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不器用を愛する

適応力と、対応力は、違うものだと思っている。

わたしは、適応力に欠ける。
不器用な人などとなるのかも知れない。


対応力は、あると思っている。

何か起きてもそれらを解決する為に、自分の心を味方に付けて、一つ一つ解決へ進める。



しかし、適応力に欠ける。

心がNOと言ってしまった時、そこに、その場所に無理やり長く適応させ続ける事は難しい性質を持っている。

短時間なら大丈夫だが、長期的にそこへ適応すると、かなりのストレスがかかる。



ただ、この適応力のなさが、わたしを幸せの方向へ導いたとも思えている。


誰かの基準に合った自分、誰かにとって価値ある自分、自分をブランディングする力、それらが長く続かない事がわたしを悩み苦しめた。
初めは努力する。
心を押し殺して全力で適応しようと頑張ってみる。


しかし、長くは続かない。
無意識に、自分の心に従う傾向が強いので、どうしても適応出来ない場所があった。


心がNOと言うと、身体が拒絶反応を示し出す。
吐き気と震えと動悸が現れる。


それが、苦しくて、わがままだとか、自分勝手だとか、不器用だとか、言われても身体が拒否して、動けなくなる。


ただ、そのお陰で、心と身体の誤差が少ない人生を送って来ている気もする。


我慢の容量が小さいとも言える。
忍耐力の使いどころが、先の見えない我慢には使えなかった。
ゴールを目指して忍耐的に努力するのとは訳が違う。



誰に何と言われても、自分の心と向き合わざるを得ない状況に必ずなる。


適応力のなさは、もはや、自分が自分に価値を見出す他生きる方法が見当たらず、誰かの価値基準に合わせられない事が、はみ出しもの、自分勝手だと、まだ、個性や特性としては受け入れられない社会背景の時代は、尚更そうだったと思う。


常識はコロコロと変化するのにも関わらず、当時、その時代での常識からはみ出す。


家族、学校、会社、社会、それぞれのコミュニティーに対して、ある程度の適応力は必要だと思う。


けれど、ここに心のバランスを失うと、きっと、そこに適応する事だけに価値を見出して、適応出来る事、そこの価値基準に価値がある事が、自分の価値だと強く思い出すと、
そこでの価値に執着し過ぎると、
わたしは、わたしを失ったのではないかと思っている。



献身的になる事と、適応し過ぎる事は違うのではないかと思っている。



心を守ったうえで、心を大切にしたうえで、その場所が良いものであって欲しい、だから、役に立てる事を探そう。


そう思えれば、その場所はただ適応するだけの場所ではなく、愛する場所になって行くのではないかと思う。









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