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【つの版】度量衡比較・貨幣23

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1204年、東ローマ帝国はフランク人とヴェネツィアに滅ぼされ、亡命政権が各地に樹立されます。そして同じ頃、遙か東方ではチンギス・カンがモンゴル帝国を建国しました。モンゴル軍はポーランドやハンガリーまで攻め寄せ、西欧諸国を脅かすことになるのです。

◆神聖◆

◆戦争◆

教皇覇権

 第4回十字軍は東ローマの主要な領土を征服してカトリックの勢力を広げましたが、肝心のエルサレム攻略には向かわず、ヴェネツィアは権益を護るためエジプトのアイユーブ朝と条約を結ぶ有様でした。教皇インノケンティウスはひとまずこれを承認し、西欧諸侯の勢力争いに介入します。1208年には神聖ローマ皇帝フィリップを暗殺しますが、擁立したオットー4世も教皇と対立してイタリアに攻め寄せたため、これを破門してシチリア王フリードリヒを擁立します。

 また英国王ジョンを屈服させ、フランス王フィリップとは対立しつつ協力し、南フランスの異端アルビ派(カタリ派)やイベリアのイスラム教徒、バルト海沿岸東部地域の異教徒に対する十字軍を呼びかけるなど、精力的にカトリック世界を拡大します。1213年には聖地エルサレム奪還のための十字軍を召集し、1215年の公会議で正式に発布しました。彼はこの会議で「教皇は太陽、皇帝は月」と言い放ち、教皇権の優越を宣言しています。しかしフリードリヒもフィリップもジョンも十字軍に参加する気はなく、翌1216年に教皇は亡くなります。

 跡を継いで教皇となったホノリウスは改めて十字軍を召集しますがさほど集まらず、ハンガリー王アンドラーシュ、オーストリア公レオポルト6世(以前英国王リチャードを捕縛した5世の子)が参加します。ヴェネツィアのライバルであるジェノヴァがこれを支援しました。彼らは海路でアッコンに到達し、現地の十字軍諸侯と合流してアイユーブ朝に侵攻します。彼らは疫病に苦しめられ、ハンガリー王とオーストリア公は早々に帰国しますが、残った者たちはエジプトに攻め込み、ナイル・デルタ東部の要衝ダミエッタ(ディムヤート)を包囲しました。

 アイユーブ朝のスルタン・カーミルは和睦を持ちかけますが、援軍を率いて到着した教皇使節ペラギウスらに拒絶され、1219年にダミエッタは陥落します。しかし皇帝フリードリヒはシチリアの統治にかまけて援軍を送らず、十字軍とアイユーブ朝は持久戦の構えとなりました。1221年に援軍が到着すると十字軍は勢いづき、カイロ目指して進軍しますが、カーミルはナイルの堤防を切らせて彼らを泥沼の中に孤立させ、8月末に降伏させます。ダミエッタも奪還され、十字軍は這々の体で去っていきました。

 この頃、十字軍遠征の資金を稼いでいたのがテンプル騎士団でした。もとは1119年にエルサレムの神殿の丘で結成された騎士修道会ですが、教皇直属の聖職者集団として他の騎士修道会ともども特権を授かり、勢力を広げています。1147年にはパリ郊外に拠点を置き、西欧各地に所領・荘園を築いて遠征や巡礼の費用を管理し、現金手形を発行してエルサレムで受け取れるようにするなど国際的な金融機関として発達しました。実際に戦争に参加せずとも、多くの会員はこうした金融業務で遠征や巡礼を支援し、教皇の後ろ盾もあって莫大な富を蓄えていったのです。

皇帝破門

 メンツを潰された教皇は皇帝フリードリヒに責任を押し付け、自ら十字軍を率いて聖地を奪還せよと督促します。フリードリヒはイタリアへ逃げ込んできたエルサレム王ジャンの娘を娶って王位を譲り受けたものの、ダラダラと先延ばしして遠征には行きませんでした。教皇は破門をちらつかせてせかしますが、1227年に皇帝はブリンディジまで進んだものの、疫病が流行して引き返しました。同年に教皇ホノリウスも亡くなっています。

 跡を継いだ教皇グレゴリウスは「異教徒と戦わないために仮病を使った」として皇帝を破門し、皇帝は抗議しますが拒絶されます。破門はキリスト教世界からの追放を意味する厳しい措置で、皇帝といえどもこれを教皇に使われると諸侯や臣民、聖職者たちからの支持を失います。やむなく皇帝は破門状態のまま1228年に遠征に出発しますが、従う兵も少ない有様でした。

 しかし皇帝はすでにアイユーブ朝のスルタン・カーミルと和平交渉を行っており、1229年には戦わずしてエルサレムを返還されます。ナザレ、シドン、ヤッファ、ベイルートなど沿岸部も引き渡され、皇帝はカーミルと同盟して10年間の平和条約を締結しました。これまでのいかなる十字軍よりも平和的に、大きな成果を挙げてみせたのです。シチリア王国は長年イスラム教徒とキリスト教徒が共存していた先進国で、宗教的対立とは無縁でした。

 とはいえ、破門された皇帝が異教徒と同盟してエルサレムを返還されたなどということを認めては、教皇の権威が地に落ちます。教皇グレゴリウスはこれを認めず、フリードリヒに対する十字軍の召集を宣言、北イタリアの諸侯を煽動してシチリア王国領の南イタリアへ侵攻させました。皇帝はアッコンなどに代官を置いて急ぎ帰国し、これを撃退して教皇に和議を迫ります。1230年、教皇はやむなく皇帝と和議を結び破門を解除しました。

 1234年、教皇は皇帝の息子でドイツ王のハインリヒを唆して味方につけ、北イタリア諸国と結んで反乱させます。怒った皇帝は翌年これを鎮圧し、ハインリヒは廃位されて投獄されます。その後も教皇は皇帝に再び破門宣告を行うなどして抵抗しましたが、1241年に世を去りました。

聖王捕縛

 ちょうどこの頃、モンゴル帝国はキプチャク草原を経てヨーロッパに侵攻しています。1240年にはキーウ(キエフ)を陥落させ、1241年にはポーランドとハンガリーで防衛軍を粉砕し、ウィーンに迫ろうとしていました。皇帝オゴデイの崩御によりモンゴル軍は撤退したものの、黒海の北岸はモンゴル帝国に征服され、ルーシは長らく「タタールのくびき」の下に置かれます。

 この影響は十字軍にも及びました。1238年にアイユーブ朝のスルタン・カーミルが逝去すると、息子アーディル2世が跡を継ぎますが内紛が起き、ザンギー朝やルーム・セルジューク朝がこの機に乗じてシリアに侵攻します。カーミルの子サーリフはシリアで転戦し窮地に陥りますが、1240年にエジプトではアーディルがクーデターにより廃位され、サーリフがカイロに入って王位を継ぎました。

 サーリフはモンゴル帝国によって打ち破られたホラズム・シャー朝の残党を率いており、彼らを用いて1244年にエルサレムを奪還し、敵対関係にあったダマスカスを攻撃させます。現地の十字軍諸侯はダマスカスと連合して戦うも大敗し、西欧へ救援を要請しました。

 1245年に教皇インノケンティウス4世はリヨン公会議を開催し、十字軍の派遣について議論します。また皇帝フリードリヒを改めて破門し、モンゴル帝国へ使節を派遣し、ラテン人のロマニア帝国を支援することなども討議されました。当然フリードリヒは十字軍に参加できませんし、英国王ヘンリー3世(ジョンの子)も諸侯の反乱で参戦できず、信心深いフランス王ルイ9世がノリノリで参加することになりました。第七回十字軍です。

 1248年に南仏から出発したルイは、海路でキプロスに到達し、1249年にエジプトへ攻め寄せ、事前に襲来情報を得てもぬけの殻となっていたダミエッタを占領します。サーリフは病床にあり、ルイにエルサレムを返還しての和睦を求めますが断られ、同年にカイロ北東の都市マンスーラに布陣しますが逝去しました。迫りくる十字軍を前に、サーリフの妃シャジャル・アッ=ドゥッルは夫の死を隠して政務をとり、マムルーク(テュルク系の奴隷軍人)たちに命じて十字軍を迎え撃たせます。

 1250年2月、両軍はマンスーラで激突します。マムルークの将軍バイバルスは、マンスーラの門を開け放って敵軍を市内へおびき寄せ、四方から攻めかかって皆殺しにします。アルトワ伯ロベールら先遣隊は全滅し、別のマムルーク部隊が十字軍の補給路を切断、窮地に追い込まれたルイは撤退しました。さらに4月には戦闘に敗れて捕虜となり、40万リーヴル(480億円)もの身代金を支払って釈放されました。占領地は全てエジプトに奪還され、アイユーブ朝ではクーデターが起きてマムルークが政権を握ります。同年12月、破門皇帝フリードリヒ2世は教皇との対立が続く中で崩御しました。

 ルイはエルサレムに巡礼したのち、アッコンに戻ってしばらく反撃の機会を伺いますが、この時フランシスコ会修道士ルブルックをモンゴル帝国に派遣して支援を要請しています。ルブルックは戦乱が続くイラクやペルシア方面を避け、コンスタンティノポリスからカスピ海の北のサライへ赴き、さらにモンゴル高原のカラコルムに到達して皇帝モンケに謁見しました。ルイは1254年にフランスへ戻りましたが、ちょうどモンケはイラン高原へ弟フレグを派遣し、アッバース朝を滅ぼしてシリアへ侵攻することになります。

金貨復活

 1252年、イタリア・トスカーナ地方の都市国家フィレンツェでは、フィオリーノ(フィレンツェの)と名付けられた金貨が発行されました。英語ではフローリンです。これは当時の貨幣価値1リラ(リーブラ/リーヴル/ポンド)=20ソルディ=240デナリに相当するとされ、約3.5gの高純度の黄金を含んでいます。カール大帝の時代ならば銀1リラが現代日本円に換算して120万円にもなりますが、この当時のデナリは銀不足によりほぼ銅貨で、貨幣価値は昔の1/10しかありません。つまり1フィオリーノ金貨=1リラは12万円ほど、庶民の月収の半分程度です。1ソルディ(ソルド)は6000円でグロッソ銀貨(2g)に相当し、デナリは1/12ソルディ=500円です。

 12万円相当の金貨を日常生活で使うことはありませんが、巨額の決済には必要です。以後フィオリーノ金貨は、ヴェネツィアのドゥカート金貨やグロッソ銀貨、ジェノヴァのジェノヴィーノ金貨とともに、東ローマの貨幣に代わって長く欧州の国際基軸通貨となりました。

 フリードリヒ2世はシチリアと南イタリアの領土から莫大な税収を得ていましたが、財政は商人たちからの融資に依存しており、東ローマ帝国を真似て産業の国家による独占を図りました。またアウグスターレという金貨も発行しており、フィオリーノ金貨はこれを真似たものと思われます。彼の崩御後、神聖ローマ帝国は諸侯王の対立と教皇の介入で混乱しますが、彼の文化的遺産は欧州にルネサンスをもたらすことになります。

◆古代◆

◆復興◆

【続く】

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