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死ぬより怖い

「そこに座りなさい!」

中野さんは帰宅するなり母親にそう怒鳴りつけられダイニングテーブルを挟んだ向こう側に座るように促された。

「本当にその時の母さんは凄い形相をしてて……もう、言うことを聞くしかない雰囲気だったから、大人しく向かいに座ったんだけど」

中野さんは某所企業で働いてもう10年目になる40代の男性である。

母親に物凄い剣幕で怒られるような年齢ではないから、帰宅するなり怒鳴りつけられた事に心底面食らってしまった。

「あまりに凄い剣幕だったから俺も面食らっちゃってさ……。お、おうおうって言って座ったんだな、向かい側に」

その時の中野さんには母親がどうして怒っているのか皆目見当もつかなかったという。

だから、これから一体何について叱られるのだろうかと内心ではどぎまぎとしていた。

ちなみに特に怒られるような心当たりは無かった事がさらに中野さんの焦りと恐怖を掻き立てた。
気付かないうちに、どこかで母親の逆鱗に触れたのかもしれない。いや、この剣幕だから……逆鱗をふみぬいたのかも、と。

「いや、どうしようかと思ったんだよ。あんなに怒った顔してたのは……いつぶりだったかなあ?たぶん、小学校とか中学校の頃に危ない場所に行ったり危ない事したりとか……そういう時にドーンと怒った時……それ位ぶりにそこまで怒った顔を見たんだよ」

ダイニングテーブルの向かい側。
母親は口を噤んだまま一言も喋らず、ずっと“明らかに怒った顔”で中野さんの顔を見つめていた。

そのあたりで、中野さんの心の中にやっと自分がとんでもなく拙い事をやらかしてしまっているのではないか、という焦りが噴き上げてきたそうである。

「何だろう、何だろう……俺、何したんだっけ、知らない間に車をぶつけたり、必要な物を捨ててしまったり……あと家電を壊したのかな、とか……」

黙りこくってテーブルの上を見つめている母親に、中野さんは必死に心当たりを探りながら語りかけた。

「なあ、俺何かしたかな?」
「…………」
「もしかして洗濯機に洗剤入れすぎて壊しちゃったりとか、書類捨てたりとかした?」
「…………」
「何か言ってくれないとわからないよ」

心当たりを吐き尽くしたが、母親は何も言わなかった。
ほとほと困り果てた中野さんが「お茶を淹れようか」とぽつりと呟いて立ち上がった時、やっと立ち上がった中野さんに釣られるようにして母親が顔をあげた。

「なあ、俺さあ」

何かしたのか?一つも心当たりがないんだが……と続いて問おうとした所に、やっと、母が口を開いた。

「なあ、あんたは何で死のうとしたん」

「えっ?」

中野さんはあまりの唐突な問いに、帰宅してすぐ怒鳴りつけられた時よりも面食らってしまった。

中野さんは、今、仕事から帰宅したばかりである。
死のうとした……という、そんな記憶は一切ない。

「何言ってるんだよ」
「辛い事があったんか」
「ええ……?」

確かに、仕事が辛くないと思えば嘘になる。

それはそうだ。毎日出社してノルマに追われる日々に多少なりとも辛さを感じないと言えばそれは全くの嘘だ。

「いや、そんな事は」
「じゃあ、何で死のうとしたん」
「してないって」

死のうとした、何故だ、としきりに問いかけてくる母親を見つめながら、中野さんは今現在の自分が置かれている状況を必死になって整理しようとした。

今日、朝起きて身支度を整えて出社して、ついさっき帰宅してきたばかりである。

なんなら、母親の顔を見るのは久しぶりであるし、こんな風に怒られる覚えは全くない。

「あれっ」
「なあ、何で死のうとしたんや」

「いや、母さんいつ来たんや」

母親の顔を見るのは久しぶりだ。
冷静に考えれば当然なのである。

母は現在、自分が住んでいる東京から随分と離れた秋田に住んでいる。
一人暮らしをしているこの部屋で帰宅する自分を迎える……などということは起こり得ないのだから。

「あれっ?」
「死にたかったんか」
「えっ?いや……?」
「死にたないのに死のうとしたんか」
「わからんけど、別に死にたくはないで……」
「ほんまか」
「うん」

素直に「別に死にたいわけも、死のうとした覚えもない」と答えると母は一つ「そうか」と頷いた。

「その瞬間に、視界がクルーンってひっくり返ったの。眼球が上に向かってぐぐー……っと引っ張られたみたいになって、顎がぐーって上に引っ張られて……その時変なんだけど“アレッ?!”って思ったんだよね……」

母が「そうか」と呟いた瞬間、ふっと全てを思い出した。

「あれ、今、俺、首吊ってる!ってそこで“気付いた”感じ。吊ったのは自分だから忘れるわけないのにね、本当にその瞬間まで忘れてたんだよ。それで、まずい!って思った瞬間に必死にもがいて、首にかかってる縄の隙間に手を入れて、思い切り引っ張って」

――――ドスン!

と、縄が切れたのか中野さんの身体がリビングのフローリングの上に落ちた。
あまりの苦しさにもがいている最中、薄らとした意識の向こうで携帯電話の着信音がした。

「死ぬ、やばいやばいって思いながら嫌に冷静に“あっ、電話とらないといけないな……”って思って、携帯電話があるソファまで這って行ったんだよね」

母親からだった。

「電話に出たら電話口の向こうで母さんが「よかった、よかった、」って言うから、どうしたの、何かあったのって聞いたら「昼寝してたら夢にあんたが出てきて首吊ってたもんだから、びっくりしてかけたの」って泣きながら言うんだもん。こっちがびっくりしちゃったよ」

中野さんは母親と電話で話している間にやっと自分の状況を思い出した。

「全然、別に物凄く辛い辛いって思って死のうとしたわけじゃなかったんだけれど、ふっとした瞬間に絶望してしまって……思えば良いことなんてないし、ああ、生きていても仕方ないのかもしれない……って、そう思ったら勢いで……その覚悟もないのにね」

死ぬ間際の夢か、走馬灯の中で怒っていた母親よりも実物の母親の方がもっと怖いから……というわけで中野さんはまだ「自殺未遂をした」とは明確に申告していない。

いつか言わなければいけない……と思っているものの、母親は何となく知っている気がしてならないから、言うのがとても怖いのだ……と。

「それこそ、死ぬより怒られる方が怖いと思うよ……」

いつ話すか、今のところは未定だそうである。

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