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【つの版】度量衡比較・貨幣58

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1502年、メシカ王にして三国同盟の盟主、いわゆるアステカ帝国の皇帝にモクテスマ2世ショコヨツィンが即位します。その権威と権力は国内にあって並ぶ者がなく、諸王の王たる皇帝と呼ぶにふさわしい存在でした。しかし彼の治世に遥か東方からスペイン人が到来し、強大なアステカ帝国は急速に滅亡へと向かうことになるのです。

◆通◆

◆訳

征服委託

 1504年、スペイン本土からエルナン・コルテス(本名はフェルナンド・コルテス、エルナンは短縮形)という18歳の若者がイスパニョーラ島植民地の首都サント・ドミンゴに移住してきました。彼は総督ニコラス・デ・オバンドの遠縁であったことから便宜を図ってもらい、いくらかの権益を得ながら各地への遠征に従事しました。1511年にはキューバ遠征に赴き、キューバ総督ベラスケスの秘書官として多くの土地と先住民を獲得しています。彼らは先住民を奴隷や隷属民として扱い、労役や貢納を課します。

 スペインでは征服者や入植者に功績として土地を割り当て「委ねる(en-comendar)」制度が以前から行われており、カナリア諸島やイスパニョーラ島でも実施されていましたが、1502年からは開拓や征服のため土地ではなく先住民を村落ごと「委ねる」方式となります。しかし先住民たちは入植者が持ち込んだ疫病や虐待・過剰労働によってバタバタと死んだので、1512年に「ブルゴス法」が制定され、彼らをスペイン王国の臣民である自由人として人道的に扱うよう規定されています。
 また、この法律ではレアル、ペソといった貨幣単位が出てきます。1497年6月の通貨改革によりスペインの基軸通貨はレアル銀貨と定められました。重さ3.434g、純度93.06%、純銀換算で3.195gです。これは34マラベディにあたるとされ、1レアルが(銀1g3000円として)1万円相当とすれば、1マラベディは300円弱です。0.5マラベディ≒150円にあたるのがブランカ(白)と名付けられた1.2gほどのビロン貨(微量の銀を含む銅貨)で、4マラベディ(1200円)、0.5レアル(5000円)、3レアル、6レアル、8レアルのコインも作られました。この8レアルはペソ(peso、ポンドと同語源で「重さ」の意)とも名付けられ、重さは27.4gほど(銀含有量25.56g)です。ドゥカード金貨はヴェネツィアのドゥカート金貨のコピーで、375マラベディ≒11レアル≒11万円ほどです。さらに金ペソという単位もありますが、金1g≒3.6万円とすると100万円近くにもなります。

 ブルゴス法制定後も、「インディオ(インド人)」と呼ばれた先住民の扱いはあまり変わりませんでした。彼らは貢納や鉱山・農園などでの強制労働を課され、入植者の持ち込んだ天然痘などの疫病でバタバタと死んでいきます。入植者らは労働力を補うため黒人奴隷をアフリカから輸入するとともに、さらなる征服すべき先住民を求めて遠征を繰り返したのです。そこへ1517-1518年、キューバの西に先住民の都市や王国が存在するとの報告がもたらされ、コルテスはこれを聞いて征服に出発したのです。

通訳獲得

 コルテスはこの頃、キューバ総督ベラスケスと仲違いしていました。総督の義理の姉妹との結婚の時に圧力をかけられたためとも、より多くの利権を求める入植者たちから指導者として支持を集めたためともいいます(両方でしょう)。嫉妬したベラスケスはコルテスを遠征の指揮官に任命することを拒みますが、コルテスは命令を無視して遠征に出発します。この時コルテスに従ったのは男性500-630人(うち弩兵30、弓兵12、火縄銃装備者、先住民、奴隷、解放奴隷を含む)、医師、数人の大工、8人あまりの女性、馬13-16頭で、帆船11隻に分乗し、少数の大砲を伴っていました。

 1519年2月、コルテスたちはキューバを出発し、ユカタン半島の東に浮かぶコスメル島に上陸します。この地で先住民から情報を収集するうち、彼はユカタン半島に二人の「髭が生えている男」すなわちコルテスたちに似た男が住んでいるという情報をゲットします。コルテスが彼らに手紙を送り、先住民たちがそれを彼らに渡すと、彼らはコスメル島にやってきました。

 一人はヘロニモ・デ・アギラールといい、コルテスより4歳年下のスペイン人で、フランシスコ会の修道士でした。彼は1510年に宣教師としてパナマに派遣されましたが、1511年にサント・ドミンゴへ訴訟のために向かった時ユカタン半島の近くで船が座礁し、先住民(マヤ人)に捕らえられてしまいます。彼らのうち数人は先住民によって神々への生贄に捧げられ、女性たちは奴隷とされ、生き残った男たちは牢獄に入れられて生贄候補となり、あるいは病気で死んでいきます。アギラールは仲間のゴンサロ・ゲレロたちと協力して脱走しますが、別の部族に捕まって奴隷とされます。

 アギラールは首長シャマンザナから先住民の女性を娶って仲間になるよう命じられますが、アギラールは修道士であるためこれを拒み、8年間奴隷として扱われます。一方ゲレロは近隣の都市国家チェトゥマル(チェクトゥマル)の領主ナチャン・カンに仕えて戦争で活躍し、彼に気に入られて娘ザジル・ハを与えられます。ゲレロと彼女の間には三人の子供が生まれ、この地における最初のメスティーソ(ヨーロッパ人と先住民の混血者)となりました。このためゲレロはコルテスの遠征に従わず、悩みながらもマヤ人として生きる道を選びましたが、アギラールはコルテスたちに合流します。彼は現地のマヤ語を話すことができたため、通訳として活躍しました。

奴隷少女

 その後コルテスたちはコスメル島を出発し、ユカタン半島北岸を航行して3月12日にグリハルバ川の河口部に到達します。ここは現タバスコ州で、オルメカ文明やマヤ文明の都市が栄え、当時はポトンチャンという先住民の港湾都市が存在しました。1518年にグリハルバが発見し、酋長のタブスクーブと友好的に接触して、水と食糧を得て立ち去っています。コルテスはこの都市を征服しようと考え、斥候を派遣して調査させます。

 翌日、コルテスらは上陸してミサを行い、ポトンチャンに向けて進軍します。タブスクーブ率いるポトンチャンの住民は迎撃し、矢の雨を放って応戦しますが、戦争に長け銃砲で武装したスペイン人には敵わず、僅かな抵抗ののちに陥落します。ポトンチャンには2万5000軒もの家屋(1戸5人とすれば12.5万人でヴェネツィアに匹敵します)と豊かな果樹園、立派な港湾と神殿があり、コルテスらはその文明度の高さに唖然としたことでしょう。しかし偶像を神として祀り、人間を生贄に捧げているのですから、キリスト教的価値観からすれば明らかに邪悪な異教徒です。聖書にも書かれています。

 タブスクーブらは都市を離れて内陸へ逃げ、周辺諸部族から兵を募って反撃しますが、戦いの末打ち破られ、服属のあかしとして貢物を献上します。貢物には黄金、翡翠、トルコ石、毛皮や鳥の羽、動物などの他、20人の奴隷の少女が含まれていました。彼女らはキリスト教の洗礼を受けて解放され、コルテスら主だったスペイン人に預けられましたが、その中に「マリーナ」という洗礼名の少女がいました。

 4月12日、負傷を癒やして落ち着いたコルテスらは、ポトンチャンを出発してさらに西へ向かいます。彼らはグリハルバが到達してサン・フアンと名付けた島に上陸しますが、通訳のアギラールは現地人の言葉がわかりませんでした。この時、マリーナが進み出て現地人と言葉を交わし、それをアギラールにマヤ語で伝えます。彼女は西のナワ族の地、現ベラクルス州ハラパ付近のオルトラ出身と推測されており、幼い頃に奴隷としてポトンチャンに売られたため、マヤ語とナワトル語の両方を話すことができたのです。彼女はアステカ帝国の使者が様子を見に来た時も通訳として活躍し、彼らからマリンツィン(マリーナ様)、スペイン語で訛ってマリンチェと呼ばれました。

 アギラールに加えてマリンチェを得たことで、コルテスはマヤから西のナワ族ともコミュニケーションをとることが可能になります。同じナワトル語でも方言の異なる地域や、ナワトル語が通じない地域では別に通訳が必要になりますが、アステカが広大な交易網を築いていたおかげでナワトル語は広い地域で通じました。のちマリンチェは現地人から「侵略者に協力して国を滅ぼした」と非難されることになりますが、自分を奴隷として売り飛ばすような連中よりも、自分の能力を見出して人道的に扱ってくれるほうに味方するに決まっています。

 1519年4月22日、コルテスらはサン・フアン島の対岸に上陸してスペインの植民地であると宣言し、そこをラ・ビリャ・リカ・デ・ラ・ベラ・クルス(聖なる十字架の豊かな街)と名付けました。現在のベラクルスです。当時はトトナカ人が住んでいました。彼らはマヤ語でもナワトル語でもない独自のトトナカ語を話していましたが、各地と交易をしていたため通訳はすぐ見つかります。また彼らは西のアステカ帝国の侵略と支配に苦しめられていたため、スペイン人たちを歓迎して対アステカの同盟を申し込みます。

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 こうしてコルテス率いる500人ほどのスペイン人遠征隊はトトナカ人と同盟し、多数の戦士を擁する強大なアステカ帝国と戦うことになります。それは決して簡単なことではありませんでした。

◆RPG◆

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【続く】

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