見出し画像

【つの版】ウマと人類史:近代編03・埃及遠征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 北イタリア諸国を平定して宿敵オーストリアを屈服させ、フランスの英雄となったナポレオンでしたが、オーストリアは英国やプロイセンと協力してフランスを再び囲い込みます。苛立つナポレオンは英国の交易ルートを脅かすため、オスマン帝国領のエジプトへ侵攻しました。

◆埃◆


近世埃及

 この頃のエジプトはどのような状況でしょうか。1517年にオスマン帝国はエジプトのマムルーク朝を滅ぼした後、寝返ったマムルークの有力者をエジプト総督に任命して統治を委ねます。彼が逝去すると短い任期つきの総督がイスタンブールから派遣されますが、有力マムルークによる分領統治は継続しました。莫大な富をもたらす重要な土地ゆえ、地方勢力や総督が帝国に反乱することもあり、それを防ぐための法律も制定されています。

 しかし16世紀末から17世紀初頭にかけて財政難やインフレのためエジプトには重税が課せられ、不満を高めた兵士らによる反乱が頻発します。オスマン帝国は1610年にこれを徹底的に押し潰す一方、大規模な財政改革によって重税を廃止しました。また非マムルーク系の有力者や軍人を徴税請負人(ムルタズィム)に任命しましたが、彼らは徒党を組んでマムルーク系有力者と対立するようになり、エジプト総督の権力は衰えていきます。

 こうした有力者のうち、20名ほどがベイ(サンジャク・ベイ、県知事)に任命され、軍事力を有して各地方を治めていました。またエジプトに駐屯する歩兵軍団のうち、イェニチェリはマムルーク系(フィーカリーヤ)、アザブは非マムルーク系(カースィミーヤ)と結びつき、対立していました。1711年には両者が武力衝突に至り、内戦の末に1718年にカースィミーヤの首領イスマーイール・ベイが勝利をおさめます。オスマン帝国は彼に「シャイフ・アル=バラド(国の長)」の称号を授けて事実上統治を委ね、エジプトには幕府めいた半自立政権が誕生しました。

 しかしカースィミーヤも一枚岩ではなく、内部抗争の末にイェニチェリの中の軍事集団カーズダグリーヤが勢力を伸ばし、1736年に政権を握ります。さらに1760年にはジョージア系マムルークのアリー・ベイがシャイフ・アル=バラドとなり、敵対勢力を排除して自派のマムルークを要職につけます。オスマン帝国は彼の自立の動きを制しようとし、1769年には処刑命令を出しますが、アリー・ベイは事前にこの情報を得て使者を殺害し、ついにオスマン帝国から独立することを宣言します。パレスチナの総督もこれに呼応し、ロシアと戦争中のオスマン帝国は南からも脅かされました。

 アリー・ベイはイエメンに出兵してアラビア半島の大部分を制圧し、従兄弟をマッカの首長に任命して、彼から「エジプトのスルタン」「二つの海(地中海と紅海)のハン」の称号を授かります。またパレスチナとシリアに将軍アブー・アッ=ザハブを派遣して征服させ、ロシアやヴェネツィアに使者を派遣して同盟しました。しかしザハブはアリーを裏切ってオスマン帝国につき、シリアを引き払って1772年にエジプトへ進軍します。アリーは海路でパレスチナのアクレ(アッコ)へ逃れ、ロシア帝国と結んでエジプトを奪還しようと図りますが、1773年に敗れて捕虜となり、死亡しました。

 ザハブは功績によりシャイフ・アル=バラドに任命され、エジプトのパシャ(総督)を兼任しますが、1775年にパレスチナで謎の死を遂げます。彼の跡を継いだイスマーイール・ベイはエジプトから追放され、ザハブの代理人としてエジプトにいた有力者イブラヒム・ベイムラード・ベイが二頭体制を敷きます。1786年、彼らはオスマン帝国の討伐を受けて逃亡しますが、1791年に疫病でイスマーイールが病死したため呼び戻され、オスマン帝国の宗主権を認めつつ半自立のマムルーク政権を率いていました。

埃及遠征

 ナポレオンはこうした混乱に目をつけ、1798年にエジプトへ遠征します。この頃英国はインド植民地と本国を結ぶため、紅海のどん詰まりのスエズに寄港地を持ち、エジプトの政権はこれを許可していました(運河はまだありません)。ここを押さえればインド洋からの貿易品は地中海から閉め出され、アフリカ南端巡りか太平洋を横断するしかなくなります。英国本土は強力な艦隊に守られており、フランス艦隊は太刀打ちできませんから、まずは兵糧攻めというわけです。

 出発直前の1798年2月、ナポレオン軍はローマに進軍してヴァチカンを制圧し、ローマ教皇ピウス6世はトスカーナへ亡命します。フランス革命では教会や聖職者が旧権力者として弾圧され、財産没収や処刑などの憂き目に遭ったため、教皇庁は革命政府を反キリスト勢力として憎んでいました。ナポレオンは1793年に「共和国の大使を殺害した」として教皇領にも侵攻し、軍事力で屈服させましたが、その後も反抗的だったためこうなりました。同年ローマにはフランスの傀儡として「ローマ共和国」が立てられます。

 1798年5月、4万の兵と船員1万、輸送船400隻、戦列艦13隻、フリゲート艦14隻が南仏の港トゥーロンから出発しましたが、英国による妨害を避けるため行く先は秘密にされていました。彼らは6月にマルタ島へ上陸し、2日でマルタ騎士団を降伏させて占領すると、ここを出発してエジプトへ向かいました。7月にはアレクサンドリアに上陸して占領し、続いてカイロへ進軍します。ムラード・ベイはマムルーク騎兵を率い、ギザのピラミッドの麓のカイロ近郊でこれを迎え撃ちます。

 この時ナポレオンはピラミッドを指し、「兵士諸君!あの遺跡の頂から4000年の歴史が見下ろしているぞ!」と叫んで鼓舞すると(というのは彼の晩年の回想記が初出ですが)、陣形を組んでの前進を命じます。2万の兵は5つに分かれて中空の長方形の陣を組み、四隅に大砲が配置され、方陣の内側には物資と騎兵隊が配置されます。対するムラード・ベイの軍は騎兵6000、歩兵1万5000で、騎兵の戦力では勝っていましたが、フランス兵はみなマスケット銃と銃剣で武装していました。

 エジプト軍も当然銃火器は装備していたものの、騎兵突撃で方陣を崩そうとしたところを一斉射撃で撃退されます。さらに方陣は回り込んで騎兵を囲い込み、ナイル川へと追い込みつつ銃撃を続け、浮足立ったエジプト軍は総崩れとなって川へなだれ込みます。この戦闘でマムルーク騎兵は半数が戦死し、歩兵も壊滅状態となりました。ムラード・ベイは這々の体で残りの騎兵とともに逃げ延び、エジプト南部へ撤退します。ナポレオン軍の損害は戦死者が29人、負傷者が260人と極めて軽微でした。翌日にはカイロが降伏し、ナポレオンはカイロに入城します。

仏軍撤退

 怒ったオスマン帝国はフランスに宣戦布告し、英国やオーストリアと同盟します。英国はネルソン率いる地中海艦隊をエジプトへ派遣し、アブキール湾に停泊していたフランス艦隊を殲滅、ナポレオンはエジプトに封じ込められてしまいます。南ではマムルークらが抵抗を続け、オスマン軍はシリアに進軍し、10月にはカイロで暴動が起きて死傷者が出る有様で、追い詰められたナポレオンはエジプトからパレスチナに移動します。

 1799年、ナポレオンはヤッファ港を占領し、3月にアッコを包囲します。しかし激しい抵抗に遭って陥落させられず、皇帝の肝煎りで西洋化された新オスマン軍「ニザーム・ジェディード(新秩序)」やロドス島のオスマン艦隊がパレスチナに到達し、海からは英国が物資を補給しつつフランスの補給港を封鎖します。さらにはフランス軍内にペストが流行し、フランス本国やイタリアでもオーストリアやナポリによる反撃が再開されます。

 1799年8月22日、ナポレオンは少数の側近とともにエジプトを密かに脱出し、フランスへ帰国します。事情を知らないフランスの民衆は彼の「凱旋」を歓迎したため、ナポレオンは有力政治家シエイエスと手を組み、11月に軍事クーデターを起こします。彼は総裁政府を打倒すると、三人の執政/統領(コンスル)による三頭政治を開始すると宣言、自らを「第一統領」に就任させて事実上の独裁者となります。エジプトに取り残されたフランス軍は抵抗を続けますが、1801年にフランスとオーストリアの間で講和条約が締結されると英国とオスマン帝国に降伏し、本国へ帰還しました。

 2年に及んだ大遠征は、考古学的にはロゼッタ・ストーンを発見するなど重要ではありましたが(1801年に英国に譲渡されています)、フランスにとっては大損害をもたらしただけの徒労でした。ナポレオンは祖国防衛のため各地を転戦し、矢継ぎ早に国政改革を行って混乱した国内を建て直し、1804年にはフランス皇帝に即位するのです。

◆埃◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。