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バラモン左翼による「勉強不足」との指摘はいつまで通じるか


前置き

Twitterでこぼそうとしたら、思いの外に話が長くなってしまったので、最近アカウントを取ったばかりのnoteにまとめてみたぜ。名もなき、バイセクシャルの雑記です。

本旨(ここだけ敬語)

現在進行形の某騒動とも関連し、ふと行き着いた考えがあるのですが、私は個人的にLGBTQ+の問題について、何かあると「勉強不足」とするフェーズは、もう終わった方がいいんじゃないかと思いました。以下にその理由を述べます。

※当noteで着想の切っ掛けになった騒動には触れません。

各論 

1.現在、当事者の一人として思うこと

私は現実の社会で、自分がバイセクシュアルであることは公表できていない。一部の友だちだけが知っている。そして、バイセクシュアルと言っても、持てる好意は同性である女性の方に片寄っており、異性である男性の魅力への感受性は低いことを自認している。

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以前、会社の同僚が結婚した際、同僚は会社の皆から祝福され、お祝いされていたが、当時クローズドで女性と交際していた私は皆と一緒に同僚を祝福しつつ、自分と彼女の行き着く先に同様の光景は、まず有り得ないだろうなとまざまざと感じて、正直羨ましかった。

私は元々結婚願望のない人間だったが、今の日本では同性間だとそもそも「結婚できない」。同性間という前提を据え置くと、最初から可能性を断たれてしまっていることに感じる重たさはある。当たり前のように、好きになった人と堂々と付き合えて、未来には結婚も想像できるなら、それはやはり羨ましい。

異性愛者と他のセクシャリティーの人では、社会における立場は大分違う。私は公表した場合として、想像できる周りの人の無理解が怖い。そして、私が抱えるこのような苦しさは、セクシャルマイノリティーとして、決して特別なものではなく、多くの方に体験があるか、あるいは現在進行形でお持ちの人も多い感情じゃないかと思う。


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しかし、他方で、少なくとも一般の人々の意識としては、LGBTQ+はそれなりに認知を得たとも感じているのだ。確かにセンサーを張れば、偏見を感じる意見に出会うことも少なくないが、それは脅威に思える類のものではなく、私も他の多様な属性の人に対し、無意識の内に持つような程度のものである。要するに「人として普通」なレベルのものであり、絶対悪や脅威として裁きたくなるようなものではない。

それどころか、偏見を感じた意見に「今のは偏見じゃないですか」と指摘すると、焦ったり動揺したりした様子で「いや、自分は偏見なんて持っていない」と弁明するような人を、特に若い人に見る気がしている。その受け答えの是非に関する観点は今、語らないが、私がそういった態度に見るのは「偏見を持った人だ」「差別的だ」と思われることへの強い抵抗感であり、いっそ「怯え」と表現しても差し支えなさそうな感情だ。

これは弱者に対する態度ではないだろう。LGBTQ+が偏見に晒されて当然であり、差別される階級として社会認識が形成されているなら、こんな対応は有り得ない。率直に言ってああいう態度は、まるで不用意な発言を貴族に咎められた一般市民のそれだ。

LGBTQ+はそれぐらいのバックを持っている。現実の社会と制度上では、苦しい立場に置かれている部分も多いが、人々の意識レベルでは変革が起きており、相手がLGBTQ+だからと石を投げる風潮は、もう過去のものだ。個人単位ではそういう人もまだまだいるが、スタンダードな態度ではないと感じている。


2.「勉強不足」と責められる人たち

当記事の表題に入れた「バラモン左翼」という言葉については、下記の桜井政成研究室(出張所)さんのnoteに分かりやすくまとめられている。フランスの経済学者であるトマ・ピケティ氏が論文の中で使った言葉であり、すごく簡単に言うなら「高学歴な左翼」だ。

トマ・ピケティ氏の論旨については、このnoteで掘り下げる気はないのだが、当noteの主旨としては別件としても面白く、記事にまとめて下さっている方がいらっしゃるので、引かせて頂く。興味のある方は是非。


話を戻すが、バラモンという言葉は元々、インドの伝統的なカースト制度で使われる言葉であり、上級カーストの僧侶や知識人のことである。ここで私は「バラモン左翼」を単に「高学歴な左翼」ではなく「高学歴で宗教的、あるいは教祖的な革新派」もしくは、それに同調し、それを信奉する信徒のような人々として認識する。

つまり、、

何かあると「勉強不足だ」と他人に言ってしまう人たちのことである。


この人たちが何をどれくらい勉強しているのかは、人それぞれだろうが、この人たちはそう仰るからには、指摘した相手より、特定の事柄に対し深い見識を持っているはずなのである。

深い見識を持っているがゆえに、明るみになっている事実や、既に議論が済んで一定の結論が出ているようなことを、そういった前提知識をすっ飛ばして、この人たちの前で語ると突っ込まれる。

実際に、物事を深く把握している人に取ったら、素人の見識など「阿呆か」と思えることも多いだろう。しかも、そうやって突っ込まれる素人の意見というのは、大体にして頓珍漢なのである。

そして、学問や知識の探求が積み重ねの上に成り立つ以上、そこまで「前提からしてずれている素人」に、深い思想とその上で成り立つ結論を伝えるのは困難であり、かかるリソースは莫大なのである。結果として「その話題について語るなら、基本的なことぐらい勉強してくださいよ、あるいは調べてから言ってくださいよ、そしたら、貴方のような意見は出せないはずなんですが」という話になってしまう。

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これは難儀な事態である。こうなってしまうことの是非についても、当noteでは語らないが、この流れは追おうと思えば追えるものであり、全く理のない話ではないだろう。

先に「バラモン左翼」を「宗教的性質を持つ人たち」としてフレーミングしたが、「バラモン左翼」にとって思想が宗教的要素を持つものなら、他の考え方は、思想信条への冒涜に等しい。まして不勉強にそれが為されるなら、怒りも買う。土足で宗教施設に足を踏み入れ、御神体に対して無邪気に不徳を働くようなものだ。

かくして、不用意な素人は「バラモン左翼」的傾向を持つ人たちの怒りを買い「不勉強だ」と怒られることになる。


3.ポピュリズムによって生じる「勉強不足」糾弾の限界

しかし、個人的な感想を述べると、少なくともLGBTQ+に関連する諸問題について、この「バラモン左翼」による「勉強不足」という指摘には、もう無理が生じてきていると思う。

何故かと言えば、先項で記載した通り「少なくとも一般の人々の意識としては、LGBTQ+はそれなりに認知を得た」「相手がLGBTQ+だからと石を投げる風潮は、もう過去のものになった」からに他ならない。

要するに、ある程度LGBTQ+が一般化したからである。

特別な相手に踏み込むのなら、事前の勉強は必須だろう。王様に謁見するに辺り、宮廷のマナーを知らないでそこに上がり込んでいくのは悪手であるし、未開の部族のところに遊びに行くのなら、彼等の慣習を最低限知っておくべきだ。何らかの犯罪の被害者に、その犯罪被害について聞くのなら、犯罪被害者の心情についてある程度事前に知っておき、無神経な物言いを慎む配慮を持った方がいい。

だけれど、現代の日本において、まだまだ社会制度上の不遇や立ち位置への心細さを抱えていても、LGBTQ+は一定の存在感を放つようになった。

それゆえに「勉強していない」人でも「LGBTQ+」という単語を知るようになったし、それどころか当事者も「勉強せずに」名乗れるようになった。若年のLGBTQ+と年長のLGBTQ+の意識の差は肌でも感じるところだ。つまり、最早特別不可侵の存在ではない。

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単語が広まることは経緯が広まることとイコールではない。単語が広まった結果として「LGBTQ+のことをよく分かっていないのに、LGBTQ+について語ってしまう」人は現れるだろうし、LGBTQ+同士で他者を「勉強不足」と批判する情景も、実はそう珍しいものではない。

既に「絶対的被差別階級」ではなくなり、それどころか、一定の人に対しては「不用意な発言をすれば『差別主義者』と断罪されるかもしれない」というプレッシャーも与えられるようになったLGBTQ+当事者が、そういう「不用意な発言」に対し、怒り、勉強を求めていく姿勢は果たしていつまでリーチを保っていられるだろう。

一般化が進んでいく中で「勉強しないと触れることが許されない」状態が続くのであれば、LGBTQ+は、性的多数者と対等な関係を築いていけないのではないか、という懸念が今、私の中にはある。少なくとも私なら「勉強しないと触れることが許されない」隣人は嫌だ。


4.そもそも「勉強する」ということ

そもそも「勉強する」というのは大変なことである。際限がないし、普通の人はそこまで他者の属性に真剣になれない。個人的に、社会活動の難しさはここにあると感じている。一般の意識と社会制度の二人三脚が必要となる。

社会活動の達成の形の一つとして「無意識の変革」があるかと思う。要するにLGBTQ+について言うのなら、皆がLGBTQ+について詳細で深淵な見識を持つのは不可能なのである。しかし「LGBTQ+だからと言って、笑い者にするのはおかしなことだ」という認識を社会に培うことなら、きっとできる。

そして、そういう変革は、一般人の不用意な発言を「勉強不足」と非難するのみでは達成されず、むしろ、相手にマイナスのイメージを与えてしまうのではないかと思う。

「有効性こそが正当性」との言葉があるが、どんなに「自分は正しい」と思っても、その正しさが有益な結果をもたらさないのなら、それは誰のための正しさなのか、という疑問がここで生じる。


5.僕らのことを僕らが語れない時代

一般化されていく以上、LGBTQ+に関わる問題は、LGBTQ+だけが当事者ではなくなる。また、存在が身近になるにつれて、不用意な発言をする人もどんどん出てくるだろう。

それが政治家や著名人のように影響力のある人なら、理論を以て反論することも時には必要だろう。批判も悲しみの発露も有り得る。だが、発言そのものを糾弾し、暴力で黙らせようとすることはフェアなやり方ではないし、歪みを生じる。

LGBTQ+がそれなりの認知を得た今、いわゆる"一般の人々"に対しては寛容に構え、影響力のある人には理論や抗議の表明のみに留めることが、フェアを保つ上で必要なのではないかと私は思ってしまう。

影響力のある人の発言をおかしいと思った際、きちんと公でそれに反論できるなら、興味を持ってくれた人は元が外野でも目を通してくれるだろう。その反論に理があれば「なるほど」と思ってくれて、少しずつ社会全体の認識が変わるかもしれない。

これは一般の個人を「勉強不足」と批判することでは有り得ないし、影響力のある人にも「勉強不足」だと思うのなら、せめて、その知識を以て反論すればいいのだ。個人に対してのレクチャーであれば、先述した通り、コストの方が高くつくが、影響力のある人への反論なら、利点も膨らむだろう。

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マイノリティー属性はLGBTQ+だけのものではない。私は自分たちのことを自分たちで語れない世の中になってほしくない。インターネットが普及し、誰もがメディアになれる時代、各々マイノリティーが存在感を増し、その領域が不可侵でなくなるなら、当事者は関わる人皆ではないか。皆が当事者なら、それぞれ自分の立場から、目についた問題に踏み込んで、それによって反論を受けることはあっても、糾弾されることはない状態であってほしい。

自分にとっても身近な問題のはずなのに、何か言ったら「勉強不足」と言われる。「勉強してからではないと話してはならない」という空気を作ってしまうと、大きな問題を前にしても「また、何か言われても面倒だ」と素通りする人が増えてしまうのではないかという気もする。

それは世の中にとって良い結果をもたらさないと思う。

身近になった事柄に対し、せめて一般の人の不用意な発言を特定の属性の人が「勉強不足」と言って、それで終わりにしてしまう風潮は少しずつ変わって行ってくれないものだろうか。

各々のマイノリティーに苦悩の歴史があること、言いたくなるシチュエーションの存在には私も気持ちが及ぶのだが、どうにも、今のように考えてしまう。

注釈

※当noteにおいて「宗教」と云う言葉は決してネガティブな意味では使っていない。日本では「宗教」と云うと胡散臭いもの、良くないものと云うイメージを持つ人も多いように思うが、人それぞれに思想信条があることは、私は普通だと思っている。

※当noteの使用画像はフリー画像/写真素材提供サイト「ぱくたそ」さんから借用。

※2021.05/23.SUN, 14:00 一部リンクを編集。おまけの項にお酒が好きなかえるさんのnote"『「リベラル」でないと人間扱いされない』バラモン左翼問題"を追加。

おまけ

当noteの話題にも関連し、面白いと思った記事の宣伝。

■「知性主義」の限界について

■権威的になっていくリベラルへの批判

■LGBTQ+に関する話


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