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【つの版】度量衡比較・貨幣13

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 倭国・日本は遣隋使・遣唐使を派遣してチャイナの制度を受け入れ、文明国の仲間入りを果たしました。唐の開元通宝を真似て独自の銭を鋳造してもいます。それまでにも古来交易はあり、様々な物品が貨幣として用いられていたはずです。古代倭国の貨幣について見てみましょう。

◆鉄◆

◆雄◆


鉄鋌用銭

 倭地・倭国では、古くは物々交換が自然に行われていたはずです。しかし弥生時代・古墳時代の遺跡からは、チャイナの金属貨幣である半両銭や五銖銭、王莽貨泉などがしばしば発掘されています。これらは副葬品や装飾品、祭祀や呪術に用いられた他、壱岐など海外との交易地においては実際に貨幣として使用されたとも推測されます。舶来品の青銅製品は珍重され、溶融して銅矛・銅剣・銅鐸などに加工することもありましたし、倭地で産出する翡翠の勾玉や辰砂(硫化水銀)、真珠などは国際的に高値で売れたでしょう。

『魏略』や『三国志』によれば、高句麗や沃沮(夫租、北朝鮮東部)では銭が使われていました。漢魏晋の郡県と接する諸国では取引に銭が使われたでしょうし、かつて郡県が置かれたことから在外チャイニーズ(秦人)も多くいたことが史書に記されています。また魏志東夷伝弁辰条にこうあります。

國出。韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢。又以供給二郡。

 その国は(鐵)を産出する。韓や濊(朝鮮半島北部からマンチュリア南部)、倭はみなここから(従)これを取る。諸々の売買でみな鉄を用いることは、中国で銭を用いるようである。またこの鉄を二郡(帯方郡・楽浪郡)にも供給している。

 国際取引において鉄が用いられていたというのです。これは弥生時代から古墳時代にかけて各地で出土する「板状鉄斧」、あるいは『日本書紀』などに記される「鉄鋌(てつてい、ねりがね)」と呼ばれるものと思われます。

 倭地では鉄の生産はほとんど行われておらず、鉄の供給は弁辰、すなわち韓国南端の洛東江流域諸国からの輸入に頼っていました。この川では砂鉄(ソプ、サピ)が採れることから、古来人々が集まって市場をなし、真番という部族集団が存在しました。燕や秦、朝鮮王国は真番との鉄交易を行い、漢は朝鮮を征服するとここに真番郡を設置して、燕人や斉人を強制移住させたのです。真番郡は武帝の崩御後に放棄されましたが、居残った在外チャイニーズは現地住民と結託して半独立国群(弁辰)を形成し、チャイナの郡県や周辺諸族と交易を行って富み栄えることになったわけです。

 倭地は当然彼らから影響を受け、人々が往来して先進文物と列島の産品を交易しました。特に鉄は農具や工具・武具の材料として有用であったことから喜ばれ、国際交易の決済のための共通貨幣となったのです。そのサイズや重量は弁辰諸国の最大の顧客である漢(魏晋)の度量衡に合わせており、長さは1尺(約23cm)、重さは1斤(約250g)を基準としていました。

原三国時代前期終末における辰韓・弁韓の鉄器と度量衡https://core.ac.uk/download/pdf/199684181.pdf

 これらが労賃や穀物と比較してどの程度の価値に当たるかは判然としませんが、庶民がおいそれと買える代物ではなく、豪族たちが買い取って貸し与えていたのでしょう。弥生時代の鉄鋌出土は九州北部や熊本県に集中していますが、交易路を通って各地へも運ばれたとは思われます。古墳時代には畿内から集中的に多数の鉄鋌が出土しており(1147枚中1057枚)、百済など友好国から倭国への贈り物としても用いられました。古墳時代後期には鉄の国産化が始まり、蘇我氏が外国の使者に鉄鋌を贈ったりしています。

無文銀銭

 660年に百済が滅び、663年に倭国の百済への援軍が唐・新羅連合軍に敗れると、倭国は国際的に孤立します。この頃、最初の貨幣かと思われるものが出現しました。それはを加工して円形にしたもので、径3cm・厚さ2mm、重さ8-10gほどあり、中央の穴は丸く小さいものです。現在までに大和・近江の都を中心として近畿地方各地で出土しました。大阪市天王寺区では江戸時代に100枚前後出土しましたが、残っているのは2枚だけです。

 一般に文字が刻まれていないことから「無文銀銭」といいますが、高志・大・伴・○・×・田・T(丁)などの文字や図形が刻まれたものもあります。表面に銀片を貼り付けてあるものが多くあり、これは重さを揃えるためと考えられています。『日本書紀』天武天皇12年(683年)に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあり、顕宗天皇2年10月条に「稲斛銀銭一文」とあることから、これが倭国/日本列島での記録上最初に用いられた貨幣であるという説があります。

 顕宗天皇は仁徳天皇の曾孫、武烈天皇の叔父にあたり、5世紀末頃の在位とされますが、この部分は「宴群臣。是時天下安平。民無徭役。歳比登稔。百姓殷富。稲斛銀銭一文。牛馬被野」とあり、『後漢書』永平2年条に「是歳天下安平。人無徭役。歳比登稔。百姓殷富。粟斛三十。牛羊被野」とあるのをちょっと改変してコピペしたもののようで、信頼なりません。倭国/日本に羊はいませんから馬に変えたのでしょう。

 戦前は日本書紀の権威により「最初の貨幣」とみなされましたが、戦後は反動もあって「呪術や装飾に用いただけではないか」ともみなされました。チャイナでも朝鮮半島諸国でも、銭は銅銭がほとんどです。ただ目方がほぼ10g(6銖=1/4両)と揃っており、切断されたものもあることから、これは秤量貨幣の一種であろうと考えられています。貴族や豪族、渡来人が高額の取引に用いたのかも知れません。この頃対馬では銀が採掘されています。

 銭は様々なものと交換でき、集めることで敬意を払われ、支払えば刑罰など災厄を免れることができるため、古くから魔除けや幸運のお守り(厭勝)として用いられました。これらには吉祥除災を表す文字や絵図が鋳込まれ、貨幣として流通するものではありませんが、五銖銭など通常の銭も副葬品にされており、厳密に区別はできません。地獄の沙汰も銭次第です。

富本銅銭

 円形方孔の銅銭として、倭国/日本で初めて鋳造されたものが「富本銭」です。日本書紀天武天皇12年(683年)条には、上記の通り「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とありますから、この頃に鋳造されたものです。銀銭は天武が打倒した近江朝廷で流通していたものとも推測され、それに代わる新しい貨幣を流通させようとしたのでしょう。

 形状は径2.45cm、厚さ1.5mm、重さ4.25-4.59gほどで、方形の孔は1辺6mmです(やや長方形)。唐の開元通宝よりやや重く、微量の銀も含まれていました。表面には縦に「富夲(本)」と刻まれ、左右には七曜星の文様があります。文字は唐の『芸文類聚』が引く後漢の史書『東観漢記』に「民之在於食貨」とあるのに基づき、七曜星は陰陽五行を表します。

 日本書紀に銅銭の形状や文字はありませんが、平城京・藤原京・飛鳥京を中心として各地で出土しており、特に飛鳥京からは33枚もの富本銭が鋳型や鋳造途中のものとともに発掘されました。天武・持統両天皇は飛鳥に宮居しており、富本銭が天武天皇によって鋳造されたことは確実視されます。

 天武天皇はこの頃に律令制定や国史編纂を命じ、氏姓や官位の制度も再編するなど、唐を真似た中央集権国家の建設に勤しんでいます。しかし大地震による被害を気に病んでか病気になり、686年に崩御しました。皇后は数年間摂政として称制し、691年に女帝として即位します(持統天皇)。彼女は夫が行った事業を継続し、鋳銭司という銅銭を鋳造する官職を置きました。

 しかし、銀銭も富本銭も、畿内以外にはあまり流通しませんでした。庶民は穀物や布帛などを取引や納税に用いており、銅銭が用いられたとしても唐の貨幣の方が信用があったでしょう。政府が貨幣を発行して盛んに流通させようとするのは、通貨発行益があるからです。

 銅は農具にも武具にもいまさら使いませんから、仏像や仏具・装飾品を作るのでなければ銅銭が主な利用法です。鋳造に費用はかかるものの、これを人々に支払えば穀物や布帛、労働力が手に入るのです。この費用と額面価値の差異が通貨発行益で、発行者たる政府の収入になります。従って中央政府は貨幣発行権を独占し、貨幣品位を切り下げ、私鋳銭を徹底して取り締まるのです。古代ローマではアテナイなど自治都市には銅貨など低額貨幣の発行は認め、歴史と権威にすがりたがる現地住民の機嫌をとっています。

 しかるに、貨幣が貨幣として流通するには、その発行元に信用がなけねばなりません。銅銭が穀物や布帛や労働力と等価と言っても、銅銭自体を食べることも着ることもできません。社会がそれを通貨として受容するには、まず発行元が法律や刑罰で「これを代価として受け取らねば処罰する」と規定する必要があります。やがては商慣習となっていくにしても、最初はそうしなければ銭は回転しません。人民が国家に穀物や布帛を納税し、労働力や兵役を貢納するのも、法律で規定されているからそうするのです。

 8世紀初め頃、倭国は「日本」と国号を改め、君主は「天皇」と自称し、唐の律令を真似た「大宝律令」を制定します。銅銭の鋳造と流通も国家事業として進められ、708年には新たな銅銭「和同開珎」が鋳造されました。次回は日本政府(朝廷)の発行したこれらの銅銭について見ていきます。

◆回◆

◆転◆

【続く】

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