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「怒り」の内側にあるもの

「怒り」のエネルギーは悪いものだ、害になるものだと言われる。

私はADHDで喜怒哀楽が激しいほうだ。怒りのエネルギーも大きい。

今でこそ随分マイルドになったけれど、子どものころなんて先生には生意気を言う、同級生の男の子と殴り合いの喧嘩、上級生には目をつけられる、親子喧嘩も相当激しい。そういう子どもだった。

私は怒りのエネルギーが外に発散されるタイプだけれど、自分の内側にこもってしまうタイプの人もいるだろう。

怒りというより、「いらだち」といったほうが正しいかもしれない。
私の夫もそういうタイプかな、多分。

感情的になってはいけない、怒りはコントロールしましょう、アンガーマネジメント・・・

そういう言葉はよく聞く。でも、怒りって、そんなにネガティブなことばかりだろうか?

なにかを守るために硬い、殻のような「怒り」の感情がある。
私はそんなふうに考えるときがある。

「怒り」は激しい感情だから、目はそちらにむいてしまう。けれどもその激しい感情の「内側に何があるのか」を考えるほうがよほど大切なのではないだろうか?

私は夫にわかってほしい、共感してほしいときに、「知らない」と突き放されたとき、「怒り」が湧いてくる。

でもそれはよくよく考えてみれば、その激しい感情の下には「夫に共感してもらえなかった」という悲しみがあったような気がする。悲しみを覆い隠すのが怒りなのかもしれない。

怒りと悲しみ。

幾重もの怒りの下にある、本当の悲しみ。

怒りに寄り添えるとき、本当の悲しみがわかるのかもしれない。

子どももきっと同じかもしれないな。機嫌が悪くて怒っているように見えても、本当は、悲しくて泣いているのかもしれない。

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