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【つの版】度量衡比較・貨幣46

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 14世紀後半、琉球/沖縄本島は北山/山北・中山・南山/山南の三国に分かれ、互いに争いつつ明朝に朝貢していました。このうち中山王が他の国々を併合し、琉球国を統一することになります。

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尚思紹王

『明史』によると、永楽2年(1404年)に中山王世子の武寧が使者を明朝へ派遣し、父(察度か)の喪を告げて王位を世襲しました。『中山世鑑』によれば察度は1395年に逝去していますが、何度か使節を往来させながら9年間も明朝へ喪を告げなかったことになり不自然です。実際に察度が逝去したのはこの頃でしょう。そして永楽5年(1407年)4月、中山王世子の思紹が使者を派遣し、父の喪を告げて来たので王位に冊封したとあります。

 中山世鑑等によれば、思紹は武寧の子ではなく、山南の佐鋪(佐敷)按司です。また彼自身は王とならず、その子の尚巴志が山南王となったのち、中山・山北を攻め滅ぼして琉球を統一したといいます。尚巴志は明史にも出て来ますが、永楽22年(1424年)春に「中山王世子尚巴志が父の喪を告げた」とあるのが初出で、永楽5年から16年間は思紹が中山王だったはずです。また山南王位が代わったとは明史になく、中山世鑑の記事は怪しいものです。

 1701年に編纂された『中山世譜』に引く「遺老伝」によれば、思紹の父は鮫川大主さめかわうふしゅといい、葉壁から作敷(佐敷)間切の新里村場天(馬天/ばてん)という港町に移住しました。彼は大城うふぐすく按司の娘を娶って一男一女を儲け、これが思紹と場天祝ばてんのろです。思紹は成長すると苗代村に移住し、苗代大親なーしるうふやと呼ばれました。尚思紹とはおそらく「なーしる/なわしろ」に「尚思」の字をあてたもので、絽を紹と書き間違えて伝わったのではないかともいいます。

 思紹は佐敷村の美里子の娘に通い、洪武5年(1372年)に男児を儲けました。これが尚巴志です。彼は21歳の時に佐敷の領地を継いで按司となりましたが、長じても身長五尺(150cm)にも満たぬ小男だったので小按司しょうあじと呼ばれたといいます。尚巴志とは小按司の音写でしょうか。また彼は与那原で貿易をしていた異国の商船から鉄塊を購入し、百姓に分配して農具を作らせたので人心を集めたといいますが、同じ話は中山王察度の伝にも見えます。琉球では鉄器が稀少だったので、港町にいて鉄器の交易と分配を司る者が勢力を得たのでしょう。古代の倭地とそっくりです。

 巴志はやがて島添大里按司を攻め滅ぼし、併合しました。ついで中山王武寧を攻めると、武寧は城を出て謝罪し罪に伏したので、按司たちは巴志を中山王に推戴しました。しかし巴志は父の思紹を王位につけ、自らはその輔佐となりました。これが永楽4年(1406年)にあたり、翌年明朝に使者を派遣して中山王に冊封されたといいますが、中山世鑑では武寧の降伏を巴志の即位前年の「永楽19年」としており、混乱がみられます。中山世譜は中山世鑑の編纂から50年後、チャイナの史書などを参考にして後から体裁を整えたものですから、辻褄を合わせたのでしょう。またこの時、中山の都を浦添から内陸の高台にある首里に遷したと伝えられます。

北山併合

 明史に戻ると、永楽8年(1410年)に山南王が3人の留学生を派遣しており、翌年(1411年)中山王が国相(総理大臣)と寨官の子を留学させたとあります。この時、右長史の王茂と左長史の硃復が使節として到来し、こう告げました。「硃復はもと江西饒州(江西省上饒市)の人で、察度以来40余年も王を輔佐しており、今年80歳を超えました。辞職して故郷に還りたいとのことです」。明朝はこれを許可し、王茂を国相に任命したといいます。中山王には大陸出身のチャイニーズが長年大臣として仕えていたわけです。

 永楽11年(1413年)、中山王はまた寨官の子13人を留学させましたが、この頃に山南で変事が起きました。山南王の汪應祖が兄の達勃期(たぶち)によって弑殺されたのです。寨官(按司)たちはこれを討伐し、汪應祖の子の他魯每(たるみー/太郎思い)を主としました。そして永楽13年(1415年)に冊封を請うたので、明朝は行人の陳季若に命じて派遣し、彼を封じて山南王とし、誥命・冠服及び宝鈔1万5000錠を下賜したといいます。

 同年4月には山北王が10年ぶりに明朝へ朝貢しましたが、山北はまもなく二王によって滅ぼされます。時の王は攀安知でした。中山世鑑等によると臣下の本部平原もとぶていはらが中山攻撃を進言した時、本部と対立していた周辺の按司らが中山に密告しました。思紹・巴志らは離反した山北の按司らを率いて今帰仁城を攻め、本部を裏切らせて落城させたといいます。巴志は息子の尚忠を北山監守に任命し、今帰仁城に住まわせました。山北王に従っていた奄美群島の与論島、沖永良部島、徳之島も中山王に従います。

 史書によると、攀安知は落城の時に城を守護するイベという盤石の前で切腹し、返す刀でイベを叩き切って五町(500m)も投げ飛ばし、重間河に投げ込んだといいます。どえらい怪力ですが、異説によれば自刃に用いたのは千代金丸という累代の宝刀でこちらを投げ捨てたのだとか、自刃しようとしたら持ち主を守る霊力によって叶わず、投げ捨てた後に別の刀で自刃したのだともいいます。のち人がこれを拾い上げて中山に献上したとされ、代々琉球王家に受け継がれて現代まで伝わっています。

 こうして山北も中山に併合され、中山はますます富強となりました。明史によると、中山は年に二回も三回も朝貢するようになり、明朝はその頻繁なのを厭ったけれども却下できなかったといいます。朝貢使節には宗主国から莫大な金品が下賜されますから、あまり頻繁に来られると困るのです。調子に乗った中山の使節は永楽13年(1415年)に福建で騒動を起こし、明朝の兵士や官吏を殺傷し、船や衣服を掠奪しました。明朝は報復としてその首領を殺し、使節団を中山王に送還して裁かせましたが、中山王は翌年使者を遣わして謝罪したため赦免されたといいます。乱暴な使者もいたものです。

 琉球統一が進められたのは、日本と明朝の関係の変化も関係しています。先述のように1401年に足利義満/源道義が日本国王に冊封され、朝貢貿易が盛んになりましたが、義満が1408年に亡くなるとその子・義持は明朝と国交を断絶し、貿易を停止します。代わって琉球を介しての間接貿易が盛んになり、琉球には日明両国の商船が頻繁に往来することとなりました。当然港を抑えるオヤブンたちの抗争も盛んになり、倭寇や海商が幅をきかせたことは推測できます。福建で暴れたのもそうした荒くれ者たちでしょう。

三山統一

永楽22年(1424年)春、中山王世子の尚巴志は使者を派遣して父の喪を告げ、明朝は先例通り葬祭の品々を下賜した。

 中山世鑑等によれば、尚思紹は永楽19年/応永28年(1421年)辛丑に逝去し、子の尚巴志が翌年50歳で後を継いで即位しました。彼の妻は眞鍋金まちるぎといい、中山東部の伊覇(いは、現沖縄県うるま市石川伊波)を拠点とする按司の娘でした。伊覇按司は英祖王統の北山世主の末裔と称し、攀安知討伐の時にも功績をあげており、外戚として権勢を振るいました。

仁宗(洪熙帝)が帝位を継ぐと、行人の方彝に命じてその国へ詔を告げさせた。洪熙元年(1425年)、中官に命じて勅書をもたらし、巴志を封じて中山王とした。宣徳元年(1426年)、その王に冠服を支給していなかったので、使者を派遣して請い求めてきた。命じて皮弁服を作らせ、これを下賜した。宣徳3年(1428年)8月、皇帝は中山王が勤勉に朝貢して来るのを褒め、使者を派遣し勅書をもたらして労わせ、羅や錦などを賜った。山南は宣徳4年(1429年)に2回朝貢したが、それ以来やってこなくなり、中山に併合された。これより中山一国だけが朝貢し、絶えることがなかった。

 山南/南山王国が中山に併合されたのは、1429年頃のようです。山北が中山に併合された以上、国力の差は歴然としており仕方ありません。ここに三山は統一され、尚巴志は「琉球国中山王」として琉球唯一の王となります。これより450年にわたり存続した琉球王国の始まりです。

◆琉◆

◆球◆

【続く】

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