溺れる
この出来事、今もよくわからないんですよ。
それでもよかったら……そう言って大森さんが聴かせてくれた話だ。
彼女には幼い息子がいる。
大森さんがキッチンにいた時。
丁度キャッキャと楽しそうな声をあげて廊下を走り回っていた息子が、急にピタッと黙ったのを不審に思い廊下を覗いたのだという。
息子はじーっと床を見つめて静止していた。
「どうしたのー?なにかあったの?」
「あのねー、水があるのー」
息子は振り向いてこちらを見てそう言った。
もちろんそんな場所に水をこぼした覚えなどない。
「息子が水を零したか、何かしちゃったと思って……触っちゃダメよ!濡れる!ってそう言ってタオルを取りに行こうとしたんですよ」
その矢先。
息子がしゃがみ込みその水溜まりを“つん”と指先でつついたのである。
「そしたら息子が後ろ向きに“ばたーん”って倒れたの」
彼女の見ている前で、息子は思い切り後ろ向きに倒れていった。
咄嗟に身体を支えたが息子の身体は“ぐにゃり”と骨を失ったように力なく崩れている。
大森さんは、パニックに陥った。
「必死に名前を呼んでたら息子の身体が震え出したの。大きく跳ねるみたいにガクガクガクッて痙攣し出して自分の首元を思い切り掻き毟りだして」
救急車を呼ばなければ!と咄嗟に携帯電話を取りに行こうとした時。
こぽこぽこぽごぼごぼごぼ
苦しみもがく息子の身体から聞いたことのない水音がした。
明らかに、人の身体が立てる音ではない水音。
「なになになに!なになにが起きてるの!?って、パニックになっちゃったんだけど」
慌てる彼女の目の前で、一際大きく跳ねた息子が水を吐き出した。
「口と鼻から“ごぼごぼっ”て、音立てながら噴水みたいに水を噴いたの。痙攣して、首を掻きむしって、床はびちゃびちゃになってくし、もう、見てる私は意味がわからなくて……」
泣きながら救急車を呼ぼうと携帯電話を取りにリビングに行って、息子の元へ戻った。
「そうしたらね、息子、気絶してたんですよ。駆け寄った時に“ん?”って。それが、さっきまで水を吐いてたのにどこも濡れてないし床もカラカラに乾いているの。それに、わたしも息子を抱きかかえてたからずぶ濡れのはずなのにちっとも濡れていなかったの。いつ乾いたか全然わからなかったのよ」
大森さんが必死に名前を呼ぶと、息子はすぐに目を覚ました。
「おかあさん、ぼく眠くて寝ちゃったーって言うの。さっきの事なんにも覚えてないみたいで」
怪異は一回これ限りだったという。
原因もきっかけも何もわからないし心当たりもない。
当の本人の息子も何も覚えていない。
「……こういうのって、他の人もあったりするんでしょうか……?」と、話の最後に質問してきた大森さんに、僕が聞く限りでは聞いたことがありません、と返答した。
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