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【つの版】ウマと人類史:近代編16・北槎聞略

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 ロシアは18世紀にはカムチャツカ半島やアラスカに到達し、日本の近海にもロシアの船が出没し始めました。徳川幕府はオランダを介して海外の事情をある程度は知り得ており、北方から「おろしや(ロシア)」という大国が迫って来ていることを認識したのです。

◆日◆

◆露◆

半弁五郎

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 1739年にロシアの船が日本沿岸に出没した頃、ロシア人はカムチャツカからクリル諸島/千島列島を南下し、中部の新知しむしる島まで到達していました。彼らはアイヌたちに毛皮税ヤサクを課し始め、1747年には北千島のアイヌらを正教に改宗させたりしています。松前氏はアイヌからこのことを伝え聞いてはいましたが、幕府には報告していません。ただ家臣らの知行地として樺太場所(1752年)と国後場所(1754年、国後・択捉・得撫島を含む)を設置し、北方からの「夷狄」の侵攻に備えさせてはいます。

 ロシアではピョートル大帝の崩御後しばらく混乱が続いていましたが、女帝エカチェリーナ2世が即位すると国政は安定します。彼女は漂着した日本人を集めてイルクーツクに日本語学校を設置し、日本の調査を行わせます。食糧の自給もままならないカムチャツカなどの辺境では、豊かな文明国であるという日本から食糧や物資を交易で補給できれば大変助かりますし、征服してロシア帝国の領土にできれば最高です。

 徳川幕府も蝦夷地の彼方までは手が回らず、松前氏に任せるしかありません。しかし松前氏も辺境には手が回らず、1766年には得撫島にイヴァン・チョールヌィというロシア人が上陸し、アイヌを暴力で服属させて毛皮税や労役を課していますが、松前氏は何もできませんでした。怒ったアイヌは自力で反乱を起こし、侵入してきたロシア人と戦っています。 

 こうした時期に、モーリツ・ベニョヴスキーという変な男が現れます。彼はハンガリー王国(現スロバキア)出身で、ポーランドの反ロシア組織「バール連盟」に加わっていましたが、ロシアの捕虜となってカムチャツカ半島へ流刑に処されます。しかし1771年に他の捕虜と共に反乱を起こし、現地の司令官を殺し、停泊中の船を奪ってカムチャツカを脱出しました。

 彼は千島列島の新知島に立ち寄ったのち南に進路を変え、1771年7月に阿波国海部郡の日和佐(現徳島県南部の美波町)に来航しました。上陸は許可されませんでしたが水と食糧を提供され、土佐の室戸岬沖を通過して長崎を目指します。しかし誤って奄美大島に漂着し、長崎のオランダ商館長宛の書簡を託したのち、台湾・マカオを経てフランスに渡りました。

 その後、彼はフランスの支援でマダガスカルに植民地を建設しようとしますがうまくいかず、祖国ハンガリーに戻ってオーストリアに仕えたり、アメリカ合衆国へ渡ったりしました。のち英国の支援を受けて再びマダガスカル遠征を行いますがフランス軍に待ち伏せされ、1786年に戦死しています。死後の1790年にはフィクションと誇張まみれの「回想録」が出版され、オペラ化されたりして欧州各地で人気を博しました。

 さておき、ベニョヴスキーが残した手紙は一騒動を巻き起こします。彼は高地ドイツ語でこの手紙を書き、「神聖ローマ帝国陸軍中佐」と称し、貴族っぽく「フォン・ベニョヴスキー(von Benjowski)」と署名していましたが、オランダ人は綴りを間違えて「ファン・ベンゴロー(van Bengorow)」と書き記します。これを日本人は「はんべんごろう」と書き記し、幕府に手紙の内容が送り届けられました。そこには「ロシアが松前(蝦夷地)を征服するためクリル諸島(千島列島)に要塞を築いている」とあり、あながち嘘でもありませんでしたが、幕府はこの手紙を黙殺しています。1778年にはロシア皇帝の勅書を携えたイヴァン・アンチーピンなる者が蝦夷地に到来し、通商を求めましたが、松前氏に拒まれています。

赤狄風説

 このような中、仙台藩江戸詰藩医の工藤平助により『赤蝦夷風説考』上下巻が著されます。天明元年(1781年)に下巻が先に書かれ、天明3年(1783年)に序文・上巻が地図2枚つきで著されました。彼は社交的で多種多様な人物と交流し、幕府のオランダ通詞(通訳)である吉雄耕牛、蘭学者の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵・桂川甫周らとも交際し、海外の広範な知識を収集していました。遠く長崎や松前からも門人が集ったといいます。

 松前からの情報によれば、蝦夷(アイヌ)の北方に赤い衣服を纏った異人「赤蝦夷(赤狄)」たちが現れ、蝦夷を圧迫しているとのことでした。また長崎を介したオランダ(紅毛)からの情報によれば、彼らはヲロシヤ(ロシア)人といい、北方から日本国を狙って交易を求めているとのことです。そこで工藤は「国を治めるには国を富ませるのが第一であり、それには外国との貿易が必須である」「蝦夷地には金銀銅が産出するから、これを開発して経営し、ロシアとの交易にあてればよい」と説きます。

 幕政を司る老中の田沼意次は蝦夷地の開発を計画しており、工藤から本著を勧められて興味を持ち、調査隊を派遣しています。しかし時は天明年間、天候不順や浅間山の噴火で天明の大飢饉が発生し、全国で数十万人が餓死するという大惨事が起きていました。幕府は重商主義政策に走って被災地を救済せず、都市部に流入した困窮民により治安が悪化し、田沼政治への批判が強まります。1786年に後ろ盾の将軍・徳川家治が逝去すると田沼は失脚し、蝦夷地の調査・開発も中止となりました。

 工藤平助の弟子・林子平は『三国通覧図説』『海国兵談』などを著してロシアの脅威を説き、「海国である日本が異国の兵を撃退するには、火砲を備えた兵船を揃え、沿岸に砲台を据えねばならない」「江戸は海に面しているから異国船に直接攻め込まれる恐れがある」「幕府の権力と経済力を強化すべし」などと記しました。しかし幕閣でもない私人が幕政に口出しするなどもってのほかとされ、著作は発禁処分となり、子平は蟄居させられたのち、1793年(寛政5年)に56歳で逝去します。

 田沼意次失脚ののち、老中・松平定信は「寛政の改革」を行っています。彼は田沼の政治路線も(批判はしつつ)意外と引き継いでおり、江戸湾の防備体制を強化し、陸奥沿岸に砲台を置いて「北国郡代」を設置、オランダの協力のもと洋式軍艦を配備しようとしていますが、1793年に彼が失脚すると立ち消えとなりました。

北槎聞略

 一方、天明3年(1783年)には大黒屋光太夫がロシア領のアリューシャン列島に漂着しています。彼は伊勢国白子浦(現三重県鈴鹿市)の廻船問屋の船頭で、紀州藩の米を江戸へ運ぶ仕事をしていましたが、天明2年末に駿河沖で嵐に遭って漂流し、7ヶ月後にアムチトカ島に漂着しました。光太夫らはアレウト人やロシア人と遭遇して言葉を学び、厳しい冬のため次々と仲間を失いながらも、4年後(1787年)にロシア人たちと共に船を作って島を脱出、カムチャツカに到達しました。この地でフランス人探検家レセップスと出会い、彼の探検記に光太夫のことが記されています。

 光太夫たちはオホーツク、ヤクーツクを経由して1789年にイルクーツクに至りますが、アムチトカ島漂着時に16人いた一行は6人に減っており、ロシア人も漂着民を帰国させようとはしませんでした。この時、光太夫はスウェーデン出身の博物学者キリル・ラクスマンに出会います。彼の師はカール・ツンベルクといい、オランダ商館付き医師として出島に赴任、1776年には将軍徳川家治に謁見した人物で、桂川甫周ら蘭学者とも交流がありました。ラクスマンは光太夫に親身になって接し、帰国したいという彼の願いを叶えるため、1791年に女帝エカチェリーナ2世へ謁見します。

 1791年5月28日、ラクスマンと光太夫は帝都サンクトペテルブルク郊外の宮殿で62歳の女帝に謁見し、帰国の許可を嘆願します。女帝は日本との通商を望んでいたためこれを許可し、光太夫から日本の商業についての情報を聞き出します。ただ帰国までに1名が死去し、2人はロシア正教に帰依してイルクーツクにとどまることとなり、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3人だけでした。ラクスマンの息子アダムが遣日使節となり、彼らを送り届けるとともに、イルクーツク総督からの通商要望の信書を持参します。

 1792年(寛政4年)9月24日、一行はオホーツクを出港し、10月20日に蝦夷地の根室に到着します。事情を聞いた松前藩はやむなく幕府に連絡し、幕府は相談の末「漂流民の送還は許可するが、通商したければ長崎へ行くように伝えよ」と決定し、使節を鄭重に扱うよう指示して使者を派遣します。根室での越冬中に漂流民中で最年長の小市が病死し、その地に葬られました。

 1793年(寛政5年)6月、アダム・ラクスマンと光太夫・磯吉らは松前に赴きます。漂流民らを引き渡したラクスマンは幕府から長崎への入港許可証を渡されますが、長崎へは行かずにオホーツクへ帰還し、光太夫らは江戸へ招かれて将軍に拝謁します。1783年に漂流してから10年の歳月が経っていました。彼らの報告は記録され、翌1794年(寛政6年)に桂川甫周によって『北槎聞略』としてまとめられます。

 光太夫は磯吉ともども江戸に屋敷を授かって暮らすこととなり、蘭学者らと交流しながら平穏な日々を送り、帰国から35年後の1828年(文政11年)に77歳の長寿で逝去しています。イルクーツクに居残った2人のうち、庄蔵は1794年に病死しますが、新蔵は日本語教師や新たな日本からの漂流民の世話役として活動を続け、1810年に52歳で逝去しました。

◆日

◆露

 この頃、欧州ではフランス革命ナポレオン戦争が勃発しています。日本と交流のあったオランダは本国がフランスに占領されて1795年に衛星国「バタヴィア共和国」となり、1806年にはナポレオンの弟が封建されてホラント王国となります。英国はこの混乱に乗じてオランダ領東インドを接収し、南から清朝や日本へ進出してくることとなるのです。

【続く】

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