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【つの版】度量衡比較・貨幣01

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。重量をやりましたので、古代から近世にかけて通用した秤量貨幣について見ていきましょう。

 現代では電子情報化した貨幣がインターネットを飛び交っていますが、紙幣やコイン、物々交換も健在です。貨幣/通貨とは富を融通するための取り決めとして、同じだけの価値があると定めたものですが、人類は長い間金銀や銅などの金属片の重量と価値を結びつけて来ました。

 つのは経済学に詳しくないため、貨幣や通貨について詳しいことは言えませんが、歴史上の貨幣とその価値についてざっくり調べてみましょう。時代や地域、状況によって異なりますから、鵜呑みにはしないでください。

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貨幣起源

 人類は太古の昔から、足りないものを分け合い、あるいは奪い合って生きてきました。物々交換は最も古くから存在した決済手段ですが、どんな物品にどれだけの価値があるのかという尺度は、その時々の状況によります。空腹の人には食物は貴重ですし、満腹の人にはさほどでもありません。暴力や詐欺で掠奪すればタダで手に入りますが、社会的信用を失います。逆に社会的信用がある人のもとには、タダで様々な物品が集まってきます。

 貨幣の機能には賠償や納税などの支払い、物品やサービスの価値の尺度、財産や権力の蓄蔵、売買のための交換手段があり、いずれか一つの機能を持つものは貨幣とみなすことができますが、それぞれの起源は別です。旧約聖書を紐解けば、羊などの家畜がこれらの機能を兼ね備えていますし、穀物などの食料もこれに用いることができます。しかし家畜は死にますし、食料は腐敗します。塩漬けや乾燥させれば長持ちしますが、食べれば消滅します。持ち運ぶにも重くてかさばります。そこで、腐敗せず消滅しにくい希少価値のあるものとして、装飾品である貴石類や金属が貨幣機能を持つものとして利用されるようになったと考えられています。他に羊毛や絹布、貝殻や塩、象牙や羽毛なども貨幣と成り得ました。

貝貨流通

 非金属製の貨幣として、非常に広範囲で長く流通したのが、タカラガイの貝殻です。貨・貿・財・買・賣/売・價/価などの文字に貝が含まれているように、古代チャイナでは貝が貨幣でした(貝貨)。金属加工技術もないか乏しい時代や社会であっても、腐食や変質せず模造できず、手頃な大きさで数えやすいことから、一定の価値をもたせるにはうってつけです。自然の造形ですから神秘性もあり、多産や豊穣の象徴として装飾品に用いられました。

 タカラガイは地球上の熱帯や亜熱帯、サンゴ礁に広く分布します。浅瀬に棲むため採取は簡単ですが、原産地から遠い内陸部や北方では価値が高くなります。紀元前6000-前5000年頃にはメソポタミアや中央アジアで、前2000年頃には甘粛省の馬家窯文化でタカラガイの装飾品が使用されていました。

 殷商や西周の時代(紀元前1500-前771年)には、東南アジアからタカラガイを交易で入手し、紐で繋いで装飾品とし(朋・貫の字源)儀礼における贈与品や埋葬品として用いていました。当時の物価や貝貨の価値については、よくわかっていません。他の貨幣には鼈甲(タイマイの甲羅)や真珠もありました。いずれも南方のものです。長江流域の楚国はこれらの中継貿易で栄えましたが、戦国時代には諸国が青銅で貨幣を鋳造するようになり、貝貨は楚国の末裔を称する雲南省の諸王国において明代まで残存しました。

 これらは貝殻の重さではなく個数で価値をはかるもので、秤量貨幣ではなく計数貨幣と呼ばれます。『新唐書』には雲南の南詔王国において貝16個が1単位として流通していたとあり、『東方見聞録』にはタカラガイ80個が銀1サジオ(3.6g)に相当していたとあります。琉球王国でも明朝への朝貢品としてタカラガイ(海巴)を大量に輸出しており、雲南への下賜品とされましたが、次第に銀の流通が一般化し、雲南での貝貨は廃れます。しかし東南アジアやインド、アフリカ、オセアニアや南北アメリカでも、貝貨は近代に至るまで広く流通しています。

銀払賠償

 やがて、金属の地金が秤量貨幣として流通し始めます。腐食しにくく保存がきき、適度に希少性があり、装飾品に加工しても価値は損なわれません。砂金は多くの社会でそのままの形で流通しましたし、金塊に加工して持ち運びやすくすることも行われました。しかし黄金は希少過ぎ、一般庶民には普及しませんでした。そこでが使われ始めます。

 金属採掘・加工技術が未熟な頃は、砂金として川などで採取可能な金のほうが自然銀よりも価値が低かったようですが、鉱石を精錬して銀を採取する技術が普及すると、装飾品や貨幣として流通し始めます。紀元前32世紀頃、銀鉱山のあるタウルス山脈の南、現シリア北東部で、鉱石から金や銀を鉛に溶かし出して精錬する「灰吹法」が行われていました。これにより銀の利用がオリエント一帯に普及していきます。それでも当初は相当高価でした。

 紀元前2380年頃、シュメル文明の都市国家ラガシュの王ウルイニムギナの賛美詩にこうあります。

"白い羊の飼い主および調査員、主な嘆きの歌手、監督者、醸造者および職長は、若い子羊のために銀で義務を支払った。これは昔の慣習であった。"

 彼はこうした慣習を改革し、借金を帳消しにする徳政令を行ったといいます。彼の時代にはすでに「昔の慣習」とされていたのですから、銀が支払い機能を持つのはさらに古くからに遡るのでしょう。紀元前2100年頃、シュメル文明のウル王朝で編纂されたウル・ナンム法典でも、銀や穀物が賠償の支払いに用いられると規定されています。同様の賠償については、エシュヌンナ法典やハンムラビ法典にも規定があります。

 当時の物価から換算すると、銀1ギン/シェケル(8.4g)が大麦1クール(300リットル)にもなり、当時の一般的な労働者の月給に相当しました。日本の1斗が18リットル、1俵が4斗=72リットル/60kgですから4俵/240kgあまりにもなります。現代日本の貨幣価値にあらっぽく換算して1シェケル=18万円とすると、1シェ(麦粒、47mg)の銀が1/180シェケルですから1000円で、大麦300リットルの180分の1は1.67リットル、日本の1升弱です。1日に1ミナ=60シェケル=500gの大麦を消費するとして3日分の大麦代になります。煮炊きをしたりパンに加工したり、魚や肉や野菜や酒をつけたりすれば1000円で1日か1食分の食費にはなるでしょう。

 8.4gで18万円とすると、当時の銀1gあたりの価値は2万円あまりにもなります。たった8.4gの銀塊が月給相当のカネになるわけですから、落としてなくせば大ダメージです。普段の生活では穀物や家畜が交換手段/貨幣で、銀は高額取引や賠償金に使われました。やがて銀が各地で採掘されるようになり流通量が増大すると、銀の価値は相対的に低下していきました。

 エシュヌンナ法典による賠償金は、誘拐罪が15シェケル(270万円)、他人の所有する女奴隷の処女を奪った場合は5シェケル(90万円、自由人の処女なら寝取った者は死刑)、最初の妻と離婚した場合は1ミナ(60シェケル=1080万円)、未亡人と再婚した後で離婚したなら半ミナ(30シェケル=540万円)、偽証罪は3シェケル(54万円)、妻に無実の不貞の罪を着せた男は1/3ミナ(20シェケル=360万円)、逃げた奴隷を主人のもとに連れ帰った者へは2シェケル(36万円)、誰かを失明させたら半ミナ、足を切り落としたら10シェケル(180万円)、武器で手足を破壊したら1ミナ、鼻を切断したら2/3ミナ(40シェケル=720万円)、歯を折ったら2シェケルです。
 ハンムラビ法典では、奴隷を流産させたら2シェケルで済みますが、平民なら5シェケル、上流階級なら10シェケルです。殺人は、被害者が女奴隷なら20シェケル、男奴隷なら彼の値段、平民の女なら半ミナ(30シェケル)、平民の男なら20シェケル。上流階級の女性なら加害者の娘を殺しますが、上流階級の男性ならなぜか半ミナで済みます。頬を殴って侮辱するのは奴隷なら賠償金がかかりませんが、平民なら10シェケル、上流階級なら1ミナで、命よりメンツが重いようです。「目には目を、歯には歯を、骨には骨を」は上流階級のみで、奴隷なら奴隷の値段の半分(歯は賠償なし)、平民なら歯が20シェケル、骨と目が1ミナずつです。歯の賠償金がエシュヌンナ法典の時代から200年で10倍になっていますね。

 ハンムラビ法典では日給についても規定があり、「賃金労働者を賃借したら、年初から5月(太陽暦4-8月)までは1日銀6シェ(6000円)、6月から年末まで(太陽暦9-3月)は銀5シェ(5000円)とせよ」などと記されています。また「耕作人を賃借する場合は年に穀物8クール(銀8シェケル=144万円)を与えよ」ともあります。日雇い派遣労働者の給料は当時から低かったようです。エシュヌンナ法典では「収穫労働者の日給は銀12シェ(1.2万円)か、それに相当する穀物にせよ」とあり、法で定めなければそれ未満のカネでこき使われていたのでしょう。

 借金/債務が返せなくなったり、罪を犯して賠償金が払えなかったりした者は、債務・賠償を自分の労働で返済するため「債務奴隷」となります。奴隷は主人の所有物であり、法律上も差別されましたが、カネを返済すれば自由の身となることができます。戦争での捕虜も奴隷とされ、身代金が支払われれば解放されましたが、奴隷が産んだ子は奴隷として扱われます。

 奴隷の値段は、ハンムラビ法典などではおおむね銀30シェケルです。月給1シェケルなので30ヶ月ぶんの月給に相当し、2年半働けば返済できる計算になります。職能奴隷などは生み出す価値が高いためもっと高値でした。現代で言えばやや高い自動車ぐらいで、そう無駄遣いはできません。

 前1225年頃、バビロニアでグラ・シュマトという少女が両親によって金8シェケルで奴隷として売られました。買い手のシャマシュ・エティルは代金を物品で支払いましたが、雌ロバ1頭が金2.5シェケル、麦4クール(1200リットル)が2シェケル、上等の衣服と外套のセットが1シェケル、毛布2枚が2シェケル、外套1枚が0.5シェケルと記されています。子供の奴隷は成人より安くなりますが、麦2クールが金1シェケルですから、金銀の交換レートは1:2。金1シェケル36万円として288万円です。両親の当座の生活費にはなったでしょう。ロバはともかく衣服や毛布は高価ですね。

旧約銀価

 聖書にも、銀が貨幣としてしばしば現れます。旧約聖書が編纂されたのは紀元前6世紀のバビロン捕囚以後ですから、ハンムラビ時代よりは銀の価値は下落していますが、フェニキアやユダヤのシェケルは11.4g以上もあり、ハンムラビ時代のシェケルより大きくなっています。額面と重量の兼ね合いのために重くなったのでしょうか。

『創世記』では、族長たちが銀を取引に用いています。都市国家ゲラルの王アビメレクから族長アブラハムが受け取ったのが1000シェケル、妻サラの埋葬のために墓地を購入した代金が400シェケルで、族長ヤコブが祭壇のために購入したシケム郊外の地所も400シェケルです。1シェケル18万円とすると地所は7200万円にもなります。ヤコブの子ヨセフは兄弟たちによって奴隷として売られましたが、その代金は銀20シェケル(360万円)です。

『士師記』でペリシテ人の5人王がサムソンの愛人デリラを買収したカネは1100シェケル(約2億円)ずつ、計5500シェケル(10億円)という莫大なカネでした。エフライム人ミカの母も銀1100シェケルを持っていましたが、彼女はそのうち200シェケル(2kg余)を銀細工職人に渡して一対の偶像を造らせ、年間銀10シェケル(180万円)で祭司を雇ったといいます。1100シェケルは眉唾ものですが、年給180万円は現実感がありますね。

『列王紀』によると、ソロモン王の年収は金だけで666キッカール(1キッカール=3600シェケル)もあり、フェニキアのテュロスの王ヒラムとイエメンのシバの女王はおのおの120キッカールをソロモンに贈りました。またヒラムの船は紅海を南下してオフル(ソマリアか)に到達し、420キッカールもの黄金を持ち帰ったといいます。ソロモン王は600シェケルの重さの金で作った大盾を200、3ミナの金で作った盾を300造らせたとされます。これは眉唾としても、エジプトからは戦車1両あたり銀600シェケル、軍馬1頭あたり150シェケルで購入したといいます。1シェケル18万円なら戦車が1億円余、軍馬が2700万円です。二輪戦車とはいえそれぐらいはするでしょう。

 王国の南北分裂後、北王国の王オムリが新たな首都とするため山を購入した時、銀2キッカール(7200シェケル)を支払っています。のち紀元前9世紀に預言者エリシャがシリアの王の病気を治した時、将軍から同額のカネを支払われたのに受け取らなかったので、弟子のゲハジが密かに受け取り隠しておいたら王の病気が彼に伝染ったといいます。

 ついでシリアの王ベンハダドがサマリアを攻めた時、城壁内は飢饉と籠城で飢餓地獄となり、ロバの頭が銀80シェケル、鳩の糞(ハナニラの球根か)1ログ(320ml)が銀5シェケルで取引されました。ついに母親同士が子供を交換して食らい合うほどになり、サマリア王ヨラムは預言者エリシャを内通者だと疑って殺そうとします。エリシャは暗殺者たちに「王に伝えよ。明日サマリアの門前で、麦粉1セア(7.7リットル)が銀1シェケル、大麦2セア(15.4リットル)が銀1シェケルで取引される」と答えました。その夜、シリア軍が神の力で撤退すると、人々は敵が残した兵糧を掠奪し、エリシャの預言通りになったといいます。この場合は1シェケル18万円では高すぎますから、この頃には銀1シェケルは相当に値下がりしていたのでしょう。

 ハンムラビ時代は銀1シェケルが大麦300リットルで、奇跡によって大幅に安くなった大麦が15.4リットルで1シェケル。銀の値段は20分の1ぐらいに値下がりしています。人間が食べる量はそう変わりませんから大麦300リットルが月給相当とすれば、1シェケルが18万円から9000円、増大したぶんも含めておよそ1万円ぐらいにまで下がっているわけです。

 とすると銀1g1000円ですが、これは奇跡で大幅に値下がりした大麦の代金ですから誇張されており、普段はだいたい銀1gが3000円1シェケル3万円というところです。これ以後のオリエントや地中海世界での銀の取引価格等を見てもこのあたりが妥当です。ソロモン王はさておき、ミカの母が祭司を年10シェケルで雇っていた時代から数百年後には、銀の価値が1g2万円相当から1g3000円相当、7分の1にも暴落していたのです。

 この間、フェニキア人が地中海や大西洋にまで進出し、イベリア半島南部のタルテッソスなどから莫大な銀をもたらしていました。このため銀の大幅な値崩れが起こったのでしょう。またアッシリアもアルメニア高原やザグロス山脈に進出して鉱山を征服し、多くの銀を流通させていました。これほどの銀の値崩れは、紀元後16世紀後半に新大陸や日本から大量の銀がもたらされて生じた「価格革命」までありません。

 前743年、イスラエル/サマリア王メナヘムはアッシリア帝国に服属し、銀1000キッカールを貢納しました。1シェケル=3万円、1キッカール=3600シェケルとすれば1億円余、1000キッカールは1000億円余にも相当しますが、滅びかけていたサマリアに出せるカネでしょうか。彼は国内の富裕層に銀50シェケルずつ出させて集めたといいますが、逆算すると富裕層が7万2000人(1ミナ50シェケル、1キッカール3000ミナとしても6万人)いたことになります。史書が見栄を張ったのでしょうか。

 サマリアがアッシリアに滅ぼされた後、預言者エレミヤは従兄弟から畑を銀17シェケル(50万円ほど)で購入しています。また預言者ホセアが神殿娼婦となった妻を買い戻した時、銀15シェケルと大麦1.5ホメル(44セア=345リットル)を神殿に支払っています。大麦2セアが1シェケルとすると、44セアは22シェケルで、合計すれば37シェケル(111万円)。これは『レビ記』で女性を神殿から買い戻す値段である「30+その1/5」にほぼ相当します。

 新約聖書において、イスカリオテのユダがイエスを裏切って祭司らに売り渡したカネは「銀貨30枚」とされます。これは当時のローマ帝国の銀貨デナリウスやドラクマではなく、神殿で扱われていた銀貨であるシェケルです。ユダはこれで小さな畑を買ったのち惨死したとも、後悔して神殿に銀を投げ入れたのち首を吊ったともいいますが、この「銀貨30枚」には旧約聖書に元ネタがあります。『ゼカリヤ書』11章に「私(ゼカリヤ)は羊飼いとなり、羊の商人は賃金として銀30シェケルを量った。私は主なる神の言葉により、これを神殿の賽銭箱に投げ入れた」とあるのです。イエスを羊飼い=指導者=救世主とみなしたことから繋げられたのでしょう。

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 次回はバビロニアを滅ぼしたペルシア帝国や、ギリシア・ローマなど地中海世界における貨幣について見ていきます。

【続く】

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