見出し画像

住所不定無職日記7日目 現金尽きる

 昨夜もまた眠られなくて睡眠導入剤を少し多めに飲んだ。おかげですっかり寝坊して8時半に目が覚めた。部屋の出入り口近くのベッドの子は今日も早起きで、ケトルに水を汲んでいると外へ出て行くのが見えた。他に3ヶ所のカーテンがしまっている。思ったよりも連泊者が多い。
 電子レンジについていたトースト機能を使ってみると、あまり美味しくないライ麦パンがしっかりこんがり焼けて当たり前だけど感動する。ただすっごくうるさいので毎朝使うのは難しいだろう。
 天気が良かったので洗濯する。向かいのベッドには外靴とスリッパの両方があるがベッドに灯りはなく気配がない。窓の前にはベッドの利用者の荷物があり、勝手に動かすのもはばかられる。動きがわかるまで待とうと眠くなって少し寝る。
 起きて気がつけば12時過ぎていた。流石にこの時間まで寝息も立てずにいるということはないだろうと(実際この隣人が夜中にやたらと色っぽい声で寝言を何度も言うのを耳にしている)、意を決して窓を開けて洗濯物を干してしまう。
 それから昨日の取材の文字起こしをする。1時間の内容を1.3倍速の音声入力で1時間ジャストで終わらせる。恐れていたよりもネタは取れていてホッとする。着替えてデパートに行く。
 

 ついに現金が尽きた。365円しか無くなった。25日になれば先月のバイト代が約9~10万円入る予定だけれどもう手の打ちようがない。
 しかし、私には切り札がある。そう、全国共通百貨店商品券だ。
 この商品券の素晴らしいところは、お釣りが現金であることだ。早速352円のパンを買って648円の現金を手に入れた。つまり25日までこういう狡い手を使って生き延びることになった。幸い宿もあるし死にはしない。

 電源のあるおしゃれな図書館に行って記事を書く。見開き1ページ約2000字。4時間やっても予定文字数まで全然詰められない。やっぱりやり方が悪いんだろう。途中で本を読んで休む。
 モノクロの写真集を手に取った。湾曲したビルのガラスのファサードに首都高が映り込んでいた。パラパラとめくると月島のあたりの路地の写真が続き、今度は住宅街の十数段程度の小さな階段ばかり。最後は高層ビル。人はどれも映っていない。「トーキョー・東京・Tokyo」というタイトルの写真集だった。見ているとどれも胸がギュッと苦しくなるのは、自分がもう東京のこれらの景色の中に混じることはないからだろうか。
 どの写真を見ても、カメラを構える作者の様子を思ってしまう。風景そのものではなくて、そこに立って三脚を立ててカメラを置き、タイミングを測って目を凝らす男性を思い浮かべる。
 数年前に行った地方の美術館の企画展で見かけた展示で、ほとんど霧のような粒子ばかりのモノクロ写真があった。画面の上半分が薄いグレー、下半分が濃いグレーというだけで対象らしいモチーフの原型を留めていない。空にも陸にも海にも見えたが、実際はその地域を流れる河川だった。タイトルは緯度経度を示す座標。きっとこの座標で私たちの生まれる何万年も前も同じような景色が見えたはずだ。「大切なのは何を見るかではなく、どこに立つかだ」というコメントがとても印象的だったのを思い出す。何万年の変化を経た河川なんて比較にならないくらい短期間で様変わりする東京の街のこの場所に立った理由はなんだったんだろう。

 他の写真家か誰かによって書かれた巻末の解説文を読んで、作者の素性を知る。定年まで銀行員を勤めた実業家で、退職後に専門学校に入り、一から写真を学んだという。プロフィールを見れば1934年生まれ。本の発刊は2018年。55歳で定年後、60歳まで会計事務所で再雇用され退職。解説文では単調な実業家人生の味気なさを補うように、第二の人生として写真に居場所を見つけていった作者の人となりを辿っていた。
 かろうじて5年ほど会社に勤めただけの私には30年以上同じ会社に勤めることは途方もないプレッシャーに思える。きっと養うべき家族がいて、家のローンがあって、壊すことのできない同じ日々の繰り返しがある。そんな日々を重ねることは到底耐えられるものではないけれど、彼は耐えた。耐えて、見つけた。
 アカデミー賞で話題の「ドライブ・マイ・カー」で作中作として注目を集めるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」では、人生を無為に過ごしてしまった47歳の主人公が「60歳まで生きるとして、あと13年もある」と残りの人生を嘆いていた。何者にもなれなかった自分はこの残りの人生を一体どうやって生きていけばいいんだ、と。作者の中にもきっと同じような通り過ぎていく時間への焦燥があったはずだ。彼が彼の人生で写真を見つけることができて良かったと勝手に思う。

 何冊か夢中になって読んでしまうエッセイも見つけたので明日も読みに来ようと思った。何せ時間だけはたくさんある。本を読んですっかり遅くなり、気がつけばデパートは閉店してしまっていた。
 帰りがけに現金化した648円を持ってなか卯に行く。500円のかき揚げだし茶漬けセットを食べる。駅地下街のなか卯は20時半過ぎだというのに随分と空席が少なくて、返却台は全て使い終わった食器で埋め尽くされている。トラブルでも起きて少ないアルバイトで回しているのだろうと思って様子を見ていたら、何人もの客が怒って途中で返金を要求して帰って行った。結局提供まで30分以上掛かった。初めて頼んだのでセット内容を理解していなくて、生卵をどう扱えばいいのかわからずに悩む。せめて温玉ならいいものを。結局3分の1はかき揚げ丼、もう3分の1は出汁茶漬け、残りは卵かけご飯にした。やたら複雑な食べ方をするのだなと思ったが、帰ってから不審に思って調べればセットに卵はついていない。あまりの忙しさに間違えて店員さんが卵をつけただけだった。正直ない方が良かったから得した気もせず、後味まで複雑だった。
 残りの現金で明日の朝用のコーヒーと牛乳を買った。

家計簿
■おやつ アフタヌーンティーセット(1600円、デパ地下内カフェで商品券払い)
■食糧 パン、コーヒー、牛乳   (商品券とそのお釣り払い)
■外食 なか卯(500円)

この記事が参加している募集

#新生活をたのしく

47,912件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?