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【つの版】ウマと人類史:近世編37・準部滅亡

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 イラン高原から中央アジアに視線を移すと、1755年にジュンガルが清朝に征服され滅亡しています。中央ユーラシア最後の遊牧帝国とも呼ばれるジュンガルは、どのように滅んだのでしょうか。

◆準◆

◆部◆

準部繁栄

 ジュンガルについておさらいしておきましょう。1637年にジュンガル部の長ホトゴチンがオイラト部族連合の盟主となり、その子ガルダンが1676年にダライ・ラマによりオイラトのハンとなりました。彼はイリ地方のグルジャを首都とし、南はタリム盆地、西はタシケントやフェルガナ、東はモンゴル高原に進出して大いに版図を広げます。

 しかし清朝はモンゴル高原を追われたハルハ部を支援して反撃し、ガルダンの甥ツェワンラブタンが本国で反乱、ガルダンは1697年に病没します。モンゴル高原を手中に収めた清朝は、1720年には内乱に乗じてチベットを占領し、ダライ・ラマ政府は残したものの清朝の監視下に置きました。恐れをなしたジュンガル君主ホンタイジツェワンラブタンはロシアと同盟し、清朝に対抗します。彼は清朝と講和したためか1727年に毒殺されますが、その子ガルダンツェリンはロシアとの同盟を保ち、清朝と戦っています。

 ジュンガルはカザフ高原、シル川流域、フェルガナ、バダフシャーンへの侵略を続行する一方、東方ではハルハ・モンゴルを圧迫し、清朝への反乱者を匿います。清朝はロシアやジュンガルと交渉して国境の画定を進め、ロシアとは1728年にバイカル湖の南のキャフタを、ジュンガルとは1739年にアルタイ山脈を境とすることを取り決めています。ロシアでは1725年にピョートル大帝が崩御して以来混乱が続いており、清朝では1735年に雍正帝が崩御したものの、その子・乾隆帝は名君であったため、結局ジュンガルは清朝に朝貢するようになりました。

 この頃、隣国カザフ・ハン国は政治的統一を失い、南東のセミレチエ地方を治める大ジュズ(部族連合)、その北の中ジュズ、西の小ジュズに分裂していました。1723年から25年にかけて、ジュンガルはカザフへ大攻勢を行いますが、小ジュズのアブル=ハイル・ハンはカザフ諸部族を糾合して反攻しました。彼はカザフの盟主となり、1730年にはロシア皇帝に臣従してジュンガルやカルムィク、バシキールと戦い、1740年には南のホラズム(ヒヴァ・ハン国)から君主に招かれています。イランのナーディル・シャーに睨まれて立ち消えとなったものの、のち息子ヌラルをヒヴァのハンに擁立し、1748年に暗殺されるまでカザフ草原に強勢を誇っています。

 中央ユーラシアの交易路を抑えたジュンガルは、経済的には清朝とロシアとの交易で繁栄しており、オアシス都市での農業・工業も盛んでした。軍事的には騎兵8万から10万を擁し、その全てが銃器で武装していました。またスウェーデン人などの捕虜を士官として武器製造に取り組んでもいます。しかしガルダンツェリンが1745年に逝去すると、後継者争いにより国は乱れ、清朝の介入を招くことになります。

準部滅亡

 ガルダンツェリンには三人の息子がおり、彼が亡くなった時、長男ラマドルジは17歳、次男ツェワンドルジ・ナムジャルは13歳、三男ツェワンダシは7歳でした。しかしラマドルジの母は身分が低く、ガルダンツェリンはツェワンドルジを後継者に指名します。ラマドルジは一旦これに従いますが、1750年に反乱を起こしてツェワンドルジを捕縛し、盲目にして幽閉しました(のち殺害)。多くの臣下はこれに従いますが、背く者もいました。

 オイラト部族連合のひとつホイト部の長アムルサナーは、ツェワンラブタンの兄弟の孫にあたる王族ダワチと手を組み、ダワチの弟モンクシを君主に擁立して実権を握ろうとします。1751年、ラマドルジはこの反乱を鎮圧してモンクシを殺し、アムルサナーとダワチは西のカザフ・ハン国へ亡命しました。アムルサナーはカザフ・ハンの娘と結婚して同盟し、1752年にジュンガルへ戻るとラマドルジを殺害、ダワチを君主に擁立しました。

 しかしアムルサナーはダワチと対立し、1754年に清朝へ亡命します。乾隆帝は彼を歓迎し、ダワチを討伐してアムルサナーに統治を任せようと約束しました。1753年にはドルベト部も清朝についており、1755年にはアムルサナーを道案内として清朝の大軍がジュンガルへ侵攻、わずか100日でダワチを捕獲し、ジュンガルを滅ぼします。ダワチは北京へ送られ、清朝の皇女を娶ったのち、1759年にカルガン(張家口市)で逝去しました。

 乾隆帝は「もともとオイラトは四部族の連合であった」とし、ジュンガルの旧領をチョロース、ドルベト、ホシュート、ホイトの四つに分割し、アムルサナーはホイト部の長の地位を安堵されます。これに不満を抱いたアムルサナーは1757年になって反旗を翻し、自らホンタイジと称して鉄の菊印璽を使用、独立を宣言しました。怒った乾隆帝は掃討軍を派遣し、アムルサナーはまたもカザフ・ハン国へ逃げ込んだのち、ロシア帝国の支援を求めてシベリアのトボリスクまで亡命しますが、支援を断られたすえ病死します。

 乾隆帝はジュンガルの残党を平定した後、1762年にイリ将軍府を設置して旧ジュンガル領を軍政下に置きます。イリ将軍には旗人(清朝の貴族)が任命され、グルジャの西45kmのコルガス(現カザフスタン国境)に駐屯しました。またグルジャ、タルバガタイ、カシュガル、ウルムチなどの要地には軍政官が置かれ、現地の有力者(ベグ)が末端行政を委任されました。これら旧ジュンガル領は、ホイセ・ジェチェン(回疆/回民=ムスリム・ウイグルの地)あるいはイチェ・ジェチェン(新疆=新たな地)と呼ばれ、現在の新疆ウイグル自治区の原型となったのです。

 カザフ中ジュズのアブライ・ハンはジュンガルと清朝の戦争に対して中立を保ち、ジュンガル滅亡後は清朝の宗主権を認め、ロシアからもカザフの君主として承認されました(1771年に全カザフのハンとなります)。またフェルガナ盆地西部に興った小国コーカンドも清朝に朝貢し、新疆との通商権を認められて発展しました。南のイランがアフガニスタンと分裂して縮小したこともあり、中央ユーラシアの諸勢力は北と西はロシア、東は清朝に大きく分かれることとなったのです。

◆カザフ◆

◆スタン◆

 こうしてジュンガルは滅亡しましたが、中央ユーラシアの遊牧諸政権はまだまだ健在です。アフガニスタンのドゥッラーニー朝、イランのザンド朝とガージャール部族連合も遊牧政権ですし、ヒヴァ・ハン国はブハラとカザフの係争地となって荒廃し、ブハラ・ハン国は1756年に非チンギス裔のマンギト家に王位を簒奪されますが、混乱しつつも残存しています。ジョチ裔のカザフ・ハン国はアブライ・ハンを盟主として繁栄しています。

 しかしジョチ・ウルスの盟主であったクリミア・ハン国は、300年もの間オスマン帝国の属国であったうえ、ロシア帝国の圧力によっていまや滅亡寸前でした。この国が滅んだのは1783年、フランス革命の6年前です。近世編も長くなりましたし、次回からは「近代編」として続きます。

【続く】

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