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穴底

 彼女が夜な夜な皮膚を床に広げて鋏で裁っている。
 私の新しい服を拵えているのだ。

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 妻の実家には敷地内に先祖代々受け継がれてきた屋敷がある。義父母は二十年前に新しく建てた家に暮らしており、屋敷はもはや仏壇と物置としてしか機能していない。
 最近そこに狸が住み着いたらしい。義父が言うには、姿を見たことはないが、誰もいない二階をどたばたと走り回る音が聞こえたり、あるときは二階の襖を開けると臙脂色やら抹茶色やら辛子色をした毬がぽんぽん跳ねていたり、あるときは物置の戸を開けるとなかが信楽焼の狸で埋め尽くされていたりするのだと。
「幽霊じゃないですよね」と私がおっかなびっくり尋ねると、義父は「あんなけったいな幽霊はおらん」と豪快に笑う。
「そろそろガタがきているもんで、建て直そうかと思ってたんだが、狸を追い出すのも不憫でなあ」
 義父は困ったように頭をかいていた。
 最近、妻の実家に着くと、三歳になる娘がどうしても屋敷に入りたいと駄々をこねる。義父が渋々入れてやると娘は階段を一生懸命上り、止める手を振り切って廊下を走って、部屋の中へ隠れてしまう。それから、誰かと笑い合う声が聞こえるが呼んでも返事はないし、どの部屋にも姿がない。しばらくすると何度も確認したはずの部屋からひょっこり顔を出す。どこに行っていたのと問うと、◯◯ちゃんと遊んでたのとにこにこ笑いながら答える。義父母も妻も私も、何度聞いても相手の子の名前がはっきりと聞き取れない。
 私としては、娘の遊び相手が悪いものでないことを祈るばかりである。

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 盆に帰省して両親と家の話などしていたときのこと。父の友人にKさんというひとがいて、家の関係の仕事をしているらしい。そのKさんの仕事仲間である、霊感の強い大工さんの話を聞いた。
 Kさんと大工さんがどこぞのお宅に仕事に行ったとき、大工さんが作業するために二階で一人で上がった。Kさんが下で作業していたところ、大工さんが二階で誰かと話しているのが聞こえてくる。下りてきた彼に誰と話していたのか尋ねると「優しそうなおばあちゃんが話しかけてくるから相手してた」と言う。施主が見学に来るような予定もなく、二階には誰もいないはずだった。
 またある物件では、作業した晩は必ず、大工さんの夢に蛇が出るようになり、仕事ができなくなってしまった。困ったKさんがお祓いができる知人に依頼したところ、出先から祓うからこの方角のドアを開けてくれと頼まれた。行って俺が憑かれたらどうするんだよと電話口で抗議すると、そうならないように祓うから大丈夫と。実際にお祓いしたあと大工さんは夢も見なくなり、無事に仕事を終え、その物件は今も問題ないそうだ。
「遠隔でお祓いなんてできるの?」と私が聞くと、できるらしい、と父も笑った。
 お祓いした方は大工さんよりもさらに霊感が強く、神社に行くと神様の姿が見えるんだとか。おそれ多いから黙ってお参りだけして帰るけどね、と言っていたそうだ。

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 子どもの寝静まった夜に、スタンドライトに照らされながら甲虫の背に釘を通したり、鼠を肉と骨に解体したりしていると、ふいに昼間の高いトーンで名前を呼ばれたり、明るい笑い声が聞こえたりする。びくりとからだが震え、部屋の入口を振り返る。もちろんそこには誰もいない。
 台所の隅にある冷蔵庫には、ホルマリンに浸けられた小動物たちと共に、あの夏に開封したままのカルピスウォーターがしまわれている。中身は茶色く濁り、内側にはびっしりと黴か何かの菌糸が張っているのだが、時折液体のなかをゆらりゆらりと泳ぐ脚が見えるので、いまだに捨てることができないでいる。
 割れた西瓜の亀裂から内側が黒く腐っていくように、あの日きみの虫取網が引っ掻いた後頭部の傷から、私の赤い果実も腐敗し始めたのかもしれない。
 ごみ捨て場で拾ってきた子どもは、汗だくになりながらぼろぼろのソファの上で寝息を立てている。頭を撫でようとして思いとどまる。節くれ立った手は黒く濡れていた。

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 穴を埋める行為だと思っていたけれど実はそうではなかった。なぜそう思っていたのだろうか。
 穴は埋まらない。できることと言えば、昼間は蓋をしておくことくらいだ。夜ひとりになれば、蓋を開けざるを得ない。まるで黒く塗りつぶされた円のように奥行が感じられない。穴の底が見えないものかと覗きこむ。底なんてないのだと、はじめから知っている。

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