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【雑談】思考の外部委託

例えば、道を歩いていて進行方向が赤信号で、左右を見た時に青信号の車線が誰も来ていない状況の時に、信号が青になるまで待ってから渡るのか、誰も来ていないのだから待たずに渡るのか、人によって判断は分かれるだろうと思います。勿論、急いでいたら渡るけど時間に余裕があれば待つ、周りに人がいればその人に合わせる、といった条件次第で判断が変わる人もいると思います。

それぞれの判断の根拠として考えられるのは、「赤信号だから止まるのがルール」「誰もいないし、誰にも迷惑は掛からないのだから渡っても問題ない」といったことでしょうか。

僕は別にどちらが間違っているとも思わないですし、その日の気分によって渡るか渡らないか変わっているような気がします。ただ、ルール通り信号待ちをしている時に「法律という世間的に認められている正しさを全うしている」という安心感と「状況に対して思考停止してしまったな」という呵責のような感情の両方が立ち上がってきます。


「正しい」とされていることを実行している時は、誰かから責められる必要がなく、仮に責められたとしてもその「正しさ」を振りかざして対抗できるという安心感があるように思います。

「正しい」とされていることが、今自分が実行するにふさわしいことである時には何も問題ないです。ただ、時として「正しい」とされていることが今自分の目の前にあることには当てはまらないのではないか?という違和感や、そもそもこれは正しくないのでは?という批判的な考えを持った時、それでも「正しい」とされていることをそのまま実行するべきなのでしょうか。

長い年月をかけて、色々な人が知恵を持ち寄った上で現代で「正しい」とされる価値基準が作られているわけです。ただ、ほんの数年前まで「正しい」とされていたことが実は正しくなかったり、現代の技術などに合っていなかったりという理由から「正しい」ものが置き換えられることはあります。それなのに今一般的に「正しい」とされていることを半ば思考停止で真に受けて良いのだろうか、そういったものが僕の中に立ち上がる呵責の根底にあるような気がします。


STAR WARSのスピンオフドラマでDisney+で配信されている「マンダロリアン」のチャプター22:傭兵の回では、街中で何台ものドロイドが市民を危険にさらすような誤作動を起こしながらも、市民の雑用をドロイドが担っているので簡単に稼働停止させるわけにはいかないというシーンがありました。

また、この回を観た時に古い小説ですがHGウェルズの「タイムマシン」での上流階級の末裔であるエロイと労働階級のモーロックの関係性もそれに近いものだったことを思い出しました。

自分に必要なことを誰かが代わりにやってくれることで得られる便利さ、効率の良さ、楽、といったものの代わりに、自分でそれらを実行する能力が失われていくということへの警鐘になる訳ですが、誰かが用意してくれた「正しさ」をそのまま受け入れる続けることは、何が正しいのか、その場に適切なものは何かを自分で考えることを放棄している、自分で考える能力を失っていっているのではないかと思えてきます。


誰かが用意した「正しさ」を受け入れるということは、自分自身の「正しさ」も保障されます。また、その「正しさ」が間違っていることの責任を問われることはないし、ともすれば間違っていたことを責める側に回ることすら出来るかもしれません。

「正しさ」を疑ったとしても、結局本当に正しかったことが分かって徒労に終わる可能性があるし、間違っていると分かっても引き続き「正しい」と思っている人からするとやかましい面倒な奴と思われたり、自分が信じているものを否定されることになるので強い反発を受けたりする可能性もあります。

それでも、僕は何が正しいのかを自分なりに考えるということは必要なことだと思います。誰かが用意した「正しさ」に乗っかった時に、それによって出た結果が良くても悪くてもそれを自分のものとして受け入れられないような気がします。悪かったときは特に。


自分のものとして受け入れられないということは、自分でその結果に対する改善をしようという気が起こりにくいだけでなく、そもそも自分で考えていないので何を改善すれば良いのか分からないのではないかと思います。そうした時に何するかと言えば責任転嫁です。

自分は間違っていない、この「正しさ」を用意したやつが間違っている、だからそいつが解決しろ、そういったひたすらに受動的な態度になってしまうのではないかと。そして、そうした受動的な状態になった時に、今この行動をしたのは自分である必要があったのか?他の人であっても別に良いのではないか?という虚無感が出てきてしまうのではないかと。


街中に溢れている「正しさ」に対して全て疑ってかかるのはあまりにも大変です。無理だと言っても良いくらいです。大切なのは、自分が思考停止に何かを受け入れているということに自覚的であることだと思います。

自分で考えれば良い結果が得られるわけでは無いですし、当然失敗もたくさんすると思います。誰かが用意した「正しさ」に乗っかった方が物的、金銭的には得をすることもあるかもしれません。

ただ、僕は思考や感情の方が人間的な豊さにおける重要度が高いと思っているし、自分で意思決定できる機会自体がただでさえ少ないのだから、そのわずかな機会くらい自分で考えたい、でないと自分が自分を生きている気がしないという思いが強いです。


今回はこの辺で。お付き合いいただきありがとうございました。

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