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【つの版】日本刀備忘録33:九頭龍王

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 酒天童子は伊吹山や八岐大蛇、草薙剣と結び付けられ、彼を武士が退治する物語は、武士が正統な朝廷の武力の保有者であることを保証する神話となりました。やがて酒天童子の出生地は伊吹山のさらに東北、八岐大蛇の出身地である高志の国、越後に追いやられていくことになります。

◆九頭◆

◆龍王◆


国上寺伝

 新潟県燕市の西部、弥彦山塊の南部に国上くがみという古刹があります。寺伝では和銅2年(709年)に修験道の高僧・泰澄が弥彦神社の託宣を受けて開いたといい、南には20世紀に開通した信濃川の大河津分水が流れ、寺泊から日本海に注いでいます。この水路が完成するまで信濃川は越後平野を暴れまわり、多数の潟湖を含む広大な低湿地帯を形成していました。

 ただ弥彦山塊は洪水で沈むことがなく、冬は日本海からの寒風を防ぎ、陸路でも海路でも交通の要衝であったため、弥彦山の神は越後開拓の祖神として古来崇められてきました。そして国上寺に伝わる『酒顛童子絵巻物』によれば、酒顛(酒吞/酒天)童子はここで生まれ育ったとされます。

 それによれば、むかし桓武天皇の皇子・桃園親王が越後に流された時、石瀬善次俊綱という者が従者となって寺泊に上陸しました。俊綱(あるいはその子孫の俊兼)は国上寺の南の蒲原郡砂子いさご塚の城主となりましたが、妻が子を産まぬので悩み、信濃国戸隠とがくし九頭竜くずりゅう権現に参拝祈願したところ、果たして妻が懐妊しました。しかし胎内にあること3年に及んだ「鬼子」であったため恐れられ、「外道丸」と名付けられます。

 彼は美しい少年となりましたが手のつけられぬ乱暴者で、国上寺に稚児として出されましたが、多くの女性に恋慕され、恋文を山のように送られました。しかし彼は修行の邪魔だと恋文を読まず、返事も送らなかったので、恨んだ娘の一人が滝に身を投げてしまいます。流石に気が咎めた外道丸が恋文を読もうと文箱を開けたところ、娘の怨念が紫の煙となって立ち昇り、外道丸に纏い付きました。彼が顔に違和感を覚え、井戸の水鏡で見てみると、顔は悪鬼の形相に変わっていました。

 鬼と化した外道丸は仏道修行を捨てて寺を逃げ出し、付近の岩窟に住み着いて酒顛童子と名乗り、邪悪な心の赴くままに乱暴略奪を行って暮らしました。やがて近隣の茨木童子らを従えて仲間を増やすと、手狭になった故郷の山を立ち去り、南の越後国頸城郡(上越地方)に遷り、さらに南の信濃国戸隠山を経て、最終的に丹波国大江山へ流れ着いたのだといいます。

 室町時代の『御伽草子』でも、酒吞童子は「本国は越後の者、山寺育ち」と身の上を語っています。国上寺の付近には酒呑童子が通ったとされる稚児道や姿見の井戸、彼の住んだ岩屋、彼が用いた大盃と称するものも伝来しており、山麓には1995年になって「酒呑童子神社」なるものも建立されていますが、大江山や伊吹山に比べると由緒は古いとは言えません。桓武天皇の皇子で越後に配流された者は史実では存在しませんし、年代的に比叡山の開山より遅く生まれていることになります。そもそも、なにゆえ越後国の国上寺に酒呑童子誕生伝説が残っているのでしょうか。

伝承解題

 まず「桃園親王」と呼ばれた皇子は、桓武天皇ではなく清和天皇の第六皇子・貞純親王です。彼は清和源氏の祖・源経基の父にあたり、一条北大宮に「桃園第」と名付けた邸宅を構えていたことからそう呼ばれました。

 この邸宅はのち醍醐天皇の皇子・代明親王、その子の源保光(桃園中納言)、藤原師氏(桃園大納言)・近信・伊尹・行成に引き継がれ、行成が晩年敷地内に世尊寺を建立したことから、子孫は世尊寺家と呼ばれています。

 室町時代初期に編纂された系図集『尊卑分脈』によると、貞純親王は人々の夢に「桃園の池に住む七尺の」として現れたといい、これはその子孫が繁栄すること、あるいは皇統を継ぐ兆しであると伝えられます。尊卑分脈が編纂された時期は足利義満の全盛期ですから、清和源氏の棟梁、源氏長者である義満に箔をつけるための神話に決まっていますが、酒呑童子と関わる存在に「龍」が出てくるとは因縁を感じます(源頼光も清和源氏ですが)。

 石瀬は岩瀬いわせ否瀬いなせとも記されますが、弥彦神社の北側に石瀬いしぜの地名があり、関係はありそうです。遡れば陸奥の磐瀬(石背)国造かも知れませんが、よくわかりません。問題は次です。

九頭龍王

 戸隠山は信濃国北西部、越後国との境に聳える霊峰で、手力男命によって高天原から投げ落とされた天岩戸が化した山と伝えられ、近隣の飯縄いいずな山とともに古来修験道の霊地です。平安時代末期の『梁塵秘抄』には駿河の富士山、伊豆の走湯権現、伯耆大山と並ぶ四方の霊験所と記され、鎌倉時代には比叡山延暦寺に属していました。その奥宮に祀られるのが、上述の越後の酒顛童子伝説に現れる「九頭竜権現」です。

 九頭竜伝承は戸隠山のみならず日本各地に見られ、近くは越前国の九頭竜川流域、遠くは坂東・近畿・九州にもあります。もとは急峻で氾濫を起こす大河を「崩れ川」といい、これに仏教の八大龍王の一つ・九頭竜王(梵名はヴァースキ)の名をあてたものでしょう。チャイナ神話にも洪水を巻き起こす邪悪な九頭の蛇神相柳などがいます。クトゥルーは無関係だと思います。

 文永12年(1275年)に編纂された仏教書『阿娑縛抄』によると、仁明天皇の嘉祥2年(849年)、学問(修験者)が飯縄山から西の大山(戸隠山)に向かって七日間祈念を行い、独鈷杵を投擲して落ちた場所を探りました。すると大きな岩屋(洞窟)があったので、そこに坐して法華経を唱えていると、南方から臭い風とともに「九頭一尾の鬼」が出現しました。

 鬼は「誰が法華経を唱えているのか」といい、自らの身の上を勝手に語りだします。それによれば彼は前の別当(寺の住職)でしたが、供物を貪った罰が当たって死後は邪鬼となり、このような姿になりました。しばしば僧侶が山中で法華経を読誦すると、その功徳で成仏しようと聴聞に来ますが、自分の放つ毒気で害意もないのに僧侶を殺してしまい、そのようなことが40回余りにも及びました。幸い今回の学問は毒気で死ななかったので、ぜひとも法華経をこのまま聴聞して菩提を得たいとのことでした。

 そこで学問は岩屋から外に出ると「鬼者隠形(鬼は姿を隠せ)」と教え、代わりに岩屋の中に入るよう命じたので、鬼はかしこまって岩屋の中に籠もりました。続いて学問は岩屋のを封じ、「南無常住界会聖観自在尊、三所利生大権現聖者」と唱え、ここに寺を立てて「戸隠寺」と名付けたといいます。この時にはまだ修験者に調伏される「鬼」であり、九頭竜とか権現とは呼ばれませんが、長禄2年(1458年)に編纂された『顕光寺流記並序』では九頭竜権現と呼ばれていますから、九頭竜権現による酒顛童子誕生伝説はそれ以後に形成されたのでしょう。とはいえ国上寺から随分遠いため、もとは弥彦山の神の申し子だったのかも知れませんが。

 さて、嘉祥2年といえばちょうど『大江山絵詞』では酒天童子が大江山に住み着いた年にあたります。全く同じなのは偶然とは思えませんし、阿娑縛抄の方が先に成立していますから、大江山絵詞を作成した延暦寺の僧侶がこれにヒントを得て年代を合わせた可能性はあります。また『太平記』では源頼光の父・満仲がまさに「信濃国戸蔵とがくし山の鬼」を鬚切の太刀で切ったことから、この太刀を「鬼切」と呼ぶようになったと伝えています。当時の伝承で「戸隠山の鬼」といえば、阿娑縛抄に記す鬼のことでしょう。

 とすると酒呑童子の「父」なる九頭竜権現は、源頼光の父によって討伐されたことになります。『源平盛衰記』剣巻には満仲の鬼退治の話はまだ現れませんし、遥か戸隠山まで鬼退治に行くのは遠いので、実際に彼の所領があった摂津での話だとする説もありますが(摂津から丹波老ノ坂まではすぐ近くですね)。ともあれ太平記が大江山絵詞より先に編纂されていた場合、戸隠山の鬼は大江山や伊吹山の鬼より先に満仲に斬られ、源氏重代の名刀「鬼切」の名のもとになったことになります。

 しかし、それなら酒呑童子を遥か越後の出身としなくても、摂津だか信濃だかの戸隠山で生まれ育ったとすればよかりそうなものです。戸隠山も伊吹山の遥か東北(鬼門)にありますし、伊吹山の八岐大蛇と戸隠山の九頭竜権現は明らかに重ね合わされています。なぜ彼は越後で生まれたのでしょう。再び越後へ戻り、もう少し詳しく伝承を調べていきます。

◆Nine◆

◆Lives◆

【続く】

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