たぶん、最後のお祭りだった

北海道の内陸の農村で、私は生まれ育った。泥炭地を開拓した、よくある土地だ。


生まれ育ったのは平地の田んぼの中。一本の道路を挟んで並ぶ十軒ほどの集落が、日々の世界の全てだった。


幼稚園になって初めて一人でバスに乗り、街場の幼稚園まで通った。同じ年の子どもが何人もいて、うまく行ったりいかなかったりいかなかったり、何よりもお昼寝の時間にじっとしていることが辛かった。そのつらい日々も半年後、いきなりお別れ会をされ、冬ごもりに入った。住んでる地域が田舎すぎて、最初から半年だけの幼稚園だったのだと後で知った。

小学校はバスで一区間先、でも川を挟むのでそれまで交流がなかった子どもと一緒になった。正確には幼稚園で半年一緒だったのだが、幼稚園以前は交流がないし、向こうは多数でこちらは少数で、学校でしか会うことがない人との付き合いは、出遅れ感が強かった。

バス停まで10分か15分歩く。バスに乗って川をまたぐ一区間、距離にして1キロちょっと。自転車に乗るようになってからも、小学校までの2キロの道のりを自転車に乗ってグラウンドで野球をしている同級生や上級生と遊んだのも、一回あったかなかったか、くらいだった。

小学校の隣には神社があった。地域の名がついた神社だ。
秋。着替えさせられ、相撲に出され、2回戦でひっくり返される。白粉を塗られ、衣装を着せられ、トラックの荷台に乗せられて地区内を回る。お祭りだったのかな?そういや神社に出店が出ていた。
回った先に、いつも乗るバス停の隣の石碑があった。なんの石碑かは後々になっても読めなかった。縄や紙を飾り、神主さんが来て大人が集まって頭を垂れていた。「ここでは立ち小便をするな」と大人に言われていた場所は、何かの記念碑だった。


冬。そして春。入学した小学校は分校で、本校にスクールバスで通うことになり、いつものバス停で乗り降りする生活になる。幼稚園の時一緒だった他の子どもと一緒になり、忘れていたあだ名を呼ばれ、そろばん塾に通う時は街場までの6キロの道を自転車で通う。そのうち隣町までも、その先までも、10キロも50キロも自転車で移動するようになり。
街場の神社のお祭りは、出店が何軒も何軒も並んでいて、何度も出歩いた。相撲もお神輿も、関係なかったけれど。

お神輿も相撲も関係がなかった。街の、街場の神社だったから、他のマチの神社だった。


私の生まれ育った地域は、小学校が廃校になって、暫くは建物が残っていたけど中学の頃には真新しい公民館が建っていた。
小学校の近くの店は、やっていたのかな?本校の購買に文房具を卸していたようだけど、いつの間にか扉が閉まったままになっていた。
集落の地図にはあるはずのお寺は、分校閉校前に街場に移転していた。真新しい建物が、陸橋のそばに建っていた。

地域の神社は神主がいなかった。街場の神社から、用がある時だけ派遣されてきていた。鳥居は残っているけど、社務所はいつの間にか無くなった。


わけ分からず相撲を取ったあの秋が、トラックに乗せられて回ったあの秋が、

多分、最後のお祭りだった。


(※この思い出は、2024年4月1日 12時10分、「小説家になろう」に投稿された)

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