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【つの版】度量衡比較・貨幣15

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 唐では安史の乱以後国内が混乱し、各地に軍閥(藩鎮)が割拠して半自立政権となり、ウイグルやチベットが勢力を伸ばします。唐の後期から宋代にかけての経済と銭について見ていきましょう。

◆宋◆

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唐末五代

 両税法によって唐の財政はやや建て直されたものの、北魏以来の均田制は崩壊します。土地を私有化した豪族たちは流民をかき集めて小作農とし、大規模農場で働かせました。朝廷は自前の土地を所有する者を主戸、そうでない者を客戸(佃戸)と分類し、両税は主戸にのみ課されました。

 貧富の格差が拡大すると宗教が流行します。特に仏教は、出家すれば納税や兵役から自由になれるため大いに勢力を広げ、広大な荘園と多数の僧尼・小作農を抱えるようになります。日本でも同様にして律令制・均田制は崩れていき、仏教寺院などの荘園が大いに栄えていました。

 これではいかん、というので唐朝は845年頃に仏教を弾圧し、僧尼の還俗や財産没収を大規模に行います。仏像や仏具は溶融されて銅銭に変えられ、マニ教や景教も同様の目に遭いました。ちょうどウイグルやチベットが崩壊していたため、それらの影響を排除する目的もあったようです。この頃日本から天台宗の僧侶・円仁が唐を訪れており、記録を残しています。

 838年に遣唐使とともに入唐した円仁は、日本から銅銭ではなく砂金や絹を持ってきて現地で銭に交換し、滞在費用にあてています。白絹2疋は銭2貫で売れましたが、絹と綾7疋は6貫、砂金6両は45貫825文で、相場より安い1両7.6貫余でした。外国人旅行者なので足元を見られたのでしょう。唐の1文を200円とすれば1貫20万円で、砂金1両は153万円ほどです。8+45=53貫は1060万円にもなり、贅沢しなければ何年かは滞在できます。円仁らはこれらの銭で袈裟や仏具、経典や食糧(粟1斗は30-80文)を購入し、ロバや護衛を雇って移動し、長安に到着して仏教を学びました。しかし842年から仏教弾圧運動が始まり、円仁らはやむなく845年に帰国の途につきます。帰国できたのは847年、出発から9年も経っていました。

 それから30年後、875年には王仙芝と黄巣が唐に反乱を起こします。彼らは塩の密売業者でした。唐はこの頃には塩の専売による利益が歳入の半分を占めており、密売・私造業者を取り締まっていました。各地で不満を燻ぶらせていた兵士や流民は反乱に呼応し、唐は滅亡寸前に追い込まれます。反乱軍の寝返りや各地の軍閥の奮闘により乱は鎮圧されたものの、天下には群雄が割拠して相争うようになり、907年に唐は後梁に禅譲して滅亡します。五代十国時代の始まりです。

 各政権はこれまで通り銅銭を使い続けましたが、銅不足により鉄銭や鉛銭も民間で発行され、銅銭より安価なものとして非公式に流通しました。

 唐末には北方の契丹が勢力を広げ、君主/可汗は天皇帝を称し、華北を治めた諸朝のうち後晋を支援してチャイナ北部の辺境地域(燕雲十六州)を割譲されました。契丹はチャイナ北辺とモンゴリアにまたがる帝国となり、銅銭を発行して流通させています。946年には反抗した後晋を滅ぼして一時華北を制圧し、翌年国号を大遼と改めて直轄統治を行おうとしますが、残党の反抗に遭って北方へ撤退しました。

大宋銭流

 契丹遼朝も撃退した華北政権も内ゲバが続き、華北では960年に趙匡胤が皇帝に即位してを建国します。宋は契丹が混乱している隙に天下統一を進め、江南諸国を平定して行きました。そして宋は銅銭を大いに発行します。

 宋で最初に発行されたのは、960年の宋元通宝です。国号を内外に知らしめるためもあり、太祖趙匡胤の在位中はこれが鋳造されていましたが、976年に太祖の弟・太宗が即位して太平興国元年と改元すると、銭文を太平通宝と改めました。発行時の元号を銭文とすることは五代十国ですでに行われており、990年には淳化元宝、995年には至道元宝が発行されています。

 997年に太宗が崩御し、子の真宗が即位すると、翌年咸平と改元して咸平元宝を発行します。この頃の国庫収入を見てみましょう。

 至道3年(997年)の歳入は、銭1292万貫、金1.5万両、銀37万両、絹糸70万両、絹綿497万両、紬38万疋、絹170万疋、絁(あしぎぬ)5.2万疋、布110万疋でした。銭1貫=銀1両=金0.1両=絹1疋として合計2220.7万貫になり、このうち塩の専売による収入は1123万貫です。唐では1貫20万円でしたから2000万貫は4兆円になりますが、この頃の銭はもう少し安いようです。

 物価を見てみると、宋代は米1石(95リットル)がおおむね銭1貫です。飢饉や豊作、地方によって上下はありますが、1日分の主食にあたる米1升(日本の5合)が都市部で10文ですから、1斗100文、1石1000貫=1貫です。都市部の生活費は1日1人40文、単純労働者の日給が150-300文(農村で30文)。とすれば1文200円では日給3-6万円にもなり、1文50円とすれば7500円から1.5万円です。米1升が500円、1日1人の最低生活費が2000円、1貫=5万円となります。大量発行によって銭がだぶつき、唐代の1/4に下落したのです。

銭1貫=銀1両=金0.1両=絹1疋≒5万円 1文≒50円

 とすると、997年の歳入2220.7万貫は1.11兆円余。チャイナサイズの帝国としてはそれなりです。支出の大半は軍事費で、あとは官僚の給与です。

 宋初の官僚は月給が最下級で8貫(40万円)、県令で15-20貫(75-100万円)、御史大夫で60貫(300万円)、宰相で300貫(1500万円)。年収では最下級で480万円、御史大夫で3600万円、宰相なら1.8億円です。官僚には賄賂やその他の収入もあるため、生活には困りません。科挙官僚は士大夫として庶民の上に君臨し、雑事は胥吏という民間人が担いました。

 契丹は西夏と結んで宋に対抗し、1004年には20万の大軍を皇帝自ら率いて南進しました。恐れた真宗は契丹と平和条約を結び、毎年銀10万両、絹20万疋を贈ることを条件に平和を買い取ります。銭30万貫(150億円)に相当しますが、戦争になれば出費はこれでは済みませんから安いものです。西夏と宋も同様の和約を結び、宋はカネで買った平和を謳歌しました。ただし宋は大量の軍隊を徴兵し、国境地帯に貼り付け続けてもいます。契丹や西夏はその後も時々兵を動かし、貢物の額を釣り上げさせました。

 11世紀前半、宋の歳入は1.2億貫(6兆円)にも達しました。銭納と物納が半々で、商業・酒・塩に課す税が全体の1/3を占めます。1戸5人の平均年生産60貫(300万円)として、2000万戸=12億貫(60兆円)に10分の1税でちょうど1.2億貫ですから、当時の人口は1億人とも推定されます。

 支出のうち軍事費は1065年に兵を養う費用だけで5000万貫(2.5兆円)、諸経費を加えれば歳出の8割にも達します。建国期には禁軍(皇帝直属の軍隊)が20万、廂軍(雑役)が20万ほどでしたが、年々増加してこの頃には禁軍66.3万、廂軍50万にも膨れ上がっています。年給が禁軍1兵あたり50貫(250万円)、廂軍30貫(150万円)としても、兵の数自体が増えすぎていたのです。これは経済格差に取り残された貧民の雇用対策の面もあったためですが、俗に「良鉄は釘にならず、良民は兵にならず」のコトワザがある通り軍隊に入るのはごろつきか失業した老人で、数は多いが戦闘の役には立ちません。かといって解雇すればそのまま盗賊になり、治安が悪化します。

 この頃、日本から成尋という高僧が宋を訪れています。彼は絹や砂金や水銀などを多額の宋銭に替え、不自由なく旅行・生活することができました。宋の皇帝にも謁見し、多くの下賜品を授かっています。大名旅行とはいえ当時の物価や生活費が読み取れます。

 宋はこうした出費を補うべく、大量の銅銭を発行しました。その枚数たるや1080年には年間500万貫(1000×500万=50億文)にも達し、960年から1127年までに2億貫とも3億貫とも言われる銅銭が発行されたともいいます。あまりの過剰発行に銅銭の価値は下落し、商品は相対的に値上がりして、「銭荒」と呼ばれるインフレが起きたほどです。こうしてだぶついた銅銭は日本へも流出し、貨幣経済を復活させるに至ったのです。

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◆宋◆

【続く】

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