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20代前半で鬱病になった話#3

全てに絶望する。それが鬱だ(闘病生活前半)

 ほぼほぼ鬱寄りの適応障害という診断が下り休職してからの闘病生活だが、すぐに良くなるだろうと踏んでいた私の予想を華麗に裏切ったこの病は何故か急激に悪くなることになる。というのも、恐らくではあるが私が初めて自分の心と身体のSOSを自覚し、受け止め、耳を傾けたからこそ転げ落ちるかの如く心身の調子がどん底になったのだろう。本当はとっくにこれ位のレベルまで可笑しくなっていたのに、ただ気付かないふりという謎の武器で騙し騙しに生きて来た代償なのだと思う。

 さて、どん底に落ちてからの生活だが、落ちるまでが苦痛の絶頂かと思いきや、まさかまさかの落ちてから待っていた苦痛の方が化け物級に大きかった。正直、毎日どうやって生きていたのかも余り思い出せない事が多い。真っ暗な自室で遮光カーテンを閉め切って、いつ寝ていつ起きるかも判然としない生活だった気がする。実家にいたので両親と妹と弟も一緒に住んでいた上、実家の向かいに店を建てている自営業の父が頻繁に様子を窺いに来てくれたおかげで死なずに済んだ。何を大袈裟なことを言ってんだと思われるかもしれないが、本当にいつ死んでも不思議ではなかった。そんな生活を送っていたのだ。

 病院から処方された薬を飲むものの、効いてる感じはせず、身体が恐ろしいまでに重くて思う様に動けない。一日の大半がベッドの上。食欲だけが取り柄だったのに見事に失せ、いざご飯を前にしても喉を通らない。夕暮れになると自然と涙がボロボロ出るし、ぴったりな形容の言葉が見つからないが、陰鬱な思考に脳味噌は蝕まれ、喜怒哀楽の内の哀の感情に心は占拠され、漠然とした不安に襲われる。そして、何の生産性もないまま一日が終わってしまう事に焦燥し、怯え、再び泣く。子供ぶりくらいにワンワン泣く。相変わらず胸は痛いまま。この状態がいつまで続くのだろうか。果たして良くなるのだろうか。一つもポジティブな思考や感情は沸かず、ただただ暗闇に呑まれた自分の人生の内の一日をどうにかこうにかやり過ごす。そういう毎日だった。

外へは一歩も出られなくなった。全てに対し自信を喪失し、車の運転がまずできなくなった。気づいたら声も微かにしか出なくなっていて、次に脚に力が入らなくなってまともに歩く事もできなくなった。心がここまでの不調を生み出すのだ、全く恐ろしいし立派な大病である。鬱に理解のある父に対し、母が理解が下手くそだったのも割と堪えた。私の吐き出す溜め息に「また溜め息?溜め息ばっかり」だとか「大丈夫だよ頑張りなさい」だとか、とりあえず世で言われている精神が参っている人に言ってはいけないワード全てを踏襲してんじゃないかって程に、的確に私を追い詰める様な発言をしていた。すっかり病から回復した今では普通に母とも仲良しだが、あの頃は母が嫌で仕方なかった。抵抗力ゼロの私は母の言葉にただ泣くことしかできず、しくしく涙を流す私を見て「え、何で泣くの?」といった表情を浮かべる母。心療内科医にも「母親からなるべく距離を取って生活した方がいいね」とアドバイスされるまでに、母と鬱病の私の相性は頗る悪かった。

 薬は最初は胸の痛みを和らげる漢方と、サインバルタ錠から始まったと記憶している。診察は二週間に一回。漢方は効き目が見られず早々に処方箋から外れ、ルネスタ錠が仲間入り。それでも眠れず、ベルソムラ錠が加わった。ある程度健康優良児だっただけに、自分がこんなにも薬を飲む生活を送るなんて夢みたいだった。夢であって欲しかった。生活費に関しては、休職してから傷病手当金を受けてそれで賄っていた。自分の貰っていた給与の三分の二の額が貰えたと思う。最大二年半程受給できる。心療内科受診料と処方箋料を併せると月一万以上かかっていた為、非常にありがたかった。引かれる税金の高さに中指立てたくなった事は何度もあったが、病気になって初めて日本の制度に感謝した。ただ、もし鬱病と診断された方がいるのであれば私は自立支援制度を利用することを薦めたい。自立支援制度を利用すると指定の医療機関の受診料とそこで掛かる処方箋料が免除されるのだ。私はこの制度の存在を後々知ったので、一番医療費にお金が掛かった時期は全て自腹で過ごしていた。お金の心配があっては、どれだけ療養に集中したくてもそれだけで不安が募って最悪鬱病を悪化させかねない。だからこそ、こういう制度の利用は本当に大切だと思う。(※因みに、これらの情報は私が闘病していた当時の物なのでもし制度を利用する場合はしっかり自分で調べてくれ)

 さてはて、絶望エブリデイで光の筋すらも見えない闘病生活前半。どうやってこのスーパーネガティブお先真っ暗OLに治る兆しが見えていくのか…乞うご期待。


#3 【完】


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