見出し画像

【読書感想文】「正しさ」との向き合い方

今回は2冊の本について、それぞれを読んで感じたことが繋がっているような気がするので感想文というか、読んで思ったことをまとめようと思います。

読んだのは以下の2冊です。


この2冊の本を読みながら考えたのは「正しい」「正論」というものとの向き合い方です。以前からこの「正しい」とか「正論」について思うことというか、悩むことがあって、4月にも自分なりに思うことを書き出しています。

そこから少し頭がクリアになってきたので、その上書き的な位置づけになればと思います。


「正しい」「正論」という言葉には「必要性」というものが付きまとっています。「Aという目的を果たすためにはBが必要」「AであるためにはBという状態であるべき」といった具合です。

「不要不急の外出」「不要不急の仕事」「不要不急のイベント」「不要不急の冠婚葬祭」……。この四字熟語は様々な言葉に付されました。この熟語自体の定義は非常に単純なものであり、広辞苑には、「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」と書かれているそうです。 定義を見ると、不要不急が「必要」に関わっていることが分かります。この熟語の核心にあるのは、必要の概念に他なりません。では必要とは何か。
(中略)
 今日、これから必要について指摘してみたいのは、それが何らかの目的と結びついているということです。必要と言われるものは何かのために必要なのであって、必要が言われる時には常に目的が想定されている。目的とは、それの「ために」と言い得る何かを指しています。必要であるものは何かのために必要であるのだから、その意味で、必要の概念は目的の概念と切り離せません。

國分功一郎.目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)(pp.94-95).新潮社.Kindle版.

「必要」には目的と手段という強固な関係があって、そこには余分なものが入る隙がありません。余計なものがない。そして、この関係は感覚的なものではなく論理によって成立しているので、無駄がなく、反論や反証をすることは簡単ではありません。


「必要」の対になるのかは分かりませんが、それとは違うあり方として「不要不急」というものがあります。「どうしても必要というわけでもない」のですから、無駄と言えば無駄です。別にやらなくても良いし、無くても生きていける。本来の目的に対して遠回りになるかもしれない、もしかすると目的に辿り着けないかもしれない。そういったイメージでしょうか。

國分さんはこれについて「浪費」や「贅沢」という言い方をしているのですが、何かを過剰にやっている状態、必要最小限を越えている状態なので、どこかでこれ以上は出来ないという満足点に達して終わりが来ます。そもそも「浪費」や「贅沢」はお金や時間などモノを対象にしていて、モノは有限なのでどこかで尽きてしまうというのもあります。

一方で、必要最小限という無駄のない状態は腹八分目というか、完全に満たしきってはいない状態とも言えます。まだやろうとすれば出来る、そこで終わりとは限らないという状態です。しかも、科学や論理がどんどん発達していく中で情報がアップデートされれば「自分が最小限で無駄のない状態と思っていたのに、実はそこにも無駄があった!」なんてことは簡単に起こり得ます。

何かを分かろうとして勉強したはずが、かえって分からないことが沢山あることを知ってしまい、分からないことを知るための旅は終わることがないということはよく言われることですし、自分も実体験としてそういう感覚は持っています。これは文中で「浪費」に対して「消費」であるとされています。

参考になったのは、二〇世紀フランスの社会学者・哲学者ジャン・ボードリヤールの消費論でした。
(中略)
ところが、消費には終わりがありません。なぜか、浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするのだとボードリヤールは指摘します。
(中略)
消費において人は物そのものを受け取らない。食事を味わって食べて満足することよりも、その食事を提供する店に行ったことがあるという観念や記号や情報が重要なのです。そして観念や記号や情報はいくら受け取っても満足を、つまり充満をもたらさない。お腹いっぱいになることはない。だから止まらない。そのような性質を名指してボードリヤールは消費を観念論的な行為とも呼んでいます。

國分功一郎.目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)


無駄を忌避して効率的であることを推奨するような風潮がありますが、それだけでなく「モノ消費」より「コト消費」を促すような風潮も感じます。

自分が欲しいものは家にてポチッとしたら早ければその日のうちに、遅くても数日の間に大抵のものは届いてしまうくらいモノに対する有難みや価値を持ちにくいというのはありますが、僕らはモノを断捨離することで無駄を省き、さらにその過程でコト、記号、観念といったものを求めるようになって、終わりのないスパイラルに入っているような気もします。

また、最近は「推し活」を推奨するような広告も度々見かけます。「推しがある生活ってこんなに素敵なんだよ!」という広告。僕自身も音楽やスポーツなどの分野で自分にとっての「推し」はあります。ただ、僕がそれらを推すのはそれによるリターンがあるからとか、それによって自分の価値がつくとかそういったことは特に考えたことがありません。推していることそれ自体が楽しいだけであって、推すことは何かの手段では無いです。

これは「人脈」という言葉を僕が忌避することとも関連している気がします。人付き合いはその人と一緒にいること自体に楽しさ、面白さがあれば良いと思うのですが、「人脈」という言葉の奥にはその人付き合いによって何かを実現できるといった目的と手段の関係性を感じます。


目的と手段の関係性には論理があると書きましたが、論理を担保するのは客観性です。誰が見てもそれが正しい、納得感があるということです。なので、誰が見ても正しいことについては「~であるべき」という言い方で話されることもあります。

僕はこれをとても厄介だと感じます。こうした「べき論」を見かけるときに、それを自分の感情としては100%では受け入れたくないとか、自分には他の都合もあるから易々と受け入れることは難しいとか、そういったことを感じます。なぜ厄介なのかと言えばそれが論理としての正しさがあるからです。


僕がこの厄介さを最初に強く感じたのは高校生の時だったと思います。僕は野球少年で、小学校は隣の小学校の少年団、中学校は部活でプレーしていました。単純にボールを投げる、捕る、打つという行為が楽しかったのと、それを自分のイメージ通りに自分がやりたいプレーを出来た時の喜びが野球をやる目的でしした。野球のプレーをすること自体が野球をプレーする目的というと文として変な気もしますが、そこには目的と手段という関係性は無かったということです。

ただ、高校になると話が変わってきます。僕は普通の公立高校の硬式野球部に所属しましたが、そこでは「自分がやりたいプレーよりもチームの勝利のためのプレーを考えろ」といった具合に目的と手段を明確にすることが求められるようになっていきました。

自分の思う通りのプレーが出来れば楽しいし試合で勝てる、勝つことは嬉しいことだし、であれば試合で勝つためにどうやって勝てるか考えるべきだし、勝つためには心技体を鍛えるべきで、そのためには普段から自律を心掛けるべきだし、、という流れで沢山の「べき」という正論が頭を占めていくようになりました。

しかも、野球は状況がグラデーションではなく1つ1つ明確に変化していく上に常にセットされた状態でプレーが始まるので、状況を論理的に整理してその場面における最善策を設定しやすい競技です。正しいプレー、セオリーという名の「べき」がここにも存在します。

そうした沢山の「べき」をこなそうとしていく途中で急に「あれ?全然楽しくない」と感じるときが来ました。今思えば、目的と手段が明確で余計なものがないことによる窮屈さ、ゆとりのなさがその時に感じた違和感の正体だったのだろうと思います。


大きな成果を上げようとした時に無駄を排除して生産性を高めることは必要です。目的と手段を明確にして、正しさを積み上げていくことのメリットは間違いなくあります。

僕はこれまで浦和レッズがどうやったら強くなるのか、ここからどうある「べき」かということについても考えて文章にしてきました。勝負にこだわろうとすればするほど、現状に満足して停滞することは避ける「べき」で、より強固に「正論」を実行す「べき」だということも書いてきました。


ただ、僕は目的と手段の境目が無いことをする楽しさや充足感があることも知っています。他者によって定義された「正しさ」に縛られないという自由な感覚を持つことはとても人間的だなとも思いますし、そういう状態でいられるときには心が平穏な感覚があります。

自分の外にあるものを見ることも大切ですが、それと同じかそれ以上に自分のうちにある感覚を拾い上げることも大切なはずです。

「競争」を作っているものは、自分自身の「勝ちたい」という欲求の他に、競争を強いる「世の中の仕組み」もあります。
人が関わるところに、競争が生まれることは避けられません。企業は売り上げを競い合うし、仕事でも出世をめぐって争うことは、ふつうです。子どもですら、幼い頃の遊び道具の奪い合いに始まって、成績や友だちの多さを競ったりしています。
ただ、社会における競争は、本来必要もないのに、誰かの都合で作り出された部分も多分にあります。本来は必要のない「バーチャルな競争」に、いつの間にか参戦させられていることも、事実としてあるのです。
(中略)
競争という現実があることは、誰も否定できません。ときには、負けることで不利益を受ける、だから勝ちにこだわる必要が出てくることもあるでしょう。
しかし、「勝つ」というバーチャルな価値だけにこだわると、終わりのない「競争」に突入します。完全な勝利(つまり安らぎ)は、どこにもありません。しかも、ほとんどの人は「負け」を味わうことになります。どこかで発想を切り替えないと、その負けの苦しみは、生涯つきまとうことになるでしょう。

草薙龍瞬.反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」(p.132/p.135).株式会社KADOKAWA.Kindle版.


それでも、こうした「正論」を分かっていながら実行しない自分に対して「それって甘えてるだけじゃね?」という声が聞こえてくるような感覚もあります。「目的と手段を明確にする」と「目的と手段の境目を曖昧にする」という相対する感覚は両方必要だけど、どのようなバランスで保つのが良いのかというのは、正直なところ結論が出せません。

一つ言えるのは、そのバランスはその人の本性、性格によって違っていて、全員が必ずこうあるべきというものではないのだろうということです。前回の文章で「自分で意思決定できる機会自体がただでさえ少ないのだから、そのわずかな機会くらい自分で考えたい、でないと自分が自分を生きている気がしないという思いが強いです。」という締め方をしました。

今回も明確に腹落ちするところまで考えを進めることは出来ませんでしたが、自分で「自分がどうありたいのか」を考えた上で、周囲に溢れる「正しさ」と向き合っていかないと、ただただ「正しい」とされる様々なものを消費し続けて、満たされることがないままの状態になってしまうのではないかとは感じました。

だからこそ、結論が「正しい」かどうかは別として、自分で考えるということはやめない方が良いのだろうと思います。


今回はこの辺で。お付き合いいただきありがとうございました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?