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小説「テスカポリトカ」を読んで変わった時間感覚

おはようございます。
noteを始めてから毎日が楽しいY0K0です。

書くのも読むのも楽しくて、私はやっぱり文章表現が好きだぁと再認識し、読書量も増えています。
持ってる本をもう一回読んだり。
そして、読んだら書きたいのです。

というわけで本日は、Y0K0読書歴史上最高小説をご紹介します。
こんなポップな書き出しに全く合わない、裏社会の麻薬と臓器密売ビジネスを描いたクライムノベルです。

テスカポリトカ
佐藤究

残忍、残虐、残酷、果てしなく凶暴。
めくるめく繰り返される暴力。
読んでてキツい。ちょっと吐きそう。

なのに読み始めたら一気読み。
なぜそんなに引き込まれたのか。

それは、空間と時間の壮大さ。
そして、時間に対する独特の感覚。

舞台はメキシコ、インドネシア、日本、と国を跨ぎ、時間軸は古代アステカと現代を行ったり来たり。
その壮大なストーリーが現代の日本に集約されていく様は圧感だった。

そして、登場人物の一人「コシモ」の時間への感覚がとても興味深い。

じかんがふろにはいっている、そんな言葉を口にした時、少年院の法務教官はコシモを呼び止めて注意した。「まちがってるぞ」と言った。「正しくは『風呂に入っている時間』だ」

同じようなことはパブロとの会話でも起こっていた。じかんかゆうひにしずんでいる、と言ったコシモの文法を、パブロはゆっくりと訂正した。「夕日が沈んでいる時間ーだろ?」

コシモにとって時間は、主体や物事の入れ物ではなく、生命のそのものだった。時間こそが主語だった。時間のほうがこの世界を経験していると言う考えかたは、一般常識から見ればまるであべこべで、フィルムのポシとネガを反転させたような世界観だと言えた。

この感覚にすっかり魅了されました。

私は今noteを書いていますが、コシモの文法だと主語は時間なので、
「時間がnoteを書いている」
となります。


じゃあもともと主語だった私はどこへ?
例えば、これはどうだろう。
「時間が、私を使ってnoteを書いている」

なんだかすごくないか。
なんだから大きな力に自分が動かされているような気がしないか。

私たちはもしかしたら、ただの時間の媒体、道具なのかもしれない。

私たちは意志を持っているように思っているけど、実はそれは環境、つまり自分以外のものによって作られたにすぎない。

自分ではない何か大きなものに使われていると思うほうが自然ではないか。

そもそも我々はいつどこで生まれていつどこで死ぬかという最重要事項でさえ自分で決めらないのだ。

そんなものが主体になり得ると思っているほうが不自然ではないか。

という考えに至り、私は時間に関してコシモの感覚を取り入れてみることにしました。

しばらくそんなこと考えていたら本当に感覚が狂ってきたのか、最近、新幹線を乗り過ごしたり、仕事が休みなのに間違えて出勤してしまったり、いろんなことをやらかしています。

まぁ仕方ない。
時間が新幹線を乗り過ごしたり、休みに出勤したりするのに私が使われてるだけなんだから。

今日も、時間が目を覚ました。

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