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【つの版】ウマと人類史:中世後期編18・串刺伝説

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦1453年、オスマン帝国皇帝メフメト2世はコンスタンティノポリスを陥落させ、東ローマ帝国を滅ぼしました。アジアとヨーロッパにまたがる強国の君主として、彼はさらなる征服事業を進めます。

◆HELL◆

◆SING◆

白城包囲

 次なる攻撃対象は、セルビアとハンガリーです。メフメトは1454年にセルビアに遠征して服属させると、ベオグラード遠征の準備を進めました。今はセルビアの首都になっていますが、当時はハンガリー領です。ここはドナウ川に面した要衝で、古代ローマ帝国の時代からドナウ川防衛線の拠点として繁栄しています。1440年にはメフメトの父ムラトが包囲しましたが、陥落させることはできませんでした。ここが征服されればハンガリーの、ひいてはヨーロッパ全土の危機です。

 ハンガリーの大貴族フニャディ・ヤーノシュは諸侯と和平して国土防衛に乗り出し、十字軍の結成を呼びかけます。しかし集まった兵は少なく、ハプスブルク家の国王ラースロー5世はボヘミア王を兼ねていて、ハンガリーのことはフニャディに任せっきりです。やむなくフニャディは傭兵や農民兵、200艘の小舟をかき集め、オスマン帝国の侵攻を食い止めようとします。

 1456年7月、メフメトは6万-7万の大軍を率いてベオグラードに攻め寄せました。フニャディはまだ到着しておらず、守備兵は5000-7000しかいませんでしたが、難攻不落の城は必死に抵抗し、10日耐えしのぎます。フニャディは急いで駆けつけるや、小舟の艦隊でオスマン艦隊を打ち破り、城内に突入して合流しました。メフメトは300門の大砲で激しく砲撃を加え、城壁に穴があいたところで総攻撃を命じます。激しい市街戦が開始され、街の住民は手に手に即席の武器を持ち、可燃物を投げつけて必死に抵抗しました。

 地の利を持つハンガリー側は、市内に突入したオスマン軍を分断して各個撃破し、メフメト自身も負傷したため、形勢不利とみて撤退しました。ハンガリーは勝利に湧きますが、ベオグラードには疫病が蔓延し、フニャディは8月に病没しています。国王ラースロー5世は反ヤーノシュ派を支援してフニャディの子ラースローを処刑しますが、彼が1457年に急死するとフニャディの子マーチャーシュがハンガリー国王に選出されました。

 メフメトはハンガリー遠征で手ひどく失敗したものの、帝国の支配は揺るぎませんでした。東方では現ルーマニア方面、ドナウ北岸のワラキアとモルダヴィアに使者を派遣し、貢納と引き換えに自治を認めます。この頃ワラキア公に即位したのが、かの有名なヴラド3世です。父ヴラド2世はハンガリーのドラゴン騎士団に所属してドラクル(竜公)と呼ばれたため、その子としてドラキュラと呼ばれました。

 彼は1431年生まれでメフメトと年がほぼ同じく、ヴァルナの戦い以後に人質としてオスマン帝国に送られていました。1448年にはオスマン帝国の支援でワラキア公に建てられたものの、2ヶ月で位を追われてモルダヴィアへ逃げ、1451年にはハンガリー領トランシルヴァニアへ逃げてフニャディ・ヤーノシュのもとへ身を寄せます。やがて反オスマンの旗印となるよう祖国へ送られたものの、後ろ盾のフニャディが病死してしまい、やむなく再びオスマン帝国に臣従したのです。ドナウ北岸のワラキアが臣従したことは大きく、メフメトは面目を施して次なる遠征を開始しました。

希蠟平定

 ギリシア南部のペロポネソス(モレア)半島には、東ローマの分国であるモレアス専制公国が残っており、オスマン帝国への貢納を拒んでいました。1458年春、メフメトはモレアスへ遠征し、二人の君主は貢納を支払うことを条件に自治を認められたものの、半島の1/3はオスマン帝国の支配下に入ります。またメフメトはフィレンツェの貴族が支配していたアテネ公国を征服し、ギリシアの大部分はオスマン帝国の領土となりました。

 メフメトは自らをアレクサンドロス大王に擬し、ギリシア各地を歴訪して遺跡を見学しつつ、西欧の支援を受けた反乱軍を鎮圧します。1461年までにモレアスは滅ぼされ、セルビアやボスニアも相次いで征服されましたが、アルバニアは英雄スカンデルベグのもと独立を保っています。彼はもとオスマン帝国に仕えていましたが、1443年に反旗を翻し、教皇やヴェネツィア、フィレンツェの支援を取り付けて25年に渡りオスマン帝国に抗いました。彼の健闘によりオスマン帝国はアドリア海に進出できなかったのです。

 また1459年にはワラキア公ヴラド3世が貢納の支払いを拒み、メフメトは繰り返し使者を送りますが、ヴラドは使者を「無礼である」として串刺しにしてしまいます。恐れたオスマンの兵士らは、彼を「カズィクル・ベイ(串刺し公)」と呼び、ワラキアでは訳してツェペシュと呼びました。メフメトは怒って遠征しようとしますが、アナトリア方面でも変事が起きました。

 アナトリア半島北東部、黒海南東岸の港町トレビゾンド(トラブゾン)には、これも東ローマの分国であるトレビゾンド帝国がありました。一応オスマン帝国に服属していたものの、この頃ペルシアの白羊朝の名君ウズン・ハサンと手を組み、貢納を停止したのです。メフメトはペルシアと不戦条約を結んで東方へ進軍し、1461年にトレビゾンド帝国を征服しました。

串刺伝説

 東方を平定すると、メフメトは1462年にワラキアへ親征します。ヴラドはオスマン軍を焦土作戦とゲリラ戦で何度も撃破しており、粛清した政敵ともども捕虜を串刺しにして道に並べ、威嚇しながら迎え撃ちます。6月にはメフメトの宿営に夜襲をかけて撤退させ、その武名は天下に鳴り響きました。

 しかし苛烈なヴラドの支配には反対派も多く、メフメトはヴラドの弟ラドゥに軍を与え、同年夏にワラキアへ派遣します。またワラキア内外の貴族へカネや情報をばら撒き、ハンガリー王マーチャーシュも抱き込んで反ヴラドのプロパガンダを仕掛けました。ヴラドはトランシルヴァニアへ亡命しますがマーチャーシュに捕らえられ、ラドゥがワラキア公として即位しました。

 マーチャーシュはオスマン帝国との戦いを避けるべく、「実はオスマン帝国に協力していた」という罪状をでっち上げて幽閉し、田畑を燃やして農民を飢えさせた(焦土作戦)、人を無差別に殺し血肉を食らったなどと悪評を流布します。これはインターネットならぬ印刷技術を用いたチラシやパンフレットで周辺諸国にもバラ撒かれました。ただしヴラドは利用価値があるとして殺されず、マーチャーシュの妹マリアと結婚してもいます。

 なお、ヴラド3世を「吸血鬼」とする説は、19世紀末に作家のブラム・ストーカーがレ・ファニュの小説『カーミラ』やポリドリの『吸血鬼』を真似て作り出したものです。それ以前に彼が吸血鬼だったとする説は確認されていないようです。遡ればハンガリーの貴族エリザベート・バートリの血浴伝説に由来するともいいますが、現代の通俗的な吸血鬼のイメージの多くは、これら近代の小説作品によるものです。

伐白羊朝

 メフメトはさらに西方へ進出し、1462年にはヴェネツィア領レスボス島を占領します。アナトリア半島に程近い要衝で、ヴェネツィアによるエーゲ海統治の重要拠点でした。ヴェネツィアは他にもネグロポンテ(エウボイア)島、クレタ島などに拠点を持ち、オスマン帝国の進出に抵抗しています。

 アドリア海の奥に位置するヴェネツィアにとって、東方交易のためのシーレーン確保は死活問題です。人口が少ないため面的支配は難しいとしても、沿岸部の港や島を確保し、シーパワーと巧みな外交によってオスマン帝国のランドパワーと渡り合いました。それでも劣勢は覆せず、しばしばメフメトに暗殺者を送り込んだり、宰相や高官に賄賂を贈ったりしています。

 バルカン/ルメリアからアドリア海を渡ればイタリア半島まではすぐですから、教皇やヴェネツィアなどイタリア諸国は恐れをなし、盛んにルメリアの諸侯やハンガリーなどへ対オスマン帝国の支援を行いました。しかし1463年にはボスニア王国が併合され、1464年にはローマ教皇が病没して十字軍運動が立ち消えとなり、1468年にはアルバニアのスカンデルベグが逝去します。メフメトは東方では1466年にカラマン侯国へ侵攻し、西方では1470年にヴェネツィア領ネグロポンテを陥落させ、イタリアを震撼させました。

 ヴェネツィアはオスマン帝国の侵攻を抑えるべく、東方の白羊朝へ使者を送って同盟し、東西からの挟撃を試みます。カラマン侯国も白羊朝に助けを求め、両大国間の緊張は高まっていきました。

 1471年から73年にかけて、両国は軍事衝突を行います。ヴェネツィアは白羊朝へ大砲と火薬の供給を約束しますが、オスマン帝国によって輸送を阻まれ、エルズィンジャン近郊のオトゥルクベリにおいてオスマン軍が白羊朝軍を撃破します。両国の国境線はユーフラテス川と定められ、アルメニア高原の大部分は白羊朝の手に残ったものの、ウズン・ハサンの権威は低下して反乱が相次ぎ、1478年に彼が亡くなると白羊朝は衰退へ向かいました。

黒海制圧

 1475年、メフメトは宰相率いる艦隊をクリミアのジェノヴァ領の港町カッファ(現フェオドシヤ)に派遣し、クリミア・ハン国の内紛に介入して、メングリ・ギレイを捕虜として連行します。彼は兄ハイデルに王位を追われてカッファに逃げ込んでいたのですが、メフメトは彼を引見すると、臣従を条件に復位を約束します。やむなくメングリは承諾し、1478年にオスマン軍とともにクリミアへ戻ると、オスマン帝国の宗主権を認める属国の君主となりました。チンギス・カンの末裔たるメングリの服属は、非チンギス裔のオスマン家の権威を大いに高め、ジョチ・ウルスの後継国家群もクリミアを介してオスマン帝国の影響下に置かれることとなります。またクリミアに残存するジェノヴァやヴェネツィアの勢力も一掃されました。

 この間、オスマン軍は貢納を拒んだモルダヴィアに侵攻しますが、1475年に敗北を喫します。ワラキアでは別系の公族バサラブがラドゥを追放し、オスマン帝国やモルダヴィアも巻き込んで争っていましたが、ハンガリー王マーチャーシュはこの機会にヴラド3世を釈放、ワラキア公として帰国させました。1476年5月、メフメトは再びモルダヴィア侵攻を行い、ヴラドもこれを防いで奮戦したものの、12月に戦死します。彼の死には謎が多く、ワラキアの貴族による暗殺ともいい、カトリックに改宗していたため貴族や諸侯、民衆の支持を得られなかったのだともいいます。

 メフメトも疫病の流行などによりモルダヴィアから撤退し、矛先を変えてセルビアとアルバニアに出兵します。アクンジュと呼ばれる非正規の騎兵がダルマチアやクロアチアを荒らし回ったため、ハンガリーやヴェネツィアは援軍を送れず、1478年にはアルバニアの大部分がオスマン帝国の手中に収まりました。1479年、ヴェネツィアはメフメトと和約を結び、モルダヴィアも援助を絶たれて降伏、メフメトに臣従します。ついにオスマン帝国の版図はアドリア海に達し、イタリアへ直接兵を送ることが可能になったのです。

 1480年にはエーゲ海のロドス島へ艦隊を派遣しますが、聖ヨハネ騎士団の反撃を受けて撤退します。彼らは十字軍の頃に結成された騎士修道会で、アッコ陥落後はロドス島に拠ってイスラム勢力と戦い、西欧諸国から支援を受けていました。精鋭のプロ集団なので士気も戦闘力も高く、16世紀にマルタ島へ撤退するまでオスマン帝国と戦い続けます。

 メフメトは敗北をカバーすべく、イタリア半島への直接侵攻を実行に移します。1480年7月末、オスマン艦隊はイタリア半島南東端の港町オトラントに上陸し、8月には陥落させます。南イタリア東部の諸都市も攻撃を受け、イタリア全土は震撼しました。ローマ教皇は十字軍を呼びかけ、南イタリアを統治するナポリ王国、アドリア海の東のハンガリー、フランスやポルトガルが呼びかけに応えます。ただしヴェネツィアはオスマン帝国と和約を結んでいたので十字軍には加わりませんでした。

 1481年春、メフメトは帝都の南、アナトリア半島側のユスキュダルへ移動し、親征を行うべく兵を集めますが、5月に49歳で崩御しました。暗殺とも噂されましたが、出発前にはすでに病気であったらしく、病死とするのが一般的です。イタリアに上陸していたオスマン軍は潮が引くように撤退し、教皇や市民たちは歓喜して祝祭を催し、「キリストの敵」の死を祝って教会の鐘を打ち鳴らさせたといいます。

◆魔◆

◆王◆

 メフメト2世の崩御後も、オスマン帝国の拡大は止まりませんでした。次回はメフメトの子、バヤジット2世の時代を見ていきます。

【続く】

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