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【つの版】度量衡比較・貨幣57

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1428年、テノチカ王イツコアトルはテスココ、トラコパンの王と三国同盟を締結し、テスココ湖西岸の覇権国アスカポツァルコ(テパネカ)を滅ぼしました。イツコアトルは国号をメシカ(メキシコ)と改め、新たな建国神話を創造し、独立国家としての体裁を整えます。この三国同盟こそ後世に「アステカ帝国」と呼ばれるものでした。

◆柱◆

◆男

栄冠戦争

 独立国としての体裁を整えたのち、イツコアトルは1440年に崩御します。跡を継いだのはイツコアトルの子テソソモクではなく、彼の異母兄ウィツィリウトルの息子モクテスマ1世でした。彼は異母兄トラカエレルやテスココ王ネサワルコヨトルと協力し、外征を繰り返して大きく勢力を広げます。東はメキシコ湾岸、南はオアハカ北部に至り、三国同盟はメキシコ高原一帯を支配する「帝国」へと発展していくのです。

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 伝承によると、モクテスマが即位してから10年目に洪水や旱魃が起こり、多数の人々が飢饉と疫病によって死にました。これが数年間続いたため、神官たちにどうすればよいか訪ねると、「神の怒りを宥めるため戦争を行い、多くの戦士を捕虜として、定期的に生贄に捧げなければならない」と告げられました。メシカとテスココおよび周辺諸国はこれに賛成し、「花の戦争(ショチ・ヤオヨトル)」すなわち「名誉の戦争」を始めたというのです。

 出典が怪しいので本当かどうか定かでありませんが、モクテスマらは実際周辺諸国に戦争をふっかけ、領土を大いに広げ始めます。ただし一般的な戦争とは異なり、事前に決めた場所と時間で少人数・同数の戦士が繰り広げる決闘のようなものでした。投槍や投石のような遠距離武器は用いられず、黒曜石の刃のついた棍棒「マクアフティル」を振るって行われ、捕虜の一部は生贄とされず解放されました。この戦争での死者は「花の死(ショチ・ミキストリ)」すなわち名誉の死を迎えたとされ、生贄にされた者とともにメシカの主神ウィツィロポチトリの住まう天国へ送られると説かれました。

 死者が少ないため通常の戦争よりマシに思われますが、これは三国同盟による巧妙な戦略でした。戦いに参加するのは互いに少人数・同数とはいえ、小さな都市国家からすれば貴重な戦力で、討ち取られたり捕虜にされたりすれば大きな損失です。三国同盟は戦士の数を合わせれば比較的多いため、多少名誉の戦死を遂げても補充がききますし、戦闘訓練にもなります。大軍で敵国に攻め込めば必死の抵抗を受け、堅牢な都市を攻めねばなりませんが、この形式なら開けた場所で正々堂々と戦えます。負けた側は戦力を削られて軍事的に圧力をかけられ、三国同盟に服属して朝貢することになりますし、挑戦されて拒めば国際的に恥を晒すというわけです。

 神々に人間を生贄として捧げる行為は、メソアメリカでは極めて普通でした。遅くともテオティワカンでは生贄を殺すための黒曜石のナイフが見つかっていますし、9世紀には腹部に生贄の心臓を載せる鉢を備えた横臥する人物像(1875年に「チャクモール」とアメリカの考古学者が勝手に命名しました)がメソアメリカ各地で作られ始めています。太陽神トナティウは人間の心臓を捧げられることで動き続けると信じられ、雨の神トラロックは人間の生贄を受け取ることで雨を降らせると信じられていました。神々への生贄は各地の暦に応じて捧げられ、その肉は人々によって食べられたといいます。

 モクテスマはこうして領土を拡大し、各地の重要な交易センターを抑え、莫大な富を首都テノチティトランにもたらしました。また各地に軍事学校を作り、首都を洪水から守るために堤防を築き、水道を整備し、飢饉に苦しむ人々に食物を配給したといいます。彼はイルウィカミナ(天に矢を射る者)と呼ばれ、事実上「アステカ帝国」の基を築いたのです。

皇帝三代

 1469年、モクテスマは70歳を超える高齢で世を去ります。彼には跡継ぎとなる息子がおらず、娘アトトストリがイツコアトル王の子テソソモクに嫁いで産んだ三人の息子らが次々と王位を継ぎました。すなわちアシャヤカトル(在位:1469-1481年)、ティソク(在位:1481-86年)、アウィツォトル(在位:1486-1502年)です。

 1472年にテスココ王ネサワルコヨトルが逝去し、その子ネサワルピリが王位につくと、メシカ王アシャヤカトルは翌年に隣国トラテロルコを征服しました。これよりメシカ王は三国同盟の盟主として振る舞うようになり、テスココの政治的地位はメシカに従属的となります。ここにようやく「アステカ帝国の皇帝」とも呼ぶべき地位にメシカ王がつくわけですが、アウグストゥスが三頭政治を廃して筆頭議員になったようなものではなく、テスココやトラコパンは滅ぼされることなく独立の王国として存続しています。またアシャヤカトルは南のトルーカ渓谷を征服し、西のタラスカに目を向けます。

 アステカ三国同盟に匹敵する西の大国が、チチメカ系のタラスカ王国(ミチョアカン、ツィンツンツァン)でした。その首都はパツクァロ湖に面したツィンツンツァンで、パツクァロ、イワツィオと同盟を組んで勢力を広げたのち盟主になったというメシカと同じ経緯を持ちます。建国の時期もほぼ同じです。タラスカはアステカと同じく各地の都市国家を貢納(交易)で結びつけ、覇権国家(帝国)として君臨していました。

 アシャヤカトルはこれを征服すべく何度か攻め込みましたが、大敗を喫して撤退しています。この時は「花の戦争」ではなく、2万を超える大軍で攻め寄せたのですが、多数が殺されるか捕虜になり、アシャヤカトル自身も重傷を負うほどだったといいます。

 1481年にアシャヤカトルが世を去ると、同母弟のティソクが即位します。しかし軍事的成功をおさめられず、諸国にナメられて反乱を起こされたため在位5年で暗殺されます。人々はイツコアトルの弟である老宰相トラカエレルを王位につけようとしますが、彼はティソクの同母弟アウィツォトルを王位につけ、翌年に逝去したといいます。

 彼はアステカを再び軍事大国として立て直し、反乱を鎮圧したばかりか、南の海辺(現ゲレーロ州)や東の海辺(現ベラクルス州)にも遠征します。また遥か南東のソコヌスコ(現チアパス州南部の太平洋岸)にまで遠征し、カカオなど経済的に重要な交易品の原産地を抑えることに成功しました。さらに西のタラスカに対しては砦を築いて防衛させ、首都テノチティトランの神殿を拡大して多数の捕虜を生贄に捧げました。首都の人口が増えたことで水の需要が高まると、アウィツォトルは水道を引いて水を確保しようとしますが、工事は失敗して洪水が起こり、アウィツォトルもこれに巻き込まれて死んだといいます。ちょうど1502年、コロンブスがカカオを積んだカヌーと出会い、ホンジュラスに上陸した年でした。

帝国経済

 テスココ湖などの沼沢地では、人工の浮島の上に畑を作るチナンパという農法が行われていました。これは高い生産性を誇り、都市圏に食糧を供給するため盛んにチナンパが作られました。中心作物はトウモロコシで、ほかにアマランサス、カボチャ、サツマイモ、トマト、インゲンマメ、トウガラシなど多種多様な作物が栽培されていますが、麦や米のたぐいはまだありません。飲料としてはリュウゼツランから醸造されるプルケ、カカオから作られるショコラトルなどが有名です。

 特にカカオは遠隔地の熱帯地域(ソコヌスコやマヤなど)の産物であったため貴重品とみなされ、市場で貨幣として流通しました。ようやく本題である貨幣の話に入れますね。1つのカカオの実(カカオ・ポッド)には30-40粒の種(カカオ豆)が入っており、豆は乾燥させると1個1gほどになります。スペイン人らの記録によれば、庶民の1日の労賃はカカオ豆20粒にあたるといいますから、これが現代日本の1万円とすれば1粒500円です。中身を抜いたカカオ豆の殻に泥を詰めた「偽造通貨」もあったといいます。

 ほかに木綿布(南北アメリカにも古くから木綿が存在しました)や斧型の銅板が貨幣として流通していますが、庶民からすれば高価に過ぎ、王侯貴族が贈り物などに用いたものでしょう。金属製品は存在したものの、黄金や銀や鉄は流通しておらず、銅や翡翠、黒曜石などが珍重されていました。

カカオ豆換算
1粒(500円)     :小さなトマト20個(1個25円)、唐辛子5個(1個100円)
3粒(1500円)    :七面鳥の卵1個
5粒(2500円)    :燃料用の松の皮1枚
20粒(1万円)    :庶民の1日の労賃
30粒(1.5万円)   :小さなウサギ1羽
100粒(5万円)    :七面鳥(雌)、野ウサギ、小型カヌー1隻(80粒とも)
300粒(15万円)   :七面鳥(雄、200粒とも)、木綿布1枚、丸木舟1隻
500粒(25万円)   :奴隷(700粒とも)
6000粒(300万円)  :庶民の年間生活費、木綿布20枚
8000粒(400万円)  :斧型銅板、木綿布27枚弱
1.92万粒(960万円) :戦士の鎧と盾、木綿布64枚
3万粒(1500万円)  :毛皮のマント、木綿布100枚
18万粒(9000万円) :翡翠のビーズの数珠、木綿布600枚

 市場では農産物、嗜好品、陶器などの日用品、遠隔地の貴重品などが盛んに取引され、活気に満ち溢れていました。長距離交易は「ポチテカ」という専門の交易商人が担い、世襲制のギルドを組織して様々な職務についていましたが、牛や馬などの駄獣が存在しなかったため、荷物は人間が背負って運びました。彼らは属国からの貢納の運搬、奴隷売買や情報の交換も担い、ニンジャめいて異国で諜報活動を行いました。そして彼らが危害を被れば帝国による戦争の口実とされたのです。彼らポチテカは固有の神々を祀り、独自の裁判権を持つなど強力な存在でしたが、財産を誇示し過ぎると王侯貴族に睨まれて処刑され、財産を没収されたといいます。

 1502年、アウィツォトルの跡を継いで王位(帝位)についたのが、アシャヤカトルの息子モクテスマ2世ショコヨツィン(若き王子)でした。即位時に35歳であった彼は、前王の任命した官僚たちを自派閥の者に挿げ替え、同盟国テスココの領地に手を伸ばすなど中央集権を進めました。その権威と権力は国内にあって並ぶ者がなく、諸王の王たる皇帝と呼ぶにふさわしい存在でした。しかし彼の治世に遥か東方からスペイン人が到来し、強大なアステカ帝国は急速に滅亡へと向かうことになるのです。

◆Chocolate◆

◆新世界◆

【続く】

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