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アメリカ大統領選の「対立」は、絶望ではなく希望である。

今年行われたアメリカ大統領選。

バイデン陣営とトランプ陣営それぞれの支持者の熱狂ぶりはすさまじく、各地で抗争が起こるほどであった。その様子は日本でも大々的に報道されたので、大統領選によるアメリカ国民の「対立」の様を目の当たりにし少なからず衝撃を受けたという人も少なくないのではないだろうか。

アメリカの大統領は日本の総理大臣とは付与される権限が比較にならないほど大きい。国の根幹が時の大統領のイデオロギーに強く規定されてしまうわけで、アメリカ国民としては誰が総理大臣になるかというのは文字通り「死活問題」である。

とはいえ、国民の生活を守ることを目指す“政”(まつりごと)が、国民の「対立」をもたらしてしまうというのは一見本末転倒なようでもある。

しかし、筆者は大統領選によるアメリカ国民の「対立」の様子を、羨望にも似た感情をもって見つめていた。

というのも、政治というのはまさに市民間の対立や価値観の違いを前提としてはじめて成り立つものであり、こうした対立がきちんと顕在化するということは決して絶望ではないと考えるからだ。

ある共同体における人々の価値観や理想とする社会像が完全に一致しているような場合、そこに利害対立などは生じない。であるならば、人々の意見を交わし合ったり、何らかの合意形成を新たに行う必要もない。そのような場所では政治など必要ない。

しかし、現実の社会においてそのような状況は起こり得ない。これは国のような大きな単位では言うまでもなく、社会における最小単位として定義される「家族」内でも同様だろう。

わたしたちは一人ひとり異なる人間であり、それぞれが異なる価値観や理想をもって社会のなかで生きている。だからこそ、一人ひとり異なる意見を持つ私たちが、それぞれの考えを尊重しながらも共生するための手法として政治が必要となるのだ。

この、共同体のなかに存在する様々な「対立」は、政治の前提であると同時にわたしたちがより良い社会をつくるために不可欠なものだと言っても良いだろう。

その意味で、「対立」は悪いものではない。

翻って、日本ではこれまで、国内の対立を不可視化するようなレトリックが繰り返し多用されてきた。

例えば、2012年の安倍元首相と自民党のキャッチコピーの一つであった「日本を、取り戻す。」には、「日本人の誰もが共有できるはずの純粋な日本」というものが本来(所与のものとして)存在しているかのようなメッセージが含まれているように思えてならない。

記憶に新しい、平成から令和へと元号が改められた際の安倍元首相の談話でも、「日本国民の精神的な一体感」という、日本で生きる人々の差異ではなく、同質性を強調するような表現が印象的であった。

元号は皇室の長い伝統と、国家の安泰と、国民の幸福への深い願いとともに1400年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものとなっています。この新しい元号も広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくことを心から願っています。

しかも、こうした談話が発表された2019年4月1日は、奇しくも外国人労働者の受け入れ拡大を推し進める改正出入国管理法が施行された日でもあった。

望月氏が著書『ふたつの日本ー「移民国家」の建前と現実』のなかで再三指摘しているように、日本では既に400万人をこえる「海外にルーツを持つ人びと」が生活をしているにも関わらず、こうした政策をめぐる政治的議論のなかでは再三「移民政策ではない」ことが強調されてきた。

いまだに「移民政策をとるべきか否か」という議論があるが、上述したように既に日本には多くの外国籍の方や海外にルーツを持つ人が生活しているのであり、私たちが本当に議論すべき点はそういった「広義の移民」の方々とどのように共生していくか、であるはずだ。

「同質性」を強調することで、共同体内部に存在する「差異」や対立を不可視化することは、権力者にとって実に都合が良い。統治にかかるコストが安上がりだからだ。

また、権力者でなくとも、様々な承認をめぐる闘争が激化する、アイデンティティが不安定にならざるをえない後期近代を生きる私たちにとって、「日本国民の精神的な一体感」といった”大きな物語”からは、ある種の安心感を感じてしまうことがあるだろう。

自分がマジョリティに属しているという感覚は、気持ちのよいものであったりするものだ。

しかし、繰り返すが、完全に一枚岩で同質な共同体など存在しない。

同質性を強調するナショナリズムは、それがもたらす「気持ちよさ」の代償として、同質性に「のれない」人びとや、その枠組みから外れる差異性を有する人々を排除してしまう。

実際には存在するはずの「差異」や「対立」を不可視化してしまうことで、「政治」の前提条件を骨抜きにしてしまうのである。

本当の絶望は、「対立」ではなく、この差異の不可視化による「反対意見の静かな抑圧」だ。

さて、アメリカ大統領選はバイデン氏の勝利という結果となり、その勝利宣言における「分断ではなく統合を」というキャッチフレーズが話題になった。

ここで問われるのは、「統合」が対立を不可視化させる意味としてではなく、「対立を前提に熟議をつくし、敵対的な分断を乗り越えるもの」として志向できるかどうかという点だろう。

そういった視点からアメリカの情勢を眺めつつ、わたしたちが生きる日本においても、対立を顕在化させながらも価値観の違いを乗り越えるような民主主義のありかたについて、引き続き考えていきたい。







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