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なぜ私たちは、「怠け者」や「素行不良な人」も支援するのか?

生活困窮者支援をしていると、一般市民の方から「お叱り」を受けることがある。

それは例えば「お金をギャンブルやお酒に使い込んでしまったり、仕事があるのに働きもしない怠け者だっている。そういう人たちを税金で支援するなんてけしからん!」といったものだ。

これに対して支援関係者や研究者は、「そういう人はごくごく少数」「実態としては働かないんじゃなくて働けないんだ」などと反論をすることがテンプレ化している。私個人としてはこうした“擁護”は時に不自然に感じることがある。

というのも、ギャンブルやお酒で一文無しになって泣付かれることはそんなに珍しいことでもないし、むしろそういう人の存在を認め、かつ「まあ、そういう人だって生きていてよいではないか」と開き直るほうが、よほど生活保護の無差別平等原理と整合的だと思うからだ。
よりラディカルに言うならば、「働かないんじゃなくて働けないんだ!」と強調すればするほど、「本当に働けない人とそうでない人」を選別する社会的な眼差しは先鋭化することになり、「働かない人」バッシングにある意味では加担してしまうことになる。

そこで今回は、私自身、なぜ「困った人」(として多くの人に認識されてしまうであろう人)であっても、支援の枠組みから排除しないのかということについて私見を述べておきたい。

そもそも、「無差別平等の原理」とは?

後述するように、今でこそ最低生活に満たない生活をしている方であればその困窮の理由に関わらず生活保護による保障の対象となるが、1946年に制定された(旧)生活保護法には第二条に「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という欠格条項が存在した。

第二条 次の各号の一に該当する者は、この法律による保護は、これをなさない。
一 能力があるにもかかはらず、勤労の意思のない者、勤労を怠る者その他生計の維持に努めない者
二 素行不良な者

また、この法律を制定するにあたり、当時の厚生省とGHQの間で「素行不良な者」の解釈をめぐって議論になり、「『飲む、打つ、買う』のような者」という意見が出たことが分かっている。(副田義也1995『生活保護制度の社会史』:21

つまり、「怠け者」や「素行不良な人」を保護の対象から外そうという議論は、生活保護法の制定をめぐる公的な議論においても行われていたというわけである。

しかし、1950年に施行された現行の生活保護法では、この欠格条項は撤廃され、第二条にはかわりに「この法律の定める要件を満たす限り」保護をうけることができる、という「無差別平等原理」が明記されるに至っている。
(※厳密に言うと(旧)生活保護法にも第一条で無差別平等に関わる文言を確認できるが、現行制度の無差別平等とは質的に大きく異なっている)

(無差別平等)
第二条 すべて国民は、この法律を定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を無差別平等に受けることができる。

この、「要件を満たす限り」というのは、「現在、本人の資産や他の社会保障制度(年金など)を活用してもなお生活に困窮しているのであれば、(勤労の意欲のない者であれ素行不良な者であれ)保護する」ということである。

これはちょっと納得できないという人も多いだろう。
(旧)生活保護法のほうがいいのではないかと感じる人がいても不思議ではない。

では、なぜ現行の生活保護法(および当事者支援を行う団体や関係者の多く)は支援にあたってその対象とするか否かの「条件づけ」をしないのだろうか。
今日はその理由として、3つの視点から私の考えを述べる。


「怠け者」「素行不良」の定義は難しい

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理由の1つ目は、「“怠け者”や“素行不良な者”」の定義と運用に関するものである。
例えば、飲酒を考えてみたい。「社会保障制度による給付金を初日に全額飲み代に使ってしまった…」など、極端な例であれば、「それは飲みすぎだ!けしからん!」と多くの人は思うだろうが、「月に一度、缶ビールを飲んでしまった」という場合はどうだろう。
「困窮してるのにお酒なんかにお金を使うべきではない!」という人もいれば、「誰だってたまの1杯くらい息抜きに必要」という人もいるだろう。

ギャンブルもまた同様で、月に1回1000円程度(社会保障の給付金で)パチンコに行く人を“素行不良”と評価する人もいればそうでない人もいる。また、その1000円が映画鑑賞などであれば問題に感じる人はぐっと減るかもしれない。そうなってくると、なぜ映画鑑賞はよくてパチンコはダメなのか?

このように、「素行不良な者は支援しない」という条件をつくろうとすると、即座に「“素行不良な言動”を誰が、どういった価値観から、どうやって定義づけするのか」という、極めて難しい問題に直面することになる。

お酒やギャンブルなど、数値化がありえるものはまだ「社会保障の給付金での飲酒はひと月1000円まで」などと設定することは、技術的には可能かもしれない。
しかし、「労働意欲があるか否か」など、“本人の気持ち”という極めて主観的で曖昧なものを、誰もが納得できる妥当性のある形で定義することなどできるだろうか?

「厳密な定義やルールづくりなど必要ない。対応する人間がその都度当事者のやる気を判断すればいい」という人もいるだろうが、支援を継続するか否かを判断するというのは、控えめに言っても「相手の生死について決定する」という行為である。そんな重い判断を現場の人間だけに委ね、負わせることは、明らかにフェアではない。
何より、公的なサービスをきちんとした定義やルールに基づくことなく運用するというのは法治国家として失格である。

厳しくしても、何も解決しない

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理由の2つ目は、「関わりを断ったり“排除”したところで状況は全く好転しない」という事実認識にもとづくものだ。

以前、日曜朝の『ワイドナショー』というバラエティ番組内で、ネットカフェ難民をめぐる松本人志さんの発言が話題になったことがある。

分からんように(ネットカフェの部屋を)ちょっとずつ狭くしたったらどう?
路上から始まるほうが俺はチャレンジしてる感じがする。路上なら頑張るんじゃないかな。

また、路上でも、ホームレスの方のダンボールハウスに撤去を求める張り紙が張られ、実際に行政によって撤去されるということがよくある。

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今年(2020年)の7月にも、横浜の馬車道駅で地域住民からの苦情を受けて鉄道事業者が居座らないよう求める大量の張り紙を掲示したことが話題になった。

当事者に対するこういった対応に関して、私が多くの人に知ってもらいたいことは、
ネットカフェ難民や路上生活者といった広義のホームレス状態の人たちを目の前から排除したり、より厳しい状況においやったところで、ホームレスの数は減らないし「頑張って働くということにはならない」ということだ。

私はNPO職員時代、毎月、夜の都内を歩いて路上生活の方に食料をお渡しする「夜回り」を行っていたが、その際、別の地域を回っていた時にお会いした方とまた別の場所で再会することがよくあった。

話を聞くと、次のような声を聞くことができた。

以前寝ていたA区の高架下は行政の規制が厳しくなって寝られなくなったので、こちらに移ってきました。


「ネットカフェで寝られなくしよう」「自分たちの区のダンボールハウスは撤去しよう」という対応をしたところで、当事者は別の場所に移るだけである。根本的な解決には全く繋がらない。

また、「路上に出れば」もしくは「路上ですら寝られない状況をつくれば」働くようになる…という仮説が正しいのであれば、上記の「A区の高架下で寝ていたおじさん」は働くようになっていないと説明がつかない。
ところが、実際なかなかそうはならない。

その理由は、(冒頭の「よくある反論」と重なるようで恐縮だが)今の日本では路上生活から職を得るのは極めて困難であるなど、まず構造的な要因がとても大きい。(最近ではマイナンバーカードを持っていないと工事現場などでの日雇いの仕事にもありつけなくなってきている)。そして厚労省の調査も示すように、高齢などでそもそも働くどころではないという人がとても多い。

構造的・個人的な様々な理由が複雑に関係することで、「路上に出れば頑張って働くようになる」ということはあまり期待できない、というのが現場のリアリティである。

当事者の「脱路上」に必要なのは、「引き締め」ではなく、丁寧な支援だ。

「新たな価値観」の可能性として

“怠け者”であれ“素行不良な者”であれ、私が彼らを支援の対象から外さない(=関わりを絶たない)という立場をとる3つ目の理由は、

「『困った人』(と多くの人から認識されてしまう人)こそ、今の社会の規範を見つめ、制度の在り方などを再構築するためのきっかけやヒントをくれる貴重な存在だから」である。

自分の価値観からは考えられない言動をする人に驚くたびに、「自分のなかにある常識」をゆさぶられる感覚がある。
面談などの約束の時間をすっぽかされたり遅刻された際には、
「『分刻みで約束を守る』という今の日本の“常識”」を意識させられる。

予期せず仕事が入ったのに、その日のうちに飲み代に使ってしまった人から「宵越しの金は持たない主義なんですよ」と言われた際には、
「『貯金を前提にやりくりする』という発想ではないやり方で人生を楽しんでいる人もいる」といったことも考えさせられる。

無論、守らなきゃいけないルールや規範もあるだろう…とツッコミを入れたくなる場面も多々あるが、少なくとも、「今あるルールや常識を常に疑い、より多様な人が生きやすいルールづくりについて考えるための余地」を残しておくことはとても重要なのではないか。

そして、現状のルールや制度は数的・権力的マジョリティ―によってつくられていることを念頭におけば、そういった枠組みから外れる人に対して“困った人”というレッテルを張って排除してしまったら、社会が変革する「余白」もまた失ってしまうのではないだろうか。

それは、あまりに勿体ない。

また、私の場合、関われば関わるほど、「困った人」(と一般的には言われるであろう当事者の方)から人間の多様さ、面白さを感じるようになった。

ずるさ、弱さ、したたかさ、頑固さ、懐の深さ…など人間の多様な性格が一人の人のなかにも多面的に見出すことができる。

様々な不正を働いては関係者を困らせているような人が、ある時は盗難にあった路上の仲間を心配して夕飯をおごっている。
数年前まで誰も信用せず、理由もなく他の路上生活の方をぼこぼこに殴っていた人が、今では殴った相手と座って談笑している。

そういう、一枚岩でない歪さや矛盾のなかにこそ、何とも言えない人間の“面白さ”のようなものを感じ、(個人的な好き嫌いは別として)「死んでもらっては困る」と思うのだ。

「そうは言っても、やっぱりちゃんと働いている人たちがやる気のない人を支える形になるのはおかしい」と思う人もいるだろう。

そういう人には、是非一度、“やる気がない人がやる気のある人に支えられているのをみる気分の悪さ”と“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”を天秤にかけてみてほしい。
そのうえで、改めて前者のほうが「気分が悪い」と感じるのであれば、それも一つの立場だろう。
ただ、その場合、“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”というコストは現場の人間が直接的に負うことになるわけだから、その点において、私は引き続き異議を唱えさせていただく。


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