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【つの版】度量衡比較・貨幣47

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 西暦1429年、琉球国は中山王尚巴志によって統一されました。この国は日本と明朝、朝鮮などと広く仲介交易を行い、繁栄します。

◆津◆

◆梁◆

北虜南倭

 明史外国伝日本条によると、日本と明朝は永楽9年(1411年)を最後に国交が途絶え、またも倭寇が各地に出没するようになりました。1418年4月には「海賊は我が国でも賊徒ですので、朝貢を継続して頂きたい」と日本国王の使者が申し出て来たので許可は与えましたが朝貢は行われず、一時は帝都北京に近い遼東半島沿岸部にまで倭寇が侵入する有様でした。永楽帝の時代は鄭和の船団がインド洋各地を往来し、分遣隊は遥かアフリカ東岸にまで到達したほどでしたが、近隣では海賊が横行していたのです。

 永楽帝の孫・宣徳帝は、宣徳7年(1432年)正月に中官の柴山に命じて琉球に行かせ、その王に日本を諭すよう勅書を賜いました。これは明史外国伝琉球条には見えませんが、果たして翌年夏に日本国王の源義教が使者を派遣して来ました。その秋にも日本の使者が至り、宣徳10年(1435年)10月に英宗正統帝が即位すると、また使者を派遣してきたといいます。琉球を介して明朝と日本が連絡し、朝貢が復活したのです。

 正統元年(1436年)2月、明朝は日本の使者にその王と妃への手土産として銀幣を賜いました。また4月には信符(割符)を授けて勘合させることを再開していますが、倭寇は正統4年(1439年)と正統8年(1443年)に大挙して福建や寧波等に侵入し、掠奪や殺戮を行いました。明朝は琉球に交易上の特権(港を司る役人に荷物を没収されない等)を授けて優遇しますが、倭寇を抑えるような力は琉球にはなく、日本からの朝貢も行われませんでした。

 こうした中、正統7年(1442年)正月には中山世子の尚忠が父・尚巴志の喪を告げて来ます。明朝は彼を中山王に封じますが、正統12年(1447年)2月には世子の尚思達が父の喪を告げ、景泰2年(1451年)には思達も死去して子がなく、叔父(尚巴志の子)の金福が摂政になったと報告が届きます。明朝は彼を王に封じましたが、短命の王が続いていることから、琉球では混乱があったものと思われます。明朝では正統帝が1449年に土木の変でオイラトの君主エセンに敗れて捕虜となり、「北虜南倭」に悩まされています。

大世通宝

 景泰4年(1453年)、日本国王の源義政が18年ぶりに明朝へ朝貢の使者を派遣して来ました。しかし使者は各地で乱暴を行い、民の財貨を掠奪し、明朝の官憲を殴り殺す有様でした。明朝は「遠人の心を失うのを恐れて」懲罰はせず、役人からの「給付金を減額しては」という意見も却下したといいます。そしてこの頃、琉球では内乱が勃発していました。

 明史によると景泰5年(1454年)2月、中山王尚金福の弟・泰久が明朝にこう奏上しています。「長兄の金福が亡くなると、次兄の布里と兄の子の志魯が争って立ち、ともに傷つけあって死亡し、明朝より賜った印も損壊しました。国中の臣民は私を推挙して権摂国事(仮に国事を執り行う者)としました。どうか再び印を賜い、遠藩を鎮撫して頂きたい」。明朝は了承し、翌年4月に使者を派遣して泰久に印を授け、王に封じたといいます。

 泰久は金福の弟ですから忠・布里とも兄弟で、尚巴志の子のひとりです。彼は混乱した国内を鎮めるため諸制度を改革し、貨幣を発行しました。

 琉球では渡来銭を使用しており、三山時代には明銭を真似て「中山通宝」なる銅銭を多少発行していますが、泰久王は「大世通宝」と銘を刻んでいます。明銭の永楽通宝のうち永楽の字を大世と置き換えただけで、大世と通宝の各字は書体が異なります。大世とは国王を「大世主うふよのぬし」と呼んだことによるといいますから、中央集権を進めようとしたのでしょう。

万国津梁

 彼はまた仏教を弘めて国を治めようと考え、日本国から到来した臨済宗の禅僧芥隠承琥かいいん・しょうこに帰依し、多くの寺院を建立しました。琉球に仏教が伝わったのは『琉球国由来記』によれば南宋の咸淳年間(1265-74年)のことで、補陀落渡海の末に那覇に漂着した禅鑑なる僧侶によるとされます。また応安元年(1368年)には日本の真言宗の僧・頼重法印が渡来し、中山王察度によって勅願寺(現波上山護国寺)を建立したといいますが、芥隠承琥は長く琉球にとどまって外交僧としても活動しました。

 また1457年には倭寇に拉致された朝鮮の民を本国に送還し、引替えとして高麗版大蔵経(仏典の全て、経律論の三蔵と注釈)を印刷したものを受け取っており、翌年にはその事などを銘に刻んだ鐘を鋳造しています。

 銘文には最後に「戊寅(1458年)六月十九日辛亥、大工藤原国善、住相国渓隠叟誌之」とあり、日本の鋳物師・藤原国善によって鋳造され、琉球相国寺の住持・渓隠安潜が文を書いたことがわかります。仮に訳せばこうです。

琉球国は南海の勝地(すぐれた地)であり、三韓の秀(朝鮮の優れた経典)をあつめ、大明を輔車(頬骨)となし、日域(日本)を唇歯とし、この両者の中間に在って湧出した蓬莱島である。舟楫(船と舵)をもって万国の津梁(橋渡し)とする。異国の産物や至宝は十方刹(国)に充満し、地霊や人物は遠く和夏(大和と華夏)の仁風を扇ぐ。
わが王の大世主は、庚寅の年(1410年)にめでたく生まれた尚泰久である。ここに王位を受け継ぎ、高天において蒼生(民草)を育み、厚地においては三宝(仏法僧、仏教)を興隆させ、四恩(父母・衆生・国王・三宝の恩)に報酬した。新たに巨鐘を鋳造し、本州(琉球)中山国王殿の前に掛けてこれを著し、憲章を三代の後に定め、文武を百王の前におさめて、下は三界の群生を救済し、上は万歳(皇帝)の宝位を祝い、かたじけなくも相国住持の渓隠安潜叟に命じて銘を求めさせた。
その銘に曰く、須弥山の南のほとり、世界は広々として、わが王が出現し、衆生の苦しみを救われた。流れを断つ玉象、月に吼える華鯨(のごときこの鐘)は、四海に溢れて梵音(仏教)の声を震わせ、長夜の夢(無明)より目覚めて感天の誠をいたす。堯風は永く扇ぎ、舜日はますます明らか。

 海上の交易立国としての琉球王国の有様を高らかにうたうこの鐘は、その銘文から「万国津梁の鐘」と呼ばれ、現在も沖縄県に伝わっています。

王統交替

 しかし王権はなおも不安定で、同じ1458年には有力按司の護佐丸ごさまる阿麻和利あまわりが反乱を起こします。明史や中山世鑑には記録がありませんが、中山世譜によれば阿麻和利が「護佐丸に謀反の動きがある」と讒言(あるいは密告)し、王から討伐を命じられて護佐丸を滅ぼしたのち、兵を率いて王府へ攻め込んだといいます。阿麻和利は王軍に討たれて滅ぼされ、結果的に国王の権力が彼らの支配地域(旧山北および東部の勝連半島)にも及ぼされることとなりました。

 それから数年後に泰久は薨去し、明史によれば天順6年(1462年)3月に世子の尚徳が父の喪を明朝に告げ、王に封じられています。彼は1466年に奄美群島の喜界島に遠征して版図に加え、同年に足利義政へ使節として芥隠承琥を派遣したことが日本側の記録に残っています。

 そして成化7年(1471年)3月、世子の尚圓(尚円)が使者を遣わして父の喪を明朝に告げ、王に封じられました。問題なく父から子へ王位が引き継がれたかに見えますが、琉球の史書によれば尚円は尚徳の子ではなく、クーデターによって王位を簒奪したといいます。彼は尚思紹・尚巴志以来の尚氏を名乗りますが、彼らとは血統上の繋がりもなく、王統が交替したことが琉球の史書に記されているのです。これを歴史上では第二尚氏といい、1879年まで400年あまり続きました。

◆戦◆

◆乱◆

【続く】

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