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【つの版】日本建国14・所造天下

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

根の国のスサノオから娘や武器や琴を盗み出し、現世に帰還したオオナムチは、兄たちを服属させて出雲の王となりました。彼の国造りが始まります。

◆縁◆

◆結◆

古事記 上卷-4 大國主神
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妻問婚

『古事記』によると、八千矛(やちほこ、多数の武具)の神…すなわちオオナムチ・オオクニヌシは、高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)のもとへ求婚に行きました。何度か紹介しましたが、新潟県糸魚川市姫川のヒスイを掌握していた有力な地方豪族(女王)です。因幡のヤガミヒメといい、割と古代には女性の首長がいます。出雲は北陸にも勢力を伸ばしていました。

八千矛の神は彼女の家の前で歌を詠みます。「八千矛の神は、大八島国に妻を求めて放浪し、高志の国に賢い女性がいると聞いて求婚(夜這い)に来ました」。ヌナカワヒメは戸の内側から返歌し、その夜は出会えませんでしたが、次の夜には家の中に入り、夜這いに成功しました。『先代旧事本紀』によると、彼女は諏訪大社の祭神タケミナカタを産んでいますが、『出雲国風土記』では彼女の子をミホススミとします。美保関の神でしょうか。

これは妻問婚(つまどいこん)といい、夫が妻の家に通って子を産ませる婚姻形式です。子は妻の実家で育てられ、母の財産を相続しました。高句麗でも同様の習俗があったことがチャイナの史書に書かれています。

当時の豪族は多くの妻を持つのが普通でしたが、正妻スセリビメは甚だ嫉妬します。オオナムチは詫びを入れた後、出雲から倭国(夜麻登、ヤマト)へ立ち去ろうとします。彼は旅立ちの装いをし、片手を馬の鞍に、片足を鐙に置いて歌を詠みました。スセリビメはこれを聞いて慌て、酒盃を奉って返歌したので、オオナムチは出雲に留まったといいます。

ようやく奈良盆地の地名としてヤマトが出てきました。馬が倭地に伝来するのは4世紀末以後ですから、馬に乗るオオナムチの場面はその後に作られたのでしょうが、出雲の勢力は北陸ばかりか畿内ヤマトにまで及んでいた(及ぼうとしていた)ようです。

そして、オオナムチは他にも多くの妻を持ちました。まず筑紫に降臨した宗像三女神の一柱であるタキリビメを娶り、息子アジスキタカヒコネと娘タカヒメ(シタテルヒメ)を儲けています。タカヒコ・タカヒメと対になる名であり、またアジスキタカヒコネは「迦毛(鴨、賀茂)の大御神」であると記されています。奈良県御所市の高鴨神社の祭神であり、鴨氏の祖神です。

出雲と筑紫は日本海で繋がっており、古くから交流がありました。宗像三女神はアマテラスがスサノオの剣から産んだとされ、そのように高貴な女神もオオナムチの妻になったのです。またオオナムチはカムヤタテヒメを娶って事代主(コトシロヌシ)神を儲けました。母の出自は不明ですが、彼も重要な神で、御所市の鴨都波神社や島根県松江市の美保神社に祀られています。やはり鴨氏の祖神です。これらの神々は後でも出てきます。

さらにヤシマムヂの娘トリミミを娶ってトリナルミを儲け、その子孫は何代も続いたといいます。あるいはオオナムチの子の系譜が縦に繋がっているのではなく、「オオナムチが誰某を娶って産んだ子」が並べ立てられているのかも知れません。『日本書紀』一書ではオオナムチの子が百八十一柱いたとします。ゼウスが子沢山なのと同じく、氏族の系譜に箔付けするため、オオナムチが始祖神として設定されたのでしょう。

しかし、正妻のスセリビメには子を産んだという記録がありません。同じスサノオの娘でも、母親もわからぬ彼女よりタキリビメの方が高貴ですから、出雲の王の血統はアジスキタカヒコネが受け継ぐことになるのでしょうか。

少名毘古那

さて、オオナムチが出雲の御大之御前(みほのみさき、美保関)に赴くと、海の彼方から船が漂着しました。それはまことに小さく、羅摩(かがみ、ガガイモ)の莢実を2つに割った片方を船としたもので、長さは8-10cmほど、幅は2-2.5cmほどしかありません。乗っているのは掌に乗るほど小さなフェアリーめいた神で、鵝(ひむし、蛾)の皮を剥いで衣服としています。

オオナムチは彼の名を問いますが答えず、付き従う神々も誰一人知りませんでした。するとタニグク(谷でグクと鳴くもの、ヒキガエル)が進み出て、「クエビコなら必ず知っています」と言います。クエビコとは「肉体が崩れたもの」「山田のソホド(雨にそぼ濡れて立つもの)」、すなわちカカシであり、足で歩くことは出来なくても天下の事を尽く知る神でした。

そこでオオナムチがクエビコに尋ねると、「彼はカミムスビの神の御子で、スクナビコナの神です」とレスポンスがあります。念の為に高天原のカミムスビに尋ねると「確かに我が子だ。わしの手の中からこぼれ落ちたのだ。お前たちは兄弟となって、その国を堅めよ」と答えます。こうしてオオナムチとスクナビコナはコンビを組み、葦原中国を治め堅めましたが、スクナビコナは後に常世国へ渡っていったといいます。

スクナ・ビコナとはオオナ・ムチと対になる名で、『日本書紀』一書では少彦名、『出雲国風土記』では須久奈比古(すくなひこ)などと表記します。

『日本書紀』本文ではオオナムチの話が出てきませんが、一書には詳しく事績が書かれています。それによれば、オオナムチが出雲国の五十狭々小汀(いささのおばま、稲佐の浜)で飲食している時、海上で声がし、舟に乗った男がやって来ました。彼は白蘞(ビャクレン/やまかがみ)を舟とし、鷦鷯(ミソサザイ)の羽根を衣とする小男で、オオナムチが掌に乗せて弄ぶと、飛び上がって頬に噛みつきました。挨拶のキスのつもりでしょうか。

怪しんだオオナムチが使者を天神に遣わすと(タニグクやクエビコは出てきません)、カミムスビではなくタカミムスビが「わしの子だ。我が千五百の子のうち、そいつは最も悪いやつで、教えに従おうとせぬ。わしの指の間から漏れ落ちたのだ。愛しみ養ってくれよ」と答えます。そこで彼はスクナビコナと名付けられ、オオナムチの協力者となりました。

彼らは力を尽くして天下を経営し、人民や家畜に医療を教え、鳥獣昆虫の災異を払うための禁厭(まじない)を定めました。これまでオオナムチの話に出てきたような民間療法を広めたのです。当時としてはよく効果があったので、人々は今もその恩恵に預かっているといいます。また各地の風土記には両神の活動が記されており、道後温泉を別府温泉から樋で引いてきて湧き出させたといい、始めて酒を造ったともされます。

酒は百薬の長であり、医の字は古くは醫(医・投・酒)と書きました。矢を箱に隠して傷を癒やすマジナイとし、壺の中の薬酒を塗ったり飲ませたりして痛みを和らげたのです。温泉ともども医療に関わります。

こうして人民を利益した二柱でしたが、オオナムチが「我らの造った国は、なんとよくできたことではないか」と喜ぶと、スクナビコナは賢明にも「あるところは成ったが、あるところは成っていないな」と答えたといいます。物事に完成はありません。そしてスクナビコナは熊野の御碕に赴き、そこから再び海の彼方の常世郷へ去って行きました。また淡嶋(伯耆国粟島)に至った時、粟の茎に弾かれて常世郷へ渡ったともいいます。

賢い小人の伝説は世界各地に見られますが、御伽草子にある「一寸法師」の話はスクナビコナが原型と思われます。彼ら「ちいさご」は可愛いながらも油断ならない知恵と戦闘力を持ち、無慈悲に相手を殺す悪党でもあります。スサノオやオオナムチと同じく狡猾なトリックスターであり、天から追放された存在です。西洋のフェアリーたちもそのような性質を持っています。

大物主神

さて、スクナビコナが常世国へ去ってしまったので、オオナムチは悲しんで「私ひとりではこの国は経営できない。誰か協力者はいないものか」と海辺でため息をつきました。すると再び海の彼方から光り輝く神がやって来て、こう告げました。「私を祀るならば、共に国造りをしよう。そうでなければ国は成り難いぞ」オオナムチは驚いて「どのように祀ればよろしいのか」と尋ねます。神は「倭(ヤマト)の青垣(奈良盆地を囲む山々)の東の山の上に祀れ」と答えました。これが御諸山(三輪山)の上に坐す神です。

『日本書紀』一書では、スクナビコナが去った後にオオナムチはひとりで国造りを頑張り、出雲に戻って「葦原中国の逆らうものどもを全て平定し終えたぞ」と言います。そして「いまこの国を治めているのは私だけだ。私と天下を共にできるやつがおるか!」と慢心しました。古事記では悲しんで言った言葉も、解釈次第でニュアンスが違って来ます。

すると神が海を照らして現れ、「私がいなければ、お前はこの国を平定できない。私がいたからこそ、お前はこのような功績を建てることができた」と告げます。オオナムチが「あなたは誰か?」と問うと、神は「私はお前の幸魂・奇魂サキミタマ・クシミタマ)である」と答えました。幸いをもたらす優れた霊魂、すなわちオオナムチ自身の「幸運(ツキ)」の化身です。

◆金閣◆

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◆大黒◆

オオナムチが「まことにそうです。あなたはどこへ住まわれるのですか」と言うと、神は「私は日本国(ヤマトの国)の三諸山に住もう」と答えます。そこでオオナムチは宮を三諸山に造り、この神を祀りました。すなわち三輪の神です。記紀ともにここでは神名が出ませんが、遥か後の神武天皇の時、初めて「大物主(オオモノヌシ)神」という名が現れます。

これは『日本書紀』一書におけるオオナムチの別名の一つでもあります。物(もの)とは物の怪・化け物・物凄いの「もの」であり、畏怖すべき怪しき存在、その気配です。つまり大物主は大いなる精霊の主です。物部(もののべ)はそうした精霊を祀る呪術氏族でもあり、兵(つわもの、武器)を司る氏族でもありました。武士(もののふ)は物部が転訛した呼称です。

大物主神の子らは甘茂君(鴨王)・大三輪君らヤマトの有力氏族で、神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタラ・イスズヒメ)の父ともされます(事代主神の娘とも)。スサノオに始まる出雲系ヤマトの王統は、婚姻によって天孫系ヤマトの王統に接続されるのです。これが何を意味するのかは、神武天皇のところで考えてみましょう。

大年神

『古事記』では、オオナムチの前にオオモノヌシが出現し会話したところで話が終わっており、唐突に大年(オオトシ)神の系譜が始まります。

彼はスサノオの子らの一柱で、母の神大市比売(カムオオイチヒメ)はオオヤマツミの娘であり、オオトシの他にウカノミタマを産みました。

年(トシ)とは本来「穀物」を意味する倭語で、一年で収穫を迎える穀物のことを指します。漢字の「年」も禾(穂)が粘ることを意味します。ウカノミタマのウカとはウケモチやトヨウケヒメ、オオゲツヒメのウケ・ゲと同じく「食物」を意味し、「食物の精霊(ミタマ)」を表す神名です。『日本書紀』の一書では、イザナギ・イザナミが空腹を覚えた時にウカノミタマが産まれたとあり、後に稲荷(イナリ)神と同一視されました。

オオトシは、カムイクスビの娘イヌヒメを娶って大国御魂(オオクニミタマ)、韓(カラ)曾富理(ソホリ)、白日(シラヒ)、聖(ヒジリ)という五柱の神を儲けました。いかにも渡来系っぽい名です。

またカグヨヒメを娶ってオオカグヤマトミ(山の神)とミトシという神々を儲け、アメシルカルミズヒメ(水の女神)を娶ってオキツヒコ・オキツヒメ(竈の神)、ニワツヒ・アスハ・ハヒキ・ニワタカツヒ・オオツチ(庭土などの神)、オオヤマクイ・カグヤマトミ・ハヤマト(山の神)らを儲けました。いずれも職能を持つ神か山々の神、あるいは渡来帰化人の神で、起源は新しそうです。ハヤマト神の系譜がこの後に続きますが省略します。

このうちオオヤマクイは近江国の日枝山(比叡山・日吉大社)及び山背国の葛野の松尾(松尾大社)に坐す神で、山末之大主神・鳴鏑を持つ神との異名を持ちます。両社は葛野に拠点を置く秦氏の祀る神であり、のち葛野に平安京が造営されると、都の守護神として重んじられました。稲荷神もまた起源に秦氏が関わっており、オオトシの系譜にはそうした影響が見られます。

これはスサノオの系譜を大きく二つにわけ、オオナムチの系譜は出雲やヤマトの王権に、オオトシの系譜を秦氏や渡来人に繋げようとしたのかも知れません。しかし秦氏は結局「秦の始皇帝の子孫」という系譜を重んじました。

『古事記』でオオモノヌシが出現した直後にオオトシの系譜が始まるため、一部では「オオモノヌシとはオオトシのことだ」「オオトシとはニギハヤヒである」といった説もありますが、なんとも言えません。神社の伝承などによっては、そう信じられている場合もあるようです。神話伝説は変化するもので、記紀編纂によって固定されるものでもありません。保留します。

出雲とヤマト

ともあれ、こうしてオオナムチは天孫降臨に先立って天下(葦原中国、大八島国)を平定し、人民を撫育しました。『出雲国風土記』では「所造天下大神(あめのした・つくらしし・おおかみ)」と呼ばれています。神武天皇に始まるヤマトの大王・日本の天皇は、このオオナムチが作り上げた「天下」を正式に受け継いだ正統な王権であると主張しているのです。

出雲(魏志倭人伝にいう投馬国)が楽浪や辰韓とも繋がりを持ち、筑紫から山陰・山陽・畿内・北陸に至る、広大な領域を繋いだ部族連合であったのは事実でしょう。しかしスサノオやオオナムチのような英雄が一代で築き上げたわけではなくて、何代もかけて徐々に勢力を広げていったのを、ヤマトタケルめいた英雄神の行いとして纏めたものと思われます。

奈良盆地には多くの出雲系とされる神々が鎮座しており、オオナムチ・オオクニヌシを祀る神社も多数存在します。かつては「畿内の土着の神々が出雲という辺境に追いやられただけだ」と言われましたが、考古学的調査により古代出雲の勢力の大きさが証明されています。記紀神話における出雲の大きな取り扱われ方からも、何らかの史実を反映しているかも知れません。

3世紀初頭、卑彌呼を戴く倭国は、筑紫・吉備・出雲など地域大国の連合によって形成されました。その首府ヤマトは三輪山の麓にありました。出雲とヤマトの関係は、邪馬台国の謎を解く大きな手がかりになることでしょう。

◆出◆

◆雲◆

次回はいよいよ天孫降臨、の前に、高天原の神々が出雲へ降臨し、オオナムチに対して「国譲り」を迫ります。

【続く】

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