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匿名と平等のなかで距離感を選ぶ/体感研究報告書

スレッズの何気ないポストに、フォロー外の人からリプライが来た。ともにタメ口だった。しかもつい先程まで会話をしていたくらいの自然さで。何度見ようと知らない人だったので、敬語で返信をした。

Xでおすすめタイムラインに流れてくるバズポストには、大概は敬語のないリプライがついている。それらは大抵投稿主の知り合いではなく、週十件、週百件にわたる“知り合いもどき”たちだ。


先に否定しておきたいが、敬語でないことを許せないタイプではない。私も年上の人から敬語で話される方が距離感が掴めず難しいなと思うし、俳優の二宮和也さんがテレビで大御所先輩方に敬語なしで急接近する理由を「先輩は自分より先に死ぬ確率が高くて、甘えることができる時間が限られてる。生きているうちに甘えておかないと死んでしまう。」と話していたのを聞いて深く納得もした。

冒頭の出来事も特に不快とも思わなかった。ただ、敬語を崩して良いかどうかという距離感を自分で選んでいるかどうかでいうと、選んではいない行動だよな、というのが素直な感想である。

この“距離感を選ぶ”というのは、今のソーシャルネットワークにおけるあらゆる問題の引き金となっているとたびたび思うことがある。匿名と平等というネットの醍醐味であった自由。それが距離感を忘れさせているのか。

「これマジ?最低」「きっしょ」「いなくなればいいのに」など親しい間柄でも言わないような言葉が、当たり前のように並ぶSNS。距離感のバグだ。そもそもそれが当たり前のように並ぶこと自体、麻痺している。



先週の「星野源のオールナイトニッポン」放送後、いろんなメディアが星野さんを悩ませた誹謗中傷を取り上げた。とあるゴシップがSNSで拡散されて(その内容は非常に興味がないものなので省略)短時間で本人が否定するという対応の速さにも驚いたけれど、ラジオで夫婦揃って肉声でゴシップへの否定と意思表明をされたことに、出来うる限りの最大かつ最高の対処法だなと思った。

昔オードリー春日さんのフライデー報道に対し、相方である若林さんがラジオで本人にブチギレトークをかます(かつ奥様であるクミさんも登場するという)というやり方で、事実は消えずとも大きな笑いに変換し、鎮火へ風向きを変えたことがあった。類に漏れず私も「敵はこんな近いとこにいたのか」という若林さんの絶叫とまるで他人事みたいに相槌打つ春日さんにお腹を抱えて笑ったし、何度聴いても漏れなく笑う。

その時のことを、星野さんは「いろんな岐路がある中で本当に細い道を通って、聴いてる側が爆笑できるような本当にすごいラジオだった」と過去の『あちこちオードリー』で話していた。事実であるかないかという点は異なれど、センシティブな話題で世間の意見を食らう、そんな世間に返答するという環境は似たようなもの。そして何より、星野さんは芸人ではない。

そういった狭き門をくぐり、誠心誠意のコメントに夫婦揃ってのステートメント、からの“新垣結衣への質問コーナー”で微笑ましいエピソードト笑いを届けるというエンタメに昇華させてみせた。誹謗中傷という悲しい事実は残るが、清々しさもある。ラジオパーソナリティーとしての妙を目の当たりにした日だった。その後のニセさんのお悩み相談も不可思議な米粒考察も、やはりたくさん笑った。



「あなたの誹謗中傷で人が死ぬかもしれないということをわかってください」
誹謗中傷防止のためによく言われているフレーズだが、少し的がずれているのかもしれない。誹謗中傷をする人たちは、きっと自分たちの言葉に人を殺める力があるとすでに知っている。

政治や環境問題、あるいは世界的なこと、山ほど否定し、声を上げるべきことある。精算されていない過去もありすぎる。でもそんなことよりトレンドを占めるのは、著名人やインフルエンサー、さらにはメディア活動をしていない一般人にまで向けられたゴシップとヘイトの数々。

SNSの普及でリアルと急接近している今、匿名と平等のもと生まれた自由が一人ひとりの手の届く範囲を広げている。他の一般人へ、インフルエンサーへ、著名人へ。

そうしてあちこちで“知り合いもどき”が発生しては火をつけ回り、自分にはまっく関係のない他人の不倫や容姿、生活にまで、簡単に外郎売を読み上げてしまいそうなほどの口の回りで、颯爽と暴言や誹謗中傷を吐き捨てて行く結果が、相次ぐ誹謗中傷問題にある。人が死のうと、蔓延し続けているのが現状だ。

これが無意識で行なっていることというのか。むしろ相手も同じ人間であり、自分の言葉や行動でその人の何かが変わると把握しているが故の“口撃”ではないか。でなければ、発言後に「法的手段に出る」と聞いていそいそとポストを消さないだろうよ、と思う。

指摘されて狼狽えるのは、心あたりがあるからだ。単純な手先の行動の話じゃなくて、もっとずっと頭の奥にある「人の心を砕いてやろう」という自覚に。


手が届く範囲だから誹謗中傷が生まれていいわけではないのは言うまでもない。ネットワーク、さらにはSNSの普及でネットが現実並みの社会を形成するようになった今も、人が介在している以上、人to人のコミュニケーションでしかない。つまりは、人として何をするのは良いことで、何をすることが良くないことなのかという“弁え”からは逃げることができない。

本来、弁えというのは社会で形成されていくものだ。小さい頃の家族の叱りに始まり、学生時代の友達との喧嘩やいざこざ、バイト先や就職先でのミスやお咎めと、苦い思い出や恥を積み重ねてバランスが整えられていく。その均衡を10代、20代で整えることができる人がいたら、それはものすごく優秀な人だと思う。

身の程を弁えろという言葉は大嫌いだが、弁える=物や物事を見分けるということは時代が変わっても、人とのつながり方が変わっても必要なものに変わりはない。ネットが普及しても、それに生かされているとしても、私たちが鍛えられ向き合わなければいけないものは、いつだって現実に存在している。


140文字という制限でなんてことのないアレコレを呟いていた時代はもう帰って来ず、今はキャッチコピーのように強い言葉をできるだけ多く詰め込むことで負けまいと応戦する時代。自分を上げるために他を下げる。

マイノリティはマジョリティになり、立場を変えて同じ流れを繰り返している。少し気持ちがわかる分、頭が痛い。こういう事象にぶつかるたび『羅生門』を思い出している。

こうしたムーブメントは140文字の制限が故かと思っていたけど、スレッズもそういうご意見番とお気持ち表明が文字数無制限で流れてくるようになったので、オードリーの若林さんがポストしなくなったのを良いきっかけとし、そちらは去ることにしたのが先月頃。相変わらず私はいいねとかリポスト(最近言えるようになった)とかつかない人間かつ友人も極めて少ない人間ですが、たまに長文の手紙をくれる友人が一人いることを、誇らしく思うのです。

でもふと外でご飯を食べたいなと思った時に気軽に誘おうと思う相手が思い浮かばないことは少し寂しく感じたりもする。とはいえ、しょっちゅう出かけたい、集団で集まりたいとは思わないのが我が儘精神。人付き合いっていうのは現実だろうと非現実だろうと難しいったらありゃしない。

2024.06.04

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