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住所不定無職日記18日目 私は私が自分で決めるのを待ってる

 9時半に目覚めて断薬を決意。本来はショートスリーパーで物音ですぐ起きるから早起きなのに、こんな遅くまで寝てられるか。起きたらみんないなくなっていて、1週間前に会った清掃のおばさんと鉢合わせる。高齢者が働く横で働いてないのはやっぱ肩身狭いなと思いながらゆっくりコーヒーを淹れて身支度する。気がつけば宿の期限が明後日なので延長しないとと思って階下に移動するがカレー屋も休みで予約の人もいない。経営サイドの態度の悪いお兄さんたちが会議をしているので宿を出ることにした。
 
 内定先の人事の携帯に電話を掛ける。とりあえずアルバイトの件どうなったのか聞こうとするが出ない。折り返しがあるだろうと図書館に移動して待つがなかなか連絡が来ない。待っている間に生理痛がひどくなりロビーで横になる。薬を持ち合わせていないから買いに行くか考えるが、宿には痛み止めあるし買いたくないから我慢する。
 なぜか図書館が無駄に混んでいて回復したころには席がなくなってしまい、仕方がないから本屋へ移動して立ち読みする。拾い読みした小説のワンシーンにスクランブルエッグが出てきて猛烈に食べたくなるが、どうやっても食べられそうな場所が思いつかなかった。どこかの店のモーニングでまずいスクランブルエッグにケチャップが掛かったのがよく出てきたけどどこだったか思い出せない。
 午後になってサンマルクに移動して内定先にメールする。自分で保留にしたくせに、取り消しになったかと今度は気が気じゃない。他に応募できそうな場所を探そうかと思ったけれど、もういい加減探すのに疲れている。バイトでいいから働きたい。メールを送った瞬間に入れ違いで内定先から入社時期を少しだけ前倒した条件で改めて内定の連絡が来る。アルバイト期間なしの正社員採用。5月いっぱいフリーランスの仕事でつなげないかと来る。来た途端に今度は決断を迫られて焦る。




 憧れの始まりを思い出す。
 最初は雑誌だった。今では洒落た本屋に必ず置いてある旅の雑誌だ。高校生の時に立ち読みして、その頃はとにかく自分でこれを作りたいと思った。何度も読んだ。文章も写真も全部が好きで仕方がなかった。

 その頃、苦労はしてないけれど少しくらいは頑張って入った進学校ではしっかり落ちこぼれていた。一番順位が良かったのは、入学して最初の中間テストで360人中200番くらいだったろうか。テスト範囲が広すぎて全くついていけなくて、勉強しないまま当日を迎えたのを覚えている。生まれてこの方見たこともない順位の素点表を見て親に殺されると思った。どうしようもなかったけれど「テストの結果は帰ってきたか」と顔を合わせるたびに聞かれるのをのらりくらりと交わして過ごした。
 そのうち学祭準備期間に入り、ある日PTAの集まりだか進路相談会だか何かで親が学校に来た。クラスの友人たちと学祭に飾る絵の色塗りをしていた時に、母親が近くに寄ってきて「あんなひどい点数初めて見た。帰ったらとっちめるからね」と友達の手前ちょっとふざけたみたいに笑いながら声をかけてきたが目がマジだった。立ち去った瞬間、友人もいる前でその場に崩れ落ちて泣いた。帰ったらどんな目に合わされるか分かっていたから帰りたくなくてただ消えたかった。
 その後日、部活の顧問に呼び出され、夏の合宿に参加させないと親から連絡を受けたと説明された。「なんだ、あれだ、少し勉強の方頑張ってまた戻ってこいよ」と気まずそうに言われて、結局次のテストもダメで二度と部活に戻らずに辞めた。それからはもうダメだった。どれだけ落ちてももう勉強を頑張ろうと思えなかった。代わりに死なないために素点表の改ざんを試みるようになった。数人の素点表をコピーさせてもらい、巧妙に数字を切り貼りして無難な点数の複製を作った。コピーの際の紙の重なりで黒く影になる部分は修正液で消して再度コピーするなど仕上がりには念を押したが、無知過ぎて偏差値の概念を知らず不正し忘れ、点数の割に低すぎる偏差値であっという間に偽造物とバレて御用となった。

 あの頃の我が家の混乱はもうどうしようもなかった。兄も無理して受験して入った学費が死ぬほど高いだけの医学部養成私立で親が期待する成績が取れずにいたし、両親は稼ぐのに必死だった。そもそも二人の子供たちが実力以上の進学校に本人の意思とはあまり無関係に進んだのは、高卒の両親が自営業で休みなく働いていたからだった。小学校に上がる前から「頭が悪けりゃこんなクソみたいな暮らししか待っていない。絶対にいい大学に行け」と刷り込まれた。ことあるごとに「365日どれだけ人に頭を下げてお前らを食わせやってると思ってんだ」と吠える両親は、ほぼ毎日職場のいざこざを家に持ち込んでエンドレス夫婦喧嘩状態だった。
 食べられないようにわざとぐちゃぐちゃにひっくり返された食事だとか粉々の食器だとか腐った食材、怒声と叫び声、壊れる家具家電で毎日が成り立っていた。母も兄も私も変わるがわる家を追い出され、自ら家出もした。友達に恵まれたから学校に行くと本当に平和でギャップがすごかった。中学生までは同じ建物に住む人から逃げてくるように声をかけられる事もよくあった。痛い思いもたくさんした。楽しかったこともあったけど忘れた。いつも何時間も立ちながら怒られていた記憶しかない。でも誰が悪かったというわけでもなくて、なんかそうなっちゃた感じだった。

 毎日の楽しみは海外小説だった。自分の状況からかけ離れているほど救いになるから海外のものばかりを読んだ。異国の情景に没頭していれば忘れられたからブックオフで買い漁った。やがて実際に目で見たくなり、教科書や観光ガイドで国のことを調べ出すが綺麗な観光地の写真は見飽きていた。小説や映画に出てきそうなファンタジーの余白のある海外の写真をあの雑誌で私は初めて見た。だから多分好きになった。

 高校を出てからもやっぱり勉強はできなくて予備校に場所を移して同じ毎日が続いた。私と違って地頭の良かった兄は耳にタコができるくらい聞いた「旧帝大」に入ったものの、引きこもりになった。遅れて私も運よく適当に受けた都内の私立に引っかかったが、努力の成果ではなく大学進学にこだわった両親の熱量のおかげで他人より長く浪人できたおかげだった(それからずっと同期と年齢がズレ続けることになったが)。どこにあるかも何を勉強するかも知らずに親と離れたくて無理に進学した。進学してすぐに件の雑誌の出版社でアルバイトをした。アルバイト自体はそんなに面白くなくて、こんなにいい雑誌なのに作ってる様子はあんまり面白くないんだなと思って半年くらいですぐ辞めた(生意気で馬鹿なコミュ障でした)。

 何をしたらいいかわからなかった。
 絶望的なまま大学を卒業してしまい(フル単位で成績は悪かった)、本当にもう何も見つからないけれど講義でレポートを紙いっぱいに書くのと日記を書くのだけが好きだからなんとなく書く仕事を選んだ。でも書くのは好きだけど興味のないものを読み書きするのは本当に嫌いだった。ただ優しい人が多くて書くのは褒めてもらえたから少しは続いた。
 学生の頃はあんなにミソッカスだったのに、社会人になったら普通に褒めてもらえてすごく嬉しかった。だからめちゃくちゃ自分は才能があるんだとすぐに飛躍して調子に乗って辞めて旅に出て10万字くらいオチのない暗いだけの旅行記を書いて、でもそれを誰かに見せるのはどうしても恥ずかしいから自分で製本しようと副業で稼いで専門行ってデザインを学んだ。Web制作を学んだのもその一環だった。

 結局それも形にできないまま、他にも遠回りばかりして、気がつけば社会の役には立たない場所に立って随分と時間が経っていた。私が一人で関係ないことでもがいている間に、みんな一生懸命仕事を続けてキャリアを築いたり、家族をもったりしていた(母親からは「あんたは本当にアリとキリギリスのキリギリスを地で行った感じね」と言われた)。他人のようにうまくできていないことを恥ずかしく思うけれど、何回タイムリープしても私が私のままならやっぱり同じことをしていたろうと思う。
 こっちでもう一度運よくライターの仕事に巡り合って、私も何か明確なものをまた目指したくなって迷ったりもしたけれど、もう時間もお金もないから今の仕事をとりあえずやってみる。その中でまた何か力を入れられる場所が見つかるかもしれない。

 これは私の気持ちの整理の記録だ。決めるのが怖いから、決めざるを得ない状況に持っていて、あとは自分が決めるのを待ってる。
 



 

 私かわいそう!みたいなことを書くのすごく気が引ける。書いたことが起きた事の全てじゃないし、じゃあ自分が別の立場ならどうにかできたかと思っても、それはどうしようもなかったし、普通に私も努力不足だし素直じゃなかったから。こうなったのは誰のせいだとか、この出来事のせいだとか、過去の理由探しがしたいわけじゃない。だけど全部繋がってるから無視はできない。みんな違う形のスネに傷があって、相対的にみれば私よりひどくない人も私よりひどい人もいて、私もたくさん人を傷つけることをしっかりしてきた。できることは「誰にでも色んな側面があってみんな事情があるんだ」って思うことだけだ。

 
 

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