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【つの版】度量衡比較・貨幣29

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1337年に始まった英仏の戦争は長引きましたが、1375年に一応の休戦が結ばれました。この間、神聖ローマ帝国ではカール4世が在位しています。

◆Bohemian◆

◆Rhapsody◆

金印勅書

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 ルクセンブルク家のボヘミア王・神聖ローマ皇帝カール4世は、プラハを帝国の首都とし、シレジアとモラヴィア、ラウジッツ、グラーツなどをボヘミア王冠領に加えていました。また西のルクセンブルクとブラバントには弟のヴェンツェルを封じています。帝国内にはヴィッテルスバッハ家やハプスブルク家も割拠していましたが、カールは彼らと妥協し、イタリアにもあまり介入しない政策をとったため、帝国は比較的安定します。

 彼が1356年にニュルンベルクの帝国議会で発布した「金印勅書」では、以後450年に渡る神聖ローマ帝国の基本的な体制が規定されました。まず皇帝を選挙する選帝侯はマインツ、トリーア、ケルンの大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の七人とされ、領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税の徴収権、貨幣鋳造権、(財源としての)ユダヤ人の保護権などを持ちます。

 1346年にはトリーアとケルンの、1354年にはマインツの大司教が「金貨を鋳造する権利」を認められており、ライングルデン(Rheinischer Gulden、ラインの金貨)という金貨の発行が始まります。これはラテン語で「フロレヌス・レイニ(florenus Rheni、ラインのフィオリーノ)」といい、フィレンツェのフィオリーノ金貨を模倣したもので、重さ3.8g、純金含有量は3.43gです。金不足により次第に品質を落としましたが、銀貨グロシュとともに長く帝国の基軸通貨となりました。
 14世紀当時のフィオリーノ・ジェノヴィーノ・ドゥカート・リーヴル/エキュ/フランの価値は概ね同じで、物価や労賃から概算して現代日本の12万円相当です。額面上グロシュは1/20グルデン(6000円)、ヘラーは1/2グロシュ(3000円)、プフェニヒは1/12グロシュ(500円)=1/240グルデンですが、地域と時代によって変動し、しばしば悪鋳されて縮んでいます。1367年にはポーランドでクラクフ・グロシュが発行されました。

 彼らは帝国諸侯の最上位にあり、その領地は分割されず、長子が単独で相続します。選挙はフランクフルトにおいて単純過半数で決定され、選挙結果に従わない選帝侯は位を剥奪され、教皇の承認を必要とせず、アーヘンで戴冠式を上げることで皇帝として認められます。教皇はアヴィニョンにいてフランス王のいいなりですから、帝国の自立性を保つためにも必要で、教皇からも許可を得ています。諸侯や貴族同士が同盟したり私闘(フェーデ)を行うことも禁止され、彼らの領邦(ラント)は法的に主権を持ちます。

 七人の選帝侯のうち世俗諸侯は四人ですが、ルクセンブルク家はボヘミア王位しか持たず、ヴィッテルスバッハ家はライン宮中伯位とブランデンブルク辺境伯位を持ち、ザクセン公位はアスカニア家が持っています。しかし、ハプスブルク家は選帝侯に含まれていません。

大公僭称

 オーストリア公アルブレヒト2世(皇帝ルドルフ1世の孫)は疲弊した領国を建て直し、南のケルンテン公国を併合したものの、歴史的経緯から選帝侯とはなれませんでした。これを不満としたアルブレヒトの子ルドルフ4世は自らの領邦の自立性を高めるために強権を振るいました。

 1359年、父の跡を継いだばかりのルドルフは「我はオーストリア公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、クライン公、並びに帝国狩猟長官、シュヴァーベン公、アルザス公、プファルツ大公である」と宣言します。実際には「帝国狩猟長官、シュヴァーベン公、アルザス公、プファルツ大公」の位は持っておらず、しかも「大公(Erz-herzog)」などという称号はいまだかつて存在せず、ルドルフが僭称したものです。

 彼は「司教(Bischof)の上に司教(Erzbischof)があるように、多くの公(Herzog)を兼ねるハプスブルク家の当主は公を名乗るべきである」「ハプスブルク家は選帝侯を上回る特権、自領内で爵位を授け封土を与える権利を有している」と主張しました。皇帝は困惑したものの、ハプスブルク家は有力すぎるため手が出せず、さしたる処罰もできません。やむなく「領邦の中で勝手に僭称しているならよい」と黙認しました。神聖ローマ皇帝の帝位だって東ローマ皇帝からすれば僭称ですし、言ったもん勝ちです。

 ルドルフは領邦内の地主に命じて領主権の放棄と土地の売却を命じ、貨幣改鋳権(貨幣を悪鋳して利ざやをせしめる権利)を放棄する代わりに酒に対する消費税を導入し、ウィーン市内の同業組合(ツンフト、ギルド)を禁止して新参の商工業者を呼び込み、教会裁判権を規制して聖職者にも税金を課すなど、斬新で民衆受けする政策を矢継ぎ早に打ち出します。また1363年にはチロル公国を併合し、ウィーンには大聖堂や大学が建設され、プラハに並ぶ帝国有数の都市となります。しかしルドルフは1365年に急逝し、改革の多くは骨抜きにされました。ハプスブルク家領はルドルフの弟のアルブレヒト3世とレオポルト3世に共同相続されます(1379年に南北に分割)。

東欧外交

 カール4世はハプスブルク家に対抗するため、東方の大国ハンガリーやポーランドと手を結びます。ハンガリーでは1308年にカペー家の支流ナポリ=アンジュー家のカーロイが王位につき、1342年からはその子ラヨシュが王位にありました。カールはこの時に7歳の長女マルガレーテをラヨシュへ嫁がせますが、彼女は14歳で早世してしまいます。

 北のポーランドはカジミェシュ3世によって再統一されていましたが、彼の孫娘エリーザベトは1363年にカール4世と結婚しました。ただ1370年にカジミェシュが逝去すると、王位は母方の甥にあたるラヨシュに相続され、ハンガリーとポーランドは一人の君主を戴く東方の大国となります。アンジュー家はフランス王家の分家筋ですから、フランスの友好国となった場合、神聖ローマ帝国を東西から脅かしかねません。

 1371年、カール4世は選帝侯であるヴィッテルスバッハ家のブランデンブルク辺境伯領へ侵攻し、1373年にこれを50万グルデン(600億円)の補償金を支払って購入、息子ヴェンツェルに与えます。これで四人の世俗選帝侯のうちふたつがルクセンブルク家になり、帝位世襲への道筋がつきます。1375年にはバルト海・北海の交易路を支配するハンザ同盟に貿易独占権を認め、翌年にはシュヴァーベン都市同盟も承認して、見返りに多額のカネを受け取りました。金印勅書には背きますが、それはそれ、これはこれです。その甲斐あって1376年にはヴェンツェルをローマ王につけることができました。

対立教皇

 また晩年の1377年には、教皇グレゴリウス11世をアヴィニョンからローマへ帰還させています。先述のように、英仏戦争の余波でアヴィニョン周辺は傭兵団が跳梁跋扈し治安が悪化しており、1367年には先代のウルバヌス5世が一度ローマに戻っていますが、荒廃していたため1370年に帰っていました。カール個人は親フランスでしたが、国際関係から鑑みれば、教皇をローマに帰還させれば皇帝の権威は高まり、帝国は安泰となります。当然フランスは反発し、1378年に次の教皇ウルバヌス6世がローマで即位すると、フランス派の枢機卿らは対立教皇としてクレメンス7世を選出します。

 彼はローマ近郊の街フォンディで擁立され、ローマを占領して正式な教皇となるべく兵と支持者を集めます。フランス、ナポリ、サヴォイア、シチリア、スコットランド、ハプスブルク家、のちにイベリア諸国もクレメンスに味方しますが、皇帝カール4世とドイツ諸侯の大部分、イングランド、イタリア中北部、デンマーク、ハンガリー、ポーランドはウルバヌスに味方しました。カール4世はこの問題を残したまま、1378年11月末に崩御します。

地中海戦

 この頃の東方では、モンゴル帝国が崩壊していました。フレグ・ウルスもジョチ・ウルスも、チャガタイ・ウルスも分裂して相争い、大元ウルスは江南の反乱でチャイナを喪失し、1368年にはモンゴル高原に撤退しています。これによりユーラシアの東西を繋いでいた交易路が寸断され、東方の銀や絹を始めとする富が西方に届きにくくなりました。このあおりを食らったのが遥か西の都市国家ジェノヴァヴェネツィアです。

 この頃ジェノヴァは地中海と黒海の覇権を巡ってヴェネツィアと争っており、アラゴンや東ローマを打ち破り、ミラノやパドヴァ、オーストリア、ハンガリーと手を組んでヴェネツィアを包囲します。またフランスとも協力関係にあり、英仏戦争の時はフランス側へ艦隊や傭兵を送っていました。ヴェネツィアを圧倒したジェノヴァは黒海貿易を独占し、クリミア半島に築いた交易都市カッファ(現フェオドシヤ)などを拠点として東方と取引していましたが、モンゴル帝国の崩壊により危機に陥ります。

 そこでヴェネツィアからレヴァント(東地中海沿岸)の交易路も奪い取らんとし、1373年にキプロスへ侵攻します。ヴェネツィアは東ローマ皇帝ヨハネス5世を支援し、見返りにダーダネルス海峡の南の島テネドスを譲られ、黒海貿易をジェノヴァの手から取り戻そうとします。ジェノヴァはヨハネスの子アンドロニコスを焚き付けてクーデターを起こさせ、ヨハネスを廃位してテネドス譲渡を無効とさせますが、ヴェネツィアは突っぱねます。

 ジェノヴァはパドヴァ、オーストリア、ハンガリーと結んでヴェネツィアを圧迫し、南からはジェノヴァ艦隊をアドリア海へ入らせ、1379年にはヴェネツィア・ラグーンの南の街キオッジャを占領します。ヴェネツィアは国家存亡の危機に際して総動員令を発動、戦時国債を発行して徹底抗戦し、どうにかジェノヴァ軍を撃退しました。両国は疲弊して1381年に和平を結び、ヴェネツィアは挙国一致で戦後復興に取り組みます。しかしジェノヴァは貴族同士の内紛などで挙国一致ができず、戦後復興に失敗して衰退します。

 この時、ヴェネツィア市民で300リラ(1リラ=10ドゥカート/Dとして3000D、3.6億円)以上の資産を持つ富裕層には、戦費調達のため国債を購入する義務が課され、資産調査が行われています。彼らは市民15万人のうち2128人で、うち貴族(国会議員)が1201人、その他の富裕市民が917人いました。最大の資産を持つのは国家元首(ドージェ)で5万リラ(600億円)、3.5万リラ(420億円)以上は貴族4人と市民1人。それ以下は下の表のようになっています。1267年の元首の遺産が4.5万リラ(540億円)で、うち連帯保証投資(コレガンツァ)が2.3万、不動産が1万、国債が6500、貴金属が3800余、現金が3400弱、債権が2200余ですから、資産内訳も推測できます。
2万リラ(240億円)以上:貴族20、市民5
1万リラ(120億円)以上:貴族66、市民20
5000リラ(60億円)以上:貴族158、市民48
3000リラ(36億円)以上:貴族145、市民88
1000リラ(12億円)以上:貴族386、市民214
300リラ(3.6億円)以上:貴族431、市民541

◆V◆

◆R◆

 さて、1377年に英国王エドワード3世が、1380年にフランス王シャルル5世が崩御すると、英国ではリチャード3世、フランスではシャルル6世が即位します。どちらも幼君であったため摂政が立ち、これに反対する派閥との争いが始まり、対外戦争どころではなくなります。

【続く】

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