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Winner’s vain

あのとき僕の人生ではじめてできた友達が泣いていた。
その本屋は坂道の住宅地の真ん中にひっそりとあり、知っていなければけして見つけられないような場所にあった。母の運転する車で着くと、ゆうとくんとお母さんが左のドアから先に降りた。僕と母も降り、母親同士が前で並ぶと、僕とゆうとくんもその後ろを並んでついていった。 森の中の小屋みたいだ。三階建ての、縦に長い僕の家よりもずっとひろく感じる。奥には暖炉もあった。僕とゆうとくんは、くっついたり離れたりしながらはしゃぎまわり、大きなソファに身体を沈めたり、ラ ンプや窓辺に置かれた動物のぬいぐるみを触ってみたりして、時々、思い出したように本を見た。僕らが本を選んでいるあいだ、母たちは店主の女性と話をしていた。 あっという間に夕方になった。窓から夕陽に焼ける湖が見えないかと寄ると、目に映るのは、遠く暮れなずむ空の色と、灯りはじめた家々の明かりだった。
「あんたたち、もう帰るから本持っといで」
 はーい、とつまらなそうな返事が重なり、僕とゆうとくんは顔を見合わせてほほ笑んだ。充分遊んだし、そろそろおなかもすいてきたころだ。ゆうとくんは僕とは別方向の階段を昇って行ったが、同じく二階の本が目当てらしい。 あれえ、どこだっけ、と困ったような頼りない声が聞こえた。僕の方はといえば、さんざん遊びまわったあとでも、あの本が置いてある部屋はちゃんと覚えていた。表紙を一目見たとき、これにしようと決めたのだ。ろくにひらいてもみなかった。欲しいものはたいていすぐに分かるのだ。僕は真っ先に飛び出しておろおろしているゆうくんのあとから、鼻歌を歌いながらゆうゆうと、まっすぐ目的の本のある部屋へと向かった。硝子の窓から差し込むオレンジの光が、足の太い木のテーブルの上の本の表紙にぴったりと降り注いでいた。抱きかかえようと左手を伸ばしたとき、背中で声がした。
「あっ、ここだ!」 ゆうとくんだ。僕は振り返る。額に汗を浮かべたゆうとくんの顔が、あるじを見つけた犬のように輝いた。
 「なんだ、ゆうとくんも、ここ?」
僕は軽い微笑を投げかけながら、無邪気なゆうとくんの表情を見ていた。
「うん、そうだったみたい」
息を整えながら近づいてくるゆうとくんと僕は並んで立っていた。
「それ......」
「え?」 
ゆうとくんが指をさす。僕の本だった。僕の本。本当はこのときまだ誰のものでもなかったはずの本を、僕はもう自分のものだと思い込んでいた。表紙をつかむ左手に力が入り、かすかに汗ばむ。 
「ああ、もしかしてゆうとくんも、これ、探してたの?」
つとめて穏やかに僕は言った。申し訳なさそうに、うつむく彼の表情は見えない。
「ほかのにしてよ。僕これだけだから」
 あるでしょ?他にも。僕がきっぱりと言葉を重ねるたび、ゆうとくんのうつむき加減は深くなっていった。でも、 とか、いやあ…とか、小さな声でぶつぶつ言っているがよく聞こえない。 僕は段々いらいらしてきて、本をつかんだまま下へ降りようとした。本は、宙で釣り合ってピタリと静止した。ゆうとくんの右手が、強い力で本をつかんでいた。はっとして、ゆうとくんを見ると、ゆうとくんも細い目を開いて、まっすぐに僕を見つめてい た。
裏表紙に赤みを帯びた光線が当たっている。僕らは正面から向かい合っていた。
「ぼくもそれがいい」 ゆうとくんの身体も半分赤く染まっていた。いつもへらへらしてるくせにおどおどしているくせにこんなときだけ......ゆうとのくせにッ!その時はもう、つかみ合いのけんかになっていた。ののしりあう言葉すらまだ知らなかった。 すぐに母たちが駆けつけて来た。本が取り上げられる。最後まで掴んでいたのは僕だった。かつがれて、そのまま下へ降りた。あとはもう喧嘩とも呼べない、みっともなく泣きわめくだけの時間だった。涙の粒でぼやけた視界の隅、遠くで女性の店主が困った顔をしていた。 結局、勝ったのは僕だった。泣いていたって関係ない。じゃんけんをした覚えもない。むしろ僕はかたくなにそれを拒んだのではないか。 ゆうとくんが母親に説得されて折れたのだと記憶している。とにかく僕は勝った。勝った……

僕が覚えているのはここまでだ。そのときの母がどんな顔をしていたか。帰りの車の中はどんな空気だったか。そして手に入れた本の中身も、タイトルすら、なにも。
いまふとあの日のこと思い出して、懐かしさからあの本をインターネットで検索してみようとスマホをひらき、僕は愕然とした。そこに打ち込むべき、言葉はなかった。
ふと思う。ゆうとくんも今、僕と同じこの画面を見ているんじゃないか。僕が忘れてしまった言葉をかれは覚えていて、彼だけが、その言葉を窓に打ち込むことができる。西陽を浴びてオレンジに染まる窓。そして懐かしい日を思い出しながら、どこかのサイトで、彼は懐かしい小屋の匂いとともに、もう一度あの本と出会うだろう。クリックする。数日後、彼のもとに本がとどく。包みを解いて本を手にしたとき、こみあげてくるのはどんな気持ちだろう。どんな思いでページをめくるのだろう。本を閉じるとき、どんな感想を抱くのだろう。分からない。ただ、それが喜びでしかないことは確かだ。そしてその喜びは、僕よりもおおきい。 僕のあの日にいまでもこだまするのは、
ただ獣のような勝者のむなしい叫びだった。




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