いてあったりして、いつも本を読みながらその地図と照らし合わせて、空想を膨らましていた思い出がある。

気に入ったシリーズの本を読んでいる時の僕の集中力はすごく、母が話しかけても気づかずにひたすら読書を続けていたらしかった。ひたすら本を読んでいたこともあって、小学校3年生の頃にはすっかり視力が悪くなってしまったが、引き換えに中学受験の時には国語だけは勉強をせずとも大得意だったし、普通の小学生よりもよっぽど物知りに育ったように思う。それだけ本を読むが好きになったのはもともとの性質もあるかもしれないが、やはりたくさん読むと褒めてくれた親の育て方が大きかった。読んでて面白い上に褒められるんだから読まない理由がない。

その後、中学、高校になっても引き続き本を読むのは好きで、小説を中心にいろんな本を読んだ。電車通学だったので本(中学からは漫画もたくさん読み始めた)と音楽(FM802が好きだった)というお楽しみに電車内の時間を使っていた。

ところが大学生になると、読書に対しての価値観が大きく変わった。

ゼミの教授や先輩方の影響を受けたりしつつ、読書というのは娯楽的に楽しむだけではダメで、直接的に自分を高め、成長させるためにするものだ、という認識になった。一般教養や知識としてしっておくべきことを学ぶ手法でもあるし、人間的に深みを増すための糧にもなるものだということを学んだ。僕にとって物心ついたときからずっと「読書=娯楽」だったのだが、「読書= ①娯楽 ②知識獲得」 という2つに変わった。

これはとても大きな違いであり、進化だった。その頃から読書に対する感情が純粋に「読みたい」と思う欲求から、「読まなければいけない」という義務感に変化したように思う。実際に読む本は、色々なハウツー本やビジネス書、知識や情報を収集するための本にどんどんと変わっていった。当時はツイッターが始まったばかりで「ツイッターノミクス」という本が流行っていたり、社会人になってすぐは「入社1年目の教科書」とかを読んで刺激を受けていた。もちろん小説やフィクションを「読みたい」という欲求は引き続きあったので、たまに自分へのご褒美として小説も読んでいいことにしていた。

しかしこの個人的な読書のパラダイムシフトから、僕の読書2.0が始まったわけだが、多少の人間的な成長は見られたものの、正直これ以降の読書はあまり充実していたとは言えなかったと思う。もともと怠け癖があるので「②知識獲得」としての読書はなかなか気が進まないことが多かった。たくさんの本がいわゆる「積ん読」になってしまい、今でも本棚に飾られている。

この「積ん読」たちは、僕としては「一度、本屋で読みたいと思ったタイミングで買わないと、次に読みたいと思うのはいつかわからない。でも買ってしまえば、いつかは読む。」と信じて肯定してきた。いつか読んだ成毛眞さんの本で「とにかくたくさん読んでたくさんの本を吸収することが大事で、つまらない本は途中でやめてもよい。1行でもためになることが書いてたら、場合によってはそこで読むのをやめてもOK」(内容ちがったらごめんなさい)というような考え方に影響を受けたので、たくさんの本に囲まれる環境をつくることがまず大事だと思ってきたのだ。


本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである
成毛眞 2008/1/21

しかししばらくすると、本の内容によって書いていることが全然違うことに違和感を持ち始めた。言われてみれば教科書でもなんでもないので、当たり前なんだけど、本当に様々な立場の人が、それぞれの立場から、それぞれの主張を書いている。たとえば「経営論」についてだと、松下幸之助も、D・カーネギーも、ジャックウェルチも、稲盛和夫も、柳井正も、それぞれがそれぞれの考えを書いている。これらを知識として吸収すると、明らかに矛盾することが書いてあったりして、いったいどれが正解なんだ、となってしまう。いろんな本を読むのはいいことなんだろうけど、読めば読むほどに何が正解かわからない。自分の価値観や考えの「軸」を求めて、いろんな本を読むけど、読めば読むほど混乱してしまうだけで、いつまでたっても自分の「軸」が得られない。

そして、もう一つ、本を読んでもすぐに内容をすっかり忘れてしまう自分に気づいた。がんばって取り組んだ「②知識獲得」としての読書のはずだが、その内容を身につけられるのはせいぜいその内容の数行分、読んだはずの本だけど数年(下手をすると数日)して、その内容をちゃんと人に説明できるほど覚えていなかったりすることがほとんどである。もちろん読んだ直後はめちゃくちゃ覚えているし、影響を受けやすい性格なので読後はそれなりに興奮したり、成長感を感じたり、偉そうに他人に教えたりする。けれどしばらく時間がたつと、書いてある内容が一度分解されて、大半はそのまま消えていくか、よくてもせいぜいふとした瞬間に断片的に脳内に呼び起こされるくらいのものである。「②知識獲得」を目的としているのに、全然獲得できていない気がして、でもまあそういうものか、きっとそういうものなんだろう、と思いこませてきた。

そんななかでつい先日読んだ与沢翼さんの「ブチ抜く力」から、これらの違和感を解消する大きなヒントを得た。彼はお金稼ぎに魂を売っていて、派手な行動をしてきているので、いろんな印象を持っている人がいると思うが、個人的にはものすごくストイックかつ大きな成果を出すことができる尊敬に値する人だと思っていたので本を買って読んだ。いったいどんな内容が書いているのだろうか、情報商材的なハウツー本なのかな、と思って読み進めたのだが、最終的に僕は「ちゃんと自分の頭で考えて、物事の本質を見つけろ」というメッセージなんだと理解した。


ブチ抜く力
与沢翼 2019/3/2

与沢さんは何かをブチ抜くときに、まずは最初の3週間で圧倒的な情報収集をして対象の物事に徹底的に詳しくなるらしい。そのときに情報や人のアドバイスを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えることで物事の本質(センターピンと言っていた)を掴むことから始める。そしてそれを徹底的にやり抜くことで、圧倒的な成果を出してきたとのこと。

すごくシンプルだし言われてみれば当たり前なんだけども、ただ本を読むだけではダメで、自分なりの考えや仮説をもってして読書や情報収集をすることで、自分なりの考えを構築する。それがブチ抜くための第一歩であるとのことだった。

すごく納得したし、誰か忘れてしまったのだけど、教養を身につけるために、自分の中でテーマを設定して、ひたすらそれに関する書籍を読み漁り、ある程度詳しくなったらまた次のテーマを設定して同じことを繰り返す、ということを言っていた偉い人がいた気がするのだがそれと同じことを言っているのだな、とふと思い出した。

そしてさらに前述の「本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである
成毛眞 2008/1/21」を読んだ直後に読んで、ぜんぜんしっくり来なかった「読書について ショーペンハウアー/鈴木芳子 訳 2013/5/14」という本のことを思い出して、もう一度読んでみた。

なぜしっくり来なかったのかというと、ショーペンハウアーは本というものはたくさん読んだって意味がなく、多読や速読なんてものはよろしくない、少数でもじっくり読むことに価値がある、というようなスタンスで、成毛さんと真逆のことを言っていたからだった。当時はたくさん読むことが正義、という風に思っていたので、まったくもってしっくり来なかった。

読書について
ショーペンハウアー/鈴木芳子 訳 2013/5/14

しかし、数年たった先日、僕の読書2.0の期間を経て感じた違和感たちと、与沢さんの本を読んで得られたヒントをもってして、この本を読むと、まったくもって違う感覚で、ショーペンハウアーの述べる読書についての見解がすごく輝いて見えてきた。

結局のところショーペンハウアーも、与沢さんと同じようなことを言っていた。要は自分の頭でしっかり考えることが大事だということ、そして読書について、ほとんどの場合の読書は、ただ単に他人が考えたことをそのままなぞっているにすぎず、それは頭に他人の思考を流し込んでいるだけの行為にすぎない、ということ。(このあたりは原文はもっと過激で面白い罵詈雑言で埋め尽くされているので、なんか面白くて思わずニヤニヤしながら読んでいたが、ここでは原文を載せるのは割愛してあえて、僕の理解の表現で書きます)

以前から読書の醍醐味は「自分が感じていることや思っていたことと同じようなことを述べている一節を見つけた瞬間」だな、と思ってたのだが、この喜びの瞬間こそ、与沢さんやショーペンハウアーがいう自説の強化・補強や、センターピンの獲得過程のひとつだったのだな、と繋がり、すこし感動したぐらいだった。

そうしてすごく結果的にだったのだが、自分の中で読書の新たな意味合いとして「③自説の補強」というものが追加され、読書の意味に新たなパラダイムシフトが起きた。

  5〜19才ごろ    「読書=  娯楽 」
20〜29才ごろ   「読書= ①娯楽 ②知識獲得」
30才ごろ〜  「読書= ①娯楽 ②知識獲得 ③自説の補強」

ちょっとしたこと、シンプルなことでもよいので、自分なりにしっかりと考えてみて、そしてそれを補強し、さらに思考を深めるために本を探して読んでみる。また場合によっては、書くことで、思考をさらに深めることもできる。これを繰り返すことで、ただ他人の説や考えを頭に流すだけではなく、自分なりの思考を経たしっかり身についた「軸」を形成することができるし、それこそが読書の意味である。

ただし「①娯楽」としての読書はもちろん、「②知識獲得」のための読書も同時に存在するし、今後も必要だと思う。実際、この新たな読書の意味である「③自説の補強」についてのヒントを得たのは、「②知識獲得」としての読書によるものだし、そもそも自説を組み立てるまえのインプットとして知識獲得をすることは必要だ。

また「①娯楽」としての読書もあくまで読書の一面として存在してよいことが明確になった気がする。今回の読書の意味合いの整理によって、別に我慢せずにそれはそれでどんどん楽しめばいい、という開き直りを得ることができた。

本を読むということは、娯楽であるし、知識の獲得でもあるし、そして自説の補強でもある。一見、矛盾しているようにみえる3つの目的だが、それぞれの目的を必要に応じて使い分けることで自分自身の成長が促進されそうだということ、そして娯楽的に読書を楽しんでも良いということが、しっかり腹落ちして理解ができた。これは誰がなんと言おうと自分のセンターピンであり、自分の思考であるからこそ、シンプルで当たり前に聞こえるかもしれないけど、僕にとってはとても意味のある思考の整理になった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?