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【つの版】日本刀備忘録03:蕨手之刀

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 倭国/日本の建国神話には刀剣が密接に関わっています。三種の神器の一つ草薙剣はその代表ですが、古事記や日本書紀が編纂された頃、実際にどのような刀剣が用いられていたのでしょうか。

◆剣◆

◆心◆


丙子椒林

 日本書紀に、推古天皇が蘇我氏を褒めて「馬ならば日向ひむかの駒、大刀ならばくれ真刀まさひ」と言ったとあります。呉とはチャイナ南部で、当時の文明先進地であり、古代から刀剣の鋳造で有名です。舶来品の刀剣を珍重してそう呼んだものでしょうが、馬と刀が並び称されて褒め言葉になるというのは、当時の時代背景もあります。

 古墳時代前期から中期の直刀は、およそ柄の長さ15cm以上で、これは握り拳2つぶんにあたり、両手で振るうものでした。しかし古墳時代後期(6世紀後葉)には柄の長さが縮小して10cm以下となり、刀身も75cm(十拳)以下に縮んで片手で振るえるようになっています。これは騎馬による戦闘がこの頃ようやく普及し、馬上で手綱をとりながら片手で刀剣を振るうようになったからと推測されます。倭地に馬が伝来したのは4世紀末ですが、騎兵の運用が一般化するまでには結構時間がかかったのでしょう。

 そして6世紀から7世紀にかけては、舶来品や渡来人の技術を用いて作られた華やかな金銅製の装飾付大刀(飾大刀)が隆盛を極めます。これらは王侯貴族の儀仗用や副葬品で、古墳に納められたものはほとんど錆び朽ちていますが、伝世刀の中には保存状態の良いものもいくつか存在します。

 大阪の四天王寺に伝世したのが、国宝の「丙子椒林へいししょうりん」です。剣とはいうものの片刃の直刀(大刀)で、反りはなく、むしろ僅かに内反りしています。刃長は2尺1寸7分(65.8cm)あり、刃と峰の間の膨らんだ部分(しのぎ)の筋は刃側に寄り、刃の勾配が急な形状です(切刃きりは造り)。刃先の丸みはなく、三角形に尖っています(かます切先)。腰元の平地には隷書体で「丙子椒林」の四字が金象嵌で刻まれており、それゆえにこの名があります。丙子は六十干支の一つで制作年をあらわし、椒林とは作刀者の名ともいいますが定かでありません。

 四天王寺は推古天皇元年(593年)に廐戸皇子/聖徳太子(574-622年)によって建立されたといい、この丙子椒林剣は太子の佩刀であったと伝えられます。また隋からもたらされたと考えられていますが、隋代かつ太子の生存中に丙子の年は西暦616年しかなく、遣隋使はその前年に戻ってきたのが最後です。隋滅亡の年(618年)には高句麗から隋の捕虜や駱駝等が倭国に献上されていますから、その時に伝来したのでしょうか。あるいは丙子を60年遡った556年とし、蘇我馬子の子・蝦夷の佩刀で、丁未の乱(587年)の時に物部守屋の首を刎ねたものともされます。

 同じく四天王寺に伝世する七星剣も、聖徳太子の佩刀とされます。これは長さ62.1cmの直刀で、魔除けのために北斗七星・雲・三星・竜・虎などが描かれています。また法隆寺には太子幼少時の守り刀と称する銅製の七星剣が伝世しています。

蕨手之刀

 620年代に聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇が相次いで世を去った後、蘇我蝦夷・入鹿父子が国政を牛耳りますが、645年に中大兄皇子(天智天皇)らに粛清されます。中大兄皇子は倭国の実権を握りますが、同盟国の百済・高句麗は唐・新羅によって滅ぼされ、多くの難民が倭国に亡命しました。倭国は国防のため彼らを東国などへ遷し、牧を管理させることになります。

 この頃、装飾付大刀は急激にバリエーションを失い、柄頭の形状は方頭に一本化されていきます。しかし東国では、7世紀後半に異なる形状の柄頭を持つ刀剣が出現しました。いわゆる「蕨手刀わらびてとう」です。

蕨手刀

 蕨手刀とは、柄頭が蕨の芽(早蕨)のように丸まった形状の刀です。柄は刀身と一体として作られ(共鉄作り)、刃先と反対側に曲がっており、片手で握って振り下ろすと通常の直刀よりも切断威力が高まります。原型と思われる「蕨手刀子」は刃長が1尺に満たないもので、5世紀から6世紀にかけての倭地や朝鮮半島南部で出土しています。

 7世紀後半、長野・群馬・福島に初期型の蕨手刀が出現します。この地域は馬の飼育が盛んで、多くのが置かれましたから、馬上で振るうために直刀に改良が施されたものと思われます。状況的に百済・高句麗からの難民がこうした技術をもたらした可能性もあるでしょう。この蕨手刀は馬ともども蝦夷に取り入れられて改良され、平安時代の反りを持つ太刀/日本刀の起源になったとも考えられています。

坂家宝剣

 飛鳥時代から奈良時代(710-793年)にかけても、日本の刀剣はまだ直刀でした。天平勝宝8歳(756年)に聖武天皇遺愛の品が納められた東大寺正倉院には、四天王寺の七星剣とほぼ同じ長さと形状の直刀がありました。これは刀身だけで、目録の『東大寺献物帳』に記載がありませんが、聖武天皇の佩刀と考えられています。明治5年(1872年)の正倉院宝物修理の際に明治天皇がこれを気に入り、彫金家・加納夏雄に外装を制作させて佩刀としましたが、この外装にちなんで「水龍剣」と名付けられています。

 六位以下の貴族や一般の将兵は「黒作大刀くろづくりのたち」という総黒漆塗の実用的な直刀を装備していました。これは正倉院にも納められている他、京都の鞍馬寺にも「黒漆剣」として伝世しています。口承では「征夷大将軍・坂上田村麻呂が凱旋記念に奉納した佩刀」としますが、『鞍馬蓋寺縁起』等にはそうした記録がありません。しかし刀身・外装は奈良時代から平安時代初期の同種の大刀と類似し、少なくとも同時代のものでしょう。

 坂上田村麻呂は桓武天皇に仕えて蝦夷征討を行った将軍で、同時代から武神・軍神として崇められました。死後にはその佩刀(坂家宝剣)が皇室に納められ、朝廷守護の護国剣、ひいては皇位継承の印とさえなったほどです。そして蝦夷と日本の戦争は、日本刀の原型を生み出すことになります。

◆剣◆

◆心◆

【続く】

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