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刑務所で罪が償えるわけがない。

今日、パニック発作というかなんというか分からない状態で、
「もうずっと、この後遺症の苦しみが続くのかな」と悲観した。
けれど、私は生きることを選んだからには、悲観的ばかりでは居られないし、家族たちに与えた影響は生きて償う必要があると思っている。

今日は、刑務所というものが本当に更生に役立っているのかという話を書きたいと思う。
大体の裁判では、罪状認否の場面で「この部分はやっていない」ということもだけれど、「量刑について」が争点になることが多い。

判決文の最後にも、
「一定期間、刑務所でほかの受刑者と共に罪と向き合い、償う」云々と
書かれているけれども、私自身は刑務所が更生できるような場所ではないと思っている。すべての生活が分刻みで決まっていて、そこに能動性もなければ、単純に与えられた懲役8年なら8年を自身に自由がない罰則でしかない。あるyoutuberさんへの質問で「刑務所から出所するのがこわい」という内容があった。その言葉に打たれたというか、人間の脳構造によれば2週間その生活を続けたらルーティンとして身についてしまう。
私自身、会社に入って初めは「ああ、明日は早番か・・・明後日は遅番か」
と思っても、2週間も経てば1時間くらい前からメイクをしたりして疑問にも思わなくなる。それが懲役のように1年から10年とか(もちろん、それ以上の有期刑の人もいる)刑務所の中にいたら、そこが自分のホームになってしまい、「出所したら、どうやっていきていけばいいんだ」と思うことは全く心理的機序として不思議ではない。
とりあえず、刑務所にいる間は衣食住が保証されているし、逮捕をされることもまずないだろう。その環境から、「はい、出所です」と言われたら、じゃあ、どうしたらいいのって思うのはおかしい話ではない。
人間、一定の期間を社会の中で過ごしていても「明日から5時起きか」と思うだけで「不安になる」のだ。住む場所も変わる、仕事もないとなれば、
その何十倍も出所を目前とした受刑者は予想の立てようのない上に、社会の風当たりであったり、差別を受けることもあるだろう。
私自身は「刑務所に入る=被害者に対する贖罪」とは考えていないので、犯罪という選択肢をした本人が最終的には悪いわけだし、ある程度、詰められたりすることは仕方ないと思う。人の尊厳や心身に傷をつけたならば、なおのこと、許されることではないと思う。
矯正施設で重きを置いていることって、果たして何なんだろうと考えたときに、「施設の秩序を乱すことなく、刑務官のいうことを聞く」というところなだけで、出所した後の就職など「知ったことではない」というところなのではないかと思う。
私の中のイメージでは刑務所というのは最底辺の底辺の人たちが、そこでも序列を作って強がって生き、自分がターゲットにならないように立ち回れるか、ターゲットにされるかの違いじゃないかと思う。
まず、思考力がしなやかな人は犯罪を犯すことは少ないと思うけれど、
実際には受刑者になった時から、資格を取るであるとか就職につながることを考えるべきであると思う。けれど、学習性無力感のように「自分なんて、なにやったって駄目なんだ、ここにいる人たちと同じなんだ」と思ったら、能動性などをもって将来のことを考えることは難しいじゃないかと思う。
性犯罪更生プログラムや薬物プログラムに関して、国は力を入れているけれど「自分がなんでそんなことをしてしまったのか」ということを反芻することで、再犯の確率は果たして下がるのだろうか。特に薬物問題にしてみたら、「薬物依存は病気です」というけれど、私の考えでは「違法薬物を使ってはいけないと認識していて、自分で勝手に使って病気だから」っておかしいことじゃないかなと思う。
偏見かもしれないけれど、1度犯罪を犯してしまった人の再犯のハードルはかなり低いものになっていると思う。
犯罪じゃなくとも「私は、これはやったらいけないな」と思うことはあると思う、けれど1度手を出してしまったら、2回も、3回も変わらないものになってしまうのはないかと。
刑務所は自由を奪う罰でしかなく、その間の保証は税金でされているというだけで、出所した後の人のことなど誰も関心がないのだ。
前に、YouTubeの受験版タイガーファンディングで「弁護士になって再犯者を救いたい」

という会があったのだけれど、元受刑者をずっと見張って1人しないことで再犯を防ぐというような内容だったと記憶しているが、誰かが見張っていないと再犯してしまう時点で、更生しているとは呼ばないと思う。
人間の力には限界というものがあるし、家族1人を見張ることすらが難しいのに、何万人といる受刑者を誰が見張るんだよという気持ちだった。
きっとこの人は、性善説を信じているだろうし人、想像以上に常識や規範意識のない人間と会ったことがないから簡単なことが言えるのではないかと思った。
私は、子どもですらコントロールできるような崇高な人間ではないし、
できるとすれば、自分自身を変えることくらいだと思っている。
よく考えてみてほしい、強盗殺人で奪った金額が8000円という人もいる。その犯罪によって得られる金額と罪の大きさが全く比例していない。
普通にスポットでもいいから1日働けば8000円にはなるのだ、正しいやり方でお金を儲けるよりも、人から奪う、傷つけても奪うという思考になっている人に「更生にかけて」なんて言えるだろうか。
刑事裁判でも、「刑務所で更生」という言葉が何度も飛んだけれども、
刑務所がそんな万能なものなのか?と私は疑問符を持って仕方がなかった。
自分から、「生まれ変わろう、今度こそ」と思う気持ちがない人間を何年刑務所に入れたところで税金の無駄でしかないし、ただ、刑務所にいる間だけ、その人による再犯が防げている「無理やり拘禁して防いでいる」というだけであって、その人たちが社会に出たときのことを考えているような矯正内容ではないと思う。私は、加害者に1年でも1日でも長く刑務所に入って他の受刑者と更生してほしいという性善説に基づいたことを述べたが、途中から「刑務所に行っても無理な人は無理だろうし、未来を考えられる人間はそもそも犯罪に手を染めないでしょ」という気持ちになっていった。
刑務所という世界から出て、前科を隠して就職をしたとしてもどこから
「あの人、前科があるよ」って分かってしまうかも分からないし、就職面接の段階で「前科とかあります?」と私は聞かれたこともないから、凡そ聞かれないのだと思う。けれど、後から発覚して「辞めてもらえないか」というのは不当解雇になるのかもしれないけれど、法で戦ってもそこで働くことはメンタリティ的にできるのかと不思議に思う。
右向け右をしたら、責任を持たなくていいこの国の中で
刑務所では個性など持つことを禁止して、右向け右をさせて、能動性を奪うことによって刑務官の負担を減らしているようなそんな気もする。
刑務官の人に話を聞いたとき「はじめは、更生させたいとおもったけれど、そんなことは不可能だって分かった。」と言う。
誰だって、何かしらの職業に就いたとき志というものを持っているだろう。
けれども、思ったようにいかないから考え方を変える。
しかし、刑務官という公務員が人によって態度を変えたり贔屓をしたりすることや、はたまたストレスの発散のようなことをするのは違うのではないかとも思う。公務員は平均化されて、マニュアルで対応するべきだと思おう。
そこで人を恨むとか、ネガティブな気持ちを抱くべきではないし、どの犯罪者(無期懲役や死刑は別として)も出所した後に、社会人たれと私は思う。
世の中は、確かに日本においては一度ドロップアウトしてしまった人を受け入れるような広い心は持っていない。だって、罪を犯していない人を雇いたいと思うからだろうし、欧米のようにボランティア的に出所した人たちにも受刑者と受刑していない人を分け隔てなく接することは、日本の国の在り方からして難しいと思う。人と違うことをして、特に罪を犯した人に人権なんてないでしょ、被害者の人権踏みにじっておいて人権ってっていう風潮はあると思う。私は、犯罪者にも人権はあると思う、ただ奪ってしまった人権については一生涯かけて考えるべきテーマとして持っていてもらいたい。
話は戻るけれど、「能動性のない学び」というものはインプットされることはないと思う、「やらされて塾に行っている」子どもが成績の伸びが悪いのとそう変わりのないことだと思う、心から能動的に「出所したら、こんな風に生きたい」という、色のついたビジョンを持っていないと、時期が来たから出所したけど、何やっていいかもわからない…こんな狭小な世界で生きるくらいなら死んでしまったらいいとか再犯を繰り返すのだと思う。
再犯をする人の7割が無職であるとう点からみても、人は「犯罪を犯したら、このコミュニティからはじき出される」という面目であったり、「ここで犯罪を犯したらもっとつらい人生になる」という考えが再度、罪を犯さないゲートキーパーになっていると思う。出所して失うものがなければ、無敵の人になるか、自殺してしまうか、また再犯をして刑務所に舞い戻るかの3つに1つくらいの選択肢しかないのではないかと思う。
私自身、加害者を殺してやろうと思ったことは何度もある。
やろうと思えば、できたと思う。
出所の日に、刑務所の前で刺し殺すこともできたかもしれない。
けれど、なぜそれをしないのかと言うと失うものがあまりにも多すぎるからだ。短期的、長期的に考えても加害者の命を奪ったところで、私の受けた被害が消えるどころか、私は犯罪加害者として、家族は犯罪加害者の家族として生きていくことが決まっているから、社会的にもこれ以上失いたくないと思うものが人を法規範の超えてはいけないところを抑えていると思う。
刑務所が更生施設ならば、こんなに再犯が起きる時点でシステム化に問題があるという風に思うが普通だけれど、そんなに深く考えず、裁判所が言い渡した時期だけ閉じ込める、なんのためになるかもわからない作業をさせてみて、酸素と税金を無駄遣いするような生活を送らせているだけなのだ。
そんなことって、誰でもわかっていると思う。
刑務所にも分類などの序列があると思う、一種のトークンのようなものを用いて、どんぐりの背比べにしかならないカースト制度を作っているだけで、じゃあ、その人が出所したらまともな人間と思われるかと言うと、
社会全体は「前科者」と言う一括りで見てしまう。刑務所の中での立ち回りは大切かもしれないけれど、それ以上に塀の外の立ち回りが下手だったからこそ、犯罪をおかしているという根本の部分をどうにかするべきだと思う。
様々なプログラムで、認知のゆがみをとか被害者の心情を知ったところでその罪を犯した本人にしてみたら「だからなんだって」っていうくらいの話だともう。本当に、申し訳ないと思っているならば再犯せずに塀の外で償うこと、辛くても死なないで苦しんででも償うことだと思う。
よく私はいたるところで「司法が与えた刑罰=被害者への贖罪ではない」と言う、まちがっていないことだともう。
被害者の立場からしてみたら、「刑務所に入ったから、なんだっていうの」と言う感じであるし、自分が払った税金の一部が刑務所に使われていると思うと、私には損害賠償が払われていないのに逆に衣食住まで用意するのかと逆転的な状態で「まったくもって不条理」と言う気持ちが湧くだけである。
ひょっとしたら、司法と言うものは思考停止しているのかもしれない。
AIに乗っ取られるというが、判例主義であるならば人が考えることはしなくたって、それ相応の罪を言い渡すことは出来てしまうんじゃないかと思う。
人は、「この人がこんなに思ってくれたから、期待に応えたい。裏切りたくない」と言う気持ちが、糧になる部分があると思う。そういった体験を刑務所で出来ないのならば、悲惨なエピソードしかないのならば、闇雲に生きることも真っ当に生きることも考えてもわからない、思考のゲシュタルト崩壊が起きてしまったっておかしくない。
ある程度まで育ってしまった人の主義思想を人が強制的に変えるということは不可能に近いと思う。ただ、そこに閉じ込めるという自由罰で何が解決するのだろうか。


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