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【つの版】ウマと人類史20・漢末胡乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 後漢の桓帝・霊帝の時代、チャイナには天変地異や疫病が相次ぎ、北方では烏桓・鮮卑・匈奴、西方では羌族が乱をなしていました。国政は宦官が掌握し、反対派は公職追放(党錮の禁)され、天下には盗賊や邪教がはびこっていました。世にも名高い三国志……の前、漢末動乱の始まりです。この時代に、匈奴・烏桓・鮮卑ら胡族はどうしていたのでしょうか。

◆漢◆

◆末◆

韓遂張純

 光武帝劉秀は南陽郡(河南省南陽市)の出身で、姻戚や臣下の多くも河南や河北の出身だったためもあり、王莽や更始帝が滅ぶと都を長安に置かず、洛陽に置きました。周も陝西から洛陽に東遷しています。このため後漢のことを東漢ともいいますが、長安付近は旧都として重要視されたものの、相次ぐ羌族の反乱で戦乱の巷となり、次第に荒れ果てていきました。

 西暦184年2月、河北・山東・河南などで黄巾の乱が勃発し、洛陽は危機に陥ります。漢は将軍たちを派遣してこれを年内に鎮圧しますが、この乱は天下を揺るがし、各地で群盗(反政府勢力)が蜂起しました。

 184年冬、涼州(甘粛省)の羌族が各地で反乱を起こし、悪徳役人を殺して漢から独立し、各々勝手に王や将軍と名乗りました。また漢人の韓遂(韓約)らを擁立して指導者とし、総勢10万を超える大軍となります。名将馬援の末裔とされる馬騰は母が羌族でしたが、この時反乱鎮圧のため応募し、手柄を立てて軍司馬に任命されています。

 185年、漢は皇甫嵩(途中で張温に交替)や董卓らを長安に派遣して反乱鎮圧にあたりました。孫堅陶謙公孫瓚らも参加しています。漢軍は総勢10万に及ぶ大軍でしたが、相手には地の利があり、兵站を攻撃されて撤退に追い込まれました。張温は中央へ呼び戻されますが、董卓は韓遂らに備えて長安近郊の扶風に駐屯し、睨みをきかせます。韓遂は馬騰を仲間に引き入れて反乱を続け、董卓は朝廷からの帰還命令を拒否して駐屯を続けました。彼は隴西の出身で騎射に優れ、左右どちらからも騎射できたといいます。西方は彼の地盤ですから、韓遂らを抑えつつ勢力を蓄えたのでしょう。

 東方では、この頃烏桓の勢力が盛んでした。遼西烏桓の大人丘力居は5000余落、上谷烏桓の大人難楼は9000余落を配下に置いて王を称し、遼東属国烏桓の大人蘇僕延、右北平烏桓の大人烏延らも1000から800の落を率いて王と称していました。合計すると1万6000落=4万戸=20万人もの大集団で、これらを三郡烏桓(諸郡烏桓)と呼びます。

 187年、中山太守の張純が逃亡して丘力居に身を寄せ、その軍勢を掌握すると、自ら弥天安定王(弥天将軍)と号し、三郡烏桓の元帥となりました。彼はもと泰山太守の張挙らと手を組み、諸郡の太守を殺害して占領し、人民を連れ去ります。これは張温が張純らを西方遠征へ行かせず、騎都尉の公孫瓚を推挙したためだったといいますが、公孫瓚は精鋭の騎兵を率いて反乱軍を打ち破ります。大敗を喫した張純らは鮮卑へ逃亡しました。

 その後も丘力居率いる烏桓は幽州・冀州・青州・徐州を荒らし回り、役人や民衆を殺し掠奪を行い、公孫瓚を包囲します。188年、幽州牧に任命された劉虞は張純の首に懸賞金をかける一方、烏桓・鮮卑らへの懐柔策を行い、丘力居を帰順させます。後ろ盾を失った張純は189年3月に食客に殺され、乱は鎮圧されました。公孫瓚はメンツを潰されたので劉虞を恨みますが、解決したなら文句は言えません。しかし同年、大事件が起こります。

董袁作乱

 189年、董卓は幷州牧に任命され、長安を離れて軍を手放すよう再びの命令を受けますが、彼は3000の軍勢を率いたまま河東郡(山西省運城市)に駐屯し、黄河を挟んで南にある洛陽を脅かします。4月に皇帝(霊帝)が崩御すると、外戚の何進は妹が産んだ劉弁を帝位につけますが、彼は宦官を排除しようとしたため暗殺されます。これに対し、何進派の武将たちは宮中へ駆け込んで宦官を皆殺しにしますが、劉弁と弟の劉協は宦官たちに洛陽の外へ連れ出されました。董卓はこの時兵を動かして宦官を討ち、劉弁と劉協を手中に収め、軍を率いて洛陽に入り、朝廷の実権を握ったのです。

 彼は敵対者を粛清して兵を吸収し(この時に何進派で前幷州刺史の丁原を殺し、その下にいた呂布や張遼を部下としました)、劉弁を廃位し劉協(献帝)を擁立、独裁者として専権を振るいます。とはいえ彼の政策は比較的理にかなったもので、弾圧されていた名士を登用して高位高官につけ、自分に背いて逃げ去った旧何進派の盟主・袁紹も懐柔しようとしています。袁紹らはこれに従わず、190年正月に各地の地方総督と手を組んで東方で挙兵しました。このため、董卓は都を自分の地盤である長安へ遷します。

『後漢書』匈奴伝などによると、南匈奴の羌渠単于は黄巾の乱に際して漢を支援し、右賢王於扶羅の率いる援軍を派遣しています。また187年の張純の乱に際しても、左賢王の率いる援軍を派遣しました。しかし匈奴の民は度重なる出兵の負担を不満に思い、188年3月に右部が反乱を起こして羌渠単于を殺害すると、須卜骨都侯を擁立して単于とします。於扶羅は追放され、洛陽の漢の朝廷に駆け込んで訴えますが、宮中が混乱していて聞き届けられなかったといいます。翌年には霊帝崩御や内紛、董卓の上洛など混乱が相次ぎ、於夫羅は危険を避けて河内郡へ脱出します。須卜単于はこの頃に死に、単于位が空位となりましたが、於夫羅は国に還れず、部族中の長老が国事を執り行います。於夫羅は白波賊なる盗賊団と手を組み、各地を掠奪して兵や兵糧を集めようとしますが、自警団に撃退されました。190年正月には丁原の部下だった張楊とともに袁紹に味方し、反董卓連合軍に名を連ねています。

 反董卓連合軍は、数こそ多かったものの足並みが揃わず、手練れの董卓軍に撃ち破られて長安進撃も敵わぬまま、勝手に内ゲバを始めます。盟主の袁紹は劉虞を皇帝に擁立しようと画策しますが、公孫瓚は劉虞と仲が悪かったので反発しますし、袁紹の異母弟(従弟とも)の袁術は公孫瓚や孫堅を味方につけて勢力を広げます。191年、袁紹は冀州牧の韓馥から官位を譲られ、勝手に冀州牧となりました。

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 この時、於夫羅は張楊を人質にして袁紹から離反し、張楊は黎陽(河南省鶴壁市浚県)を経て河内郡野王県(河南省焦作市沁陽)に駐屯しています。張楊が袁紹から離反するため於夫羅と協力したのでしょう。のち於夫羅は現地の黒山賊と手を組み、袁紹や曹操と戦っています。

 192年正月、公孫瓚と袁紹は界橋で激突します。公孫瓚軍は中央に歩兵3万が方陣を敷き、左右を精鋭騎兵1万が固める「白馬陣」でしたが、袁紹軍の将軍・麴義は西方の出身で、羌族との戦いで騎兵戦術を熟知していました。彼は先陣に楯を構えた兵士800と強弩隊1000を配備し、白馬陣を撃ち破ったのです。それでも公孫瓚の騎兵は強力で、一時は袁紹の本陣を脅かしたといいます。その後も公孫瓚は盛んに袁紹を攻撃し、袁術は南方で勢力を広げ、諸侯と同盟を結んで袁紹を挟み撃ちにしようとします。

 同年4月末、董卓は呂布の裏切りにより長安で殺されました。同じ幷州出身の王允が協力者でしたが、董卓の部下たちは王允を殺し、6月には呂布は僅かな手勢とともに長安を脱出しました。まず陝西盆地を南方の武関(商洛市)から出て、南陽に駐屯していた袁術を頼りますが、あまりいい顔をされず出奔し、袁紹のもとへ行きます。袁紹は彼を黒山賊の討伐に用いますが、「俺が董卓を殺したおかげだ」と戦功を鼻にかけ、袁紹からも嫌われて暗殺されそうになります。呂布は河内郡の張楊のもとへ逃げ、同郷のよしみもあって殺されはしませんでしたが、ここも離れて東方の兗州へ向かいます。

 193年10月、劉虞は公孫瓚に殺され、劉虞派の鮮于輔らは袁紹と手を組んで公孫瓚に立ち向かいます。この頃、烏桓では丘力居が逝去し、子の楼班は若かったため、武略のある従子の蹋頓が代わって立ちます。彼は難楼・蘇僕延・烏延ら三王の軍勢をも統括し、人々は彼に従いました。また閻柔という者が鮮卑の力を借りて勝手に護烏桓校尉となり、上谷郡寧城に割拠していましたが、鮮于輔は彼らと手を組んで数万の軍勢を集め、公孫瓚を北から脅かすようになります。袁紹は喜んで彼らを支援し、三郡烏桓の大人各々に単于の印綬を勝手に授けました。

 また袁紹は盟友で兗州牧の曹操に南方戦線を任せていましたが、194年に曹操が徐州の陶謙を討つため東へ進軍した隙を突いて、呂布が兗州を乗っ取ります。曹操は急いで帰還し、死物狂いで戦って呂布を撃退しますが、195年に呂布は徐州を陶謙から譲られた劉備のもとへ身を寄せます。劉備は幽州涿郡出身で公孫瓚の義弟にあたり、当然に反袁紹・反曹操派でしたが、陶謙は袁術とも仲が悪く、劉備も袁術とは対立することになります。

 この頃、長安では董卓の部下だった李傕郭汜らが天子を傀儡として政権を牛耳っていました。混乱を突いて馬騰・韓遂や益州の劉焉が侵攻して来たのを撃退すると、東方の袁紹を牽制するため袁術・公孫瓚らと手を組み、爵位を授けています。董卓の直接の仇である呂布にも追討令を出しますが、遠方ゆえ大した権威はなく、劉備は特に気にしなかったようです。

 やがて李傕と郭汜は互いに争い、天子は彼らのもとを離れて密かに東方へ脱走します。195年12月、天子らは河東郡安邑県で張楊に庇護され、翌年7月に焼け野原となった洛陽へ帰還します。張楊は大司馬に任命されますが、天子の側近らに嫌われて野王へ戻ったため、曹操が洛陽へ駆けつけて天子を庇護しました。彼は南東の潁川郡許県許昌市)に天子を遷して都とし、袁紹からも自立して、天子の威光を背景に漢朝を建て直していくのです。

 この頃、於夫羅は母国に戻れぬまま死去し、弟の呼廚泉が単于となりました。彼もまた母国を離れた身であり、兄が袁紹と敵対していたため、天子を推戴した曹操のもとへ身を寄せたようです。右賢王の去卑は天子の脱走を手助けしています。また於夫羅の子の劉豹は左賢王となり、蔡琰(蔡文姫)という漢人の女性を娶っています。劉姓を名乗っているのは、匈奴の単于が代々漢の娘婿として扱われたためです。彼らは漢と匈奴という2つの帝国の皇統を引く貴種として、皇族並みの敬意を払われていました。

袁曹対立

 袁紹は当然曹操に抗議しますが、公孫瓚との戦争は長引いており、まずはこちらを片付けてから曹操を討つことにします。曹操は彼に大将軍の位を贈り、自分は司空となって朝政を司りました。袁術はこの頃寿春(安徽省淮南市寿県)に遷って南方へ勢力を広げ、孫堅の子の孫策を派遣して呉越の地を制圧させており、西隣の荊州牧劉表は袁紹と手を組んでこれと対峙します。また南陽郡に移動していた董卓軍の残党の張繡も袁紹・劉表と手を組み、曹操を脅かします。徐州では劉備が袁術と対峙していましたが、呂布に徐州を奪われてしまい、やむなく曹操のもとへ身を寄せる羽目になっています。曹操は劉備を豫州牧に任命し、これを支援して東方に駐屯させました。

 197年、袁術は漢の天子を否定するため自ら天子と名乗り、寿春を都として国号を「」とします。袁氏は春秋時代の陳の公族で、遡れば虞舜の子孫であり、火徳の漢に代わる土徳である云々と理屈をつけていますが、天下は当然従わず、曹操軍に撃ち破られてしまいます。198年には徐州の呂布と同盟しますが、曹操は徐州へ侵攻して呂布を攻め滅ぼし、翌年には袁術も病死します。一方、袁紹は199年にようやく公孫瓚を攻め滅ぼし、中原は袁紹と曹操によってほぼ二分されることになります。

 袁紹は冀州を本拠地とし、長男の袁譚を青州(山東省)、次男の袁煕を幽州(北京付近)、部下の高幹を幷州(山西省)の統治者に任命して、北方から曹操を脅かします。遼東(遼寧省)太守の公孫康や烏桓・鮮卑の大人、南匈奴の単于呼廚泉らも袁紹に味方し、南方では劉表・張繡・孫策らが虎視眈々と許都を狙っていました。曹操は197年に裴茂らを西方へ派遣し、董卓の残党を討伐して長安を奪還し、馬騰や韓遂から人質をとって服属させてはいますが、天下の形勢は袁紹側がやや有利と見えました。

 199年、劉備は徐州で自立して曹操から離反し、袁紹と手を結びます。曹操は急ぎ徐州を攻め、劉備は恐れをなして逃亡し、青州を経て袁紹に身を寄せました。袁紹はなおも動かず、翌年ついに大軍勢を率いて南下します。延津・白馬津を落として黄河を渡ると、河川が交錯する要害の地・官渡を挟んで両軍は対峙します。袁紹は劉備を汝南へ派遣し、曹操を背後からも脅かしつつ、じりじりと圧迫を強めました。

 曹操は塹壕や発石車(投石機)によって進撃を防ぎつつ、敵の兵站をゲリラ戦で切断します。大軍であるゆえ消費される兵糧も多い袁紹軍は次第に疲弊し、多くの将兵が曹操へ寝返った末、這々の体で冀州へ逃げ戻りました。各地での攻撃も迎撃されてしまい、袁紹は内紛を押さえきれぬまま、202年に病死しました。曹操は各地に分立した袁紹の子らや家臣を各個撃破して吸収し、ついに中原の覇者となったのです。呼廚泉も曹操へ降伏し、単于の位を安堵されて母国へ帰還しました。

 しかし、袁紹の子のうち袁煕と袁尚は北東へ逃れ、烏桓を支配する蹋頓のもとへ身を寄せます。曹操はこれを討つべく大遠征を行い、烏桓の騎兵戦力をも手中に収めることになります。

◆時◆

◆河◆

【続く】

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