虚構の穴 - The Imaginary Void
はじめに
私たちが日々目にする写真は、見える世界の一部を切り取ったものに過ぎない。しかし、その一片に映し出された現実から、私たちは何を読み取り、どのように想像を膨らませるのだろうか。この記事では、写真の不完全性がもたらす想像の力と、それが私たちの認識にどのように影響を及ぼすかを探っていく。
1. 空の落とし穴
「エアポケット」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「空気の穴」という意味の、この単語。日常生活では、あまり馴染みのない言葉かもしれない。これは航空用語であり、飛行機が乱気流に巻き込まれたとき、突然穴に落ちたように急降下してしまう現象を指す言葉である。人々は、その空域には空気がなくて、飛行機が空気という支えを失い、降下してしまうものだと想像した。しかし実際には、下降気流によって翼が揚力を失い、一時的に降下するだけであり、そのメカニズムは現在では解明されている。
空気と穴について考えてみよう。空気は目に見えない存在だ。穴は、存在がないことを示す単語。さらには、その穴自体が空想であり、実際には空気の穴は存在していなかったという事実。なんだか、見えないことだらけで、少々イメージが湧きにくいかもしれない。たとえば、地面に空いた落とし穴だったら、そこに穴があると直感的にわかるだろう。地面が目に見えるからだ。では、飛行機が突然急降下したのならどうか。その現象は地面の落とし穴と結びつけられ、まるで空の穴に落ちたように錯覚するだろう。
人は、目に見えないものを想像で補う能力がある。飛行機が乱気流に巻き込まれた際に体験したことは、飛行機が急降下した結果のみであり、その結果からの想像によって、架空の「空気の穴」が生まれたのである。
初期の飛行経験から生まれた『空には空気の穴がある』という仮説。航空業界の研究者たちは、飛行機が急降下する現象を詳細に調査し、この過程で多くの飛行データを収集した。物理現象は、条件さえ揃えば何度でも同じ現象が発生する。乱気流の中を飛行機が飛べば、再び同じような現象に出くわすことになる。飛行機が急降下する具体的な条件を再現することで、翼の周りに流れる空気がどのように変化するかを観察し、エアポケットによる急降下の原因を突き止めた。そして、『空気の穴説』は我々の前から姿を消したのである。
2. 現実の断片
結果のみしか見えないとき、人はその過程や周囲のことを想像する。飛行機が急降下した結果から生まれた空気の穴は、そんな想像による誤解であった。それと似たように、結果のみが提示されるものが、私たちの身近にある。それは、写真である。
写真は、カメラのシャッターボタンを押せば、目の前の風景を記録することができる便利な技法である。だが反面、写真に写るのは、カメラのファインダーを覗いたときに見えるフレーミングされた領域のみで、シャッターを押した後のわずかな時間における状況しか残せない。写真を見る体験とは、フレームの内側で起こった出来事の結果を、画像として見るということである。フレームの外側は、写真上には一切存在していないので、当然見ることができない。
写真に写っているものには、どことなく真実味が漂う。絵画やGCなどと比べても、なんとなく写真のほうが真実を物語っている感じを受ける。それは、写真は光を機械的に記録するメディアだからだ。写真は、レンズを通じてカメラに入った光景を、そのまま記録する。絵画やCGは、制作過程において人間の介在があり、アーティストの主観性、技術、そして意図が作品に反映される。これに対し、写真の場合、シャッターを押した瞬間に捉えられた画像は、その場の光を機械的に記録する。この機械的な記録過程が、写真に一定の客観性や現実味をもたらすと言える。撮影のタイミングやフレーミングは撮影者が選ぶが、カメラはその選ばれた瞬間を、介入することなく記録する。
とはいえ、写真で記録されることが、必ずしもすべての事実を表しているというわけではない。たとえば、ある人物がエッフェル塔の前で自撮りをしていれば、パリに行ったのだろうという想像ができる。だが、そう写った写真があるだけで、実際に行ったかどうかは厳密にはわからない。近年ではデジタル写真の加工技術や生成AIなど、写真を捏造することもできるし、デジタル写真より加工が困難なフィルム写真でも、背景をうまくごまかせば、相手を騙せるかもしれない。また、別の場所で撮った写真のキャプションに「パリに行ってきました」などと書くことで、見る側にこの写真はパリであると思い込ませることも不可能ではない。
写真は、断片的に現実を記録する。しかし、枠外にあるものは、一切語らない。この限定された情報から、写真を見る人はその見えない部分について想像を巡らせることになる。このプロセスは、飛行機が急降下する現象からエアポケットという概念が生まれたことと似ている。急降下現象も、結果のみが見え、その原因や背後にあるものを想像するしかなかった。写真もまた、写された画像から、その背後の情報を想像させる。どちらも、目に見える結果から、目に見えない過程や全体を読み取ろうとする人間の傾向を象徴している。
3. 視点の選択
写真の力は「写っている部分が真実味を帯び、それ以外は何も語らない」という特性に由来する。この性質は、多岐にわたる場面で利用され、写真の強みや魅力である。だがそれは、必ずしも良い面ばかりではない。
特に広告の世界では、この特性が最大限に活かされている。広告は、商品やサービスをできるだけ魅力的に見せることを目的としている。写真を使えば、商品の最も魅力的な部分だけを抽出し、不都合な真実は隠蔽することが可能である。これは、写真が持つ、現実を選択的に描写する能力によるものだ。しかし、この能力は写真を使用して人々を騙す行為にもつながるだろう。現代では、磨き抜かれたプロの写真よりも、スマホで撮影された雑な写真の方が信頼されるという逆説的な現象が生じている。出来すぎている写真を見た人は、見えていない部分に嘘が隠されているのではないかと、想像してしまうのだ。
この文脈で、写真家ロバート・キャパの『崩れ落ちる兵士』という写真を考えてみよう。『崩れ落ちる兵士』は、1936年に公開された。スペイン内戦中、人民戦線の兵士が撃たれて倒れる瞬間を捉えたこの写真は、戦場写真の象徴的な1枚として知られている。
この写真の最大の特徴は「あまりに完璧すぎること」と言っていいだろう。撮影のタイミング、構図、周囲の状況が整っているなど、奇跡の1枚という言葉が似合う。そしてこの1枚が、キャパの名を一躍有名にした。だが、その写真が注目を浴びることで、真実性に疑念を投げかけられることも絶えなかった。銃弾飛び交う戦場で、いくら幸運に恵まれても、このような完璧な写真が撮れるだろうか。また、ネガやオリジナルプリントは現存せず、キャパ自身も、この写真の詳細について語ることはなかったという。現在は、この1枚の真相を暴くために、様々な分析がなされていて、これは演出された写真、あるいは、単に兵士がバランスを崩して転倒しただけの写真ではないか、という見解もある。
写真は、撮影者がいて、被写体にレンズを向け、シャッターを押さなければいけない。それはつまり、瞬間を選択するということだ。実際の戦場か、それとも演出かを撮影者は選択できるということでもある。しかし、それが演出であったとしても、過去の出来事を完全に証明できない以上、実際に戦場で撮影されたと想像する余地は常に残り続けることになる。
人々は、写真という結果から、その写真が撮られたであろう状況を想像する。それが、キャパの『崩れ落ちる兵士』をよりミステリアスで魅力的に見せるのである。
4. 写真と記憶
エアポケット現象と写真というメディア、両者の大きな違いは、再現性の有無である。急降下現象には再現性があった。急降下の仕方は毎回違うのだろうが、乱気流という原因と、急降下という結果があり、それらの関係は一貫していた。同じ体験を繰り返し、調査、検証するという科学的なアプローチにより、問題が解明されるに至った。では、写真はどうか。前章でも触れた通り、写真は過去に遡って検証することが不可能である。
写真として残す行為は、実際の体験と比較すると、情報量が大きく制限される。たとえば、美しい海辺の町を訪れた際に、その風景の写真を撮ったとしよう。カメラに収まるのは、その瞬間に目に見える風景だけである。海の音、塩の香り、そよ風の感触、その場にいた人々との交流や、その瞬間に感じた感情など、五感によって捉えられる情報は一切含まれていない。写真はその場所を訪れたことの証となるかもしれないが、実際にそこで経験したすべてを伝えることはできない。
この旅行写真を見ることで、風景の美しさや当時の気分を思い出す手がかりには、なるかもしれない。写真は記憶にアクセスするためのきっかけとなり、過去の体験を部分的に蘇らせることができるだろう。しかし、時間が経つにつれ、なぜその写真を撮ったのか、その瞬間に何を感じていたのかを忘れてしまうこともある。撮影から数日や数ヶ月であれば記憶をたどることができるかもしれないが、長い年月が過ぎれば、その写真が持つ意味や背景を思い出すのが難しくなっていく。
もし撮影者が亡くなり、その写真が他人の手に渡ったとすると、その人には元の撮影者の体験や感情に対する直接的なつながりがない。外部の観察者には、その写真から特定の記憶や感情を引き出すことは不可能である。彼らにとって、それはただの風景写真であり、撮影された瞬間の背景や意味を知る術はない。
写真は、ある限られた瞬間を保存し、その枠内に収めることで、一時的な現実を固定化させる。プリントされた写真は時間の経過により物理的に劣化するかもしれないが、その中に封じ込められた情報、つまり記録された瞬間は変わらない。世界は絶えず変化し、時間は流れていくが、写真にはその流れが影響を及ぼすことはない。機械的な中立性によって保たれた画像は、時間の流れの中で置いてきぼりにされ、写真と現実の間の距離は、時間とともに大きくなっていく。
5. 歴史のエアポケット
撮影という行為は常に一度きりであり、その状況に戻ることは不可能である。人々は、写真という断片を見て、想像するしかない。そして、再び撮影したときの状況に戻ることができない以上、飛行機の急降下現象のような明確な答えにたどり着くことはない。
これは、歴史についても同様だ。人類の歴史というものは、断片的な証拠を研究者たちが調べ、おそらくこうだったであろうという予想を並べたものだと言える。たとえば、鎌倉幕府の成立年についての解釈は、長らく1192年とされてきた。これは、数世紀にわたって受け継がれてきた伝統的な見解であり、多くの歴史教科書にもその年が記されていた。しかし、近年の研究では、実際には1185年に鎌倉幕府が成立した可能性が高いとする説が有力となり、歴史の見解が変わったのである。これは、新たに発見された文献の解釈や、科学的な手法による検証がもたらした知見の結果であり、歴史の見解がどのように時間とともに進化し続けるかを示す一例である。
研究者は、残された文献や物証を精査し、科学的な手法を用いて過去を再構築する。だが、どれだけ精密な調査を重ねても、すべての事実が明らかになることはない。歴史というのは、結果からの推論に基づいて造られたものであり、新たな証拠や解釈によってその見解は常に変化し得る。鎌倉幕府の成立年の見直しは、歴史がどのようにして「エアポケット」に似た不確実性を内包しているかを示す事例である。限りなく事実に近づこうとする学問の努力にもかかわらず、歴史の完全な真実に到達することは永遠に不可能であることを物語っている。
人は、見えない、という状態をとても嫌う。隠されているものは、つい見たくなるのが人間の性だ。それをあざ笑うように、限定的な空間と時間しか写さない写真の不完全さ。飛行機が急降下した結果から空気の穴を想像したように、人は写真という結果からさまざまな情報を読み取り、想像しようとする。だが、流れ去った過去に戻ることができない以上、謎は永遠に謎のまま。写真は、撮影された分だけエアポケットを生み出し続けるのである。
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