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【つの版】度量衡比較・貨幣44

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 11世紀頃、奄美以南にはグスクと総称される石造の城が各地に築かれ、按司(アジ)と総称される豪族たちが各地に分立し始めます。実際の名称は地方により様々でしたが、これらの豪族たちが次第に統合され、沖縄本島を中心とする琉球王国へと発展していくことになります。

◆海◆

◆豚◆

具足按司

 グスクとは日本語の「具足(ぐそく=道具/武具が充足して備わっていること、甲冑一式)」に由来するらしく、ゴスコ、シュク、スク、シクとも呼ばれ、御城・城の字があてられます。これは沖縄本島/琉球王国での呼び名で、奄美ではモリ(森)、ハラ(原)、キズキ(築き)といい、先島諸島ではバル(原)というようです。集落祭祀を行う拝所(ウガン、ムイ、ヤマ)を中心とし、これが発展して石垣を周囲に積んだ堅牢な城塞となったようです。

 アジ/アンジとは日本語の「あるじ(主)」に由来し、按司はあて字です。先島ではアズといい、奄美では大親(うふぬし/うふや)、宮古では豊見親(とぅゆみゃ)といい、他に大主(うふす/うふぬし)、大屋子(おやけ)、世主(よのぬし/よぬし)といった呼び名もありました。彼らはグスクなどを拠点として集落(間切/マキョ、マジリ)を支配する豪族で、姉妹らは祝女(ノロ)となって集落の祭祀を司りました。しかし、なぜこの頃にこうした豪族勢力や城塞が現れ始めたのでしょうか。

貴海国境

 平安時代中期、大宰府と大隅国は南島・高麗・宋国との交易利権を巡って争っていましたが、11世紀に日向南部に開発された島津荘という荘園が摂関家の後ろ盾を得て拡大され、伴氏(肝付氏)のもと大隅・薩摩を覆うほどになります。12世紀には平氏政権に服属しました。1177年、平家打倒の陰謀に加わったとして藤原成経・平康頼・俊寛らが薩摩国鬼界ヶ島へ配流されました。これは奄美諸島の喜界島とも、薩南諸島の硫黄島ともいいますが、後者の説が有力視されています。なお源為朝が琉球に来て王統の祖となったという有名な伝説は、16世紀以前には確認できていません(後述)。

 1185年に平氏政権が滅ぶと島津荘は鎌倉幕府に接収され、御家人の惟宗氏が派遣されて島津氏と称しました。また源頼朝は天野遠景を九州惣追捕使に任命して大宰府を掌握させ(1194年まで)、貴海島/鬼界ヶ島等へ逃亡した平家の残党を討伐させています。幕府執権となった北条得宗氏は島津氏の勢力を狭め、承久の乱の後は南九州各地に得宗領(直轄地)を置き、得宗被官の千竈氏に差配させました。千竈氏は薩摩の港・坊津(ぼうのつ)を抑え、薩南諸島や奄美諸島にも交易を通じて勢力を及ぼしたといいます。

 1060年に成立した『新唐書』東夷伝日本条に「東海の島々の中にはまた邪古(屋久)、波邪(隼人)、多尼(種子島)の三小王がある。北は新羅、西北は百済、西南は越州に至り、糸や絹綿、怪しく珍しいものがあるという」とあります。日本人が伝えたのでしょうが、奄美や沖縄についてはまだ現れません。また1240年頃に成立した『平家物語』長門本にはこうあります。

"きかいは十二の島なれば、くち五島は日本に随へり、おく七島はいまだ我朝に従はずといえり、白石、あこしき、くろ島、いわうが島、あせ納、あ世波、やくの島とて、ゑらぶ、おきなは、きかいが島といへり、くち五島のうち、少将をば三のとまりの北いわう島に捨ておく、康頼をばあこしきの島、しゅんかんをば白石がしまにぞ捨置ける。"
"鬼界ヶ島(と総称される島々)は十二の島からなり、口(近く)の五島は日本に従っているが、奥(遠く)の七島はいまだ我が朝(日本)に従っていないという。白石(竹島か)、あこしき(悪石島?)、くろ島(黒島)、いわうが島(硫黄島)、あせ納、あ世波、やくの島(屋久島)といい、ゑらぶ(口永良部島)、おきなは、きかいが島(喜界島)という。口五島のうち、少将(成経)は三のとまりの北いわう島、康頼をあこしきの島、俊寛を白石島に配流した。"

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 十二の島といいながら十の島しかあげられておらず、口五島のうち他の二つは不明ですが、今の喜界島あたりまでは日本の版図とみなされてはいたようです。また「おきなは」が唐突に出てきますが、これが現在の沖縄本島を指すのかどうかもわかりません。語源的には「沖(おき)の漁場(なば)」であるらしく、那覇と同じ語源ともされますが、ここでは奄美諸島のどこかを指すのかも知れません。

 1217年に南宋へ渡航した天台宗の僧侶・慶政は、1243年に『漂到琉球国記』を著述して「琉球国」の様子を記していますが、これが沖縄諸島のどこかなのか、台湾島なのか判然としません。『宋史』『元史』には流求国・瑠求の条がありますが、描写からして隋書にもあった台湾島のことで、沖縄諸島ではありません。14世紀半ばの『日本扶桑国之図』には日本の南方に「龍及国」が描かれていますが、「体が人で頭は鳥の住民が住んでいる」などと記され、異域として扱われています。

 ともあれ按司やグスクの出現・発展は、こうした外界からの影響が関係していたとは考えられます。この頃の奄美・沖縄諸島には宋や高麗、日本の文物(陶磁器や銅銭など)が輸入されていますし、奄美からのヤコウガイの輸出も継続しています。港や漁場、ヤコウガイ産地を抑えた有力者が経済的に発展し、村々の豪族たちは系列化され、交易路・交易権を巡って争いが起きたことは想像できます。日本列島で弥生時代に起きたことが、ようやく奄美以南でも起き始めたのでしょう。また日本列島からは多少の農耕も持ち込まれましたが自給自足できるほどではなく、漁労と狩猟採集、そして海を越えての交易が、この地域の住民にとっての生業だったのです。

三王鼎立

 1333年に鎌倉幕府/北条得宗家が滅亡すると、千竈氏は没落して島津氏の支配下に入ります。それから30年余りが経って明朝が興ると、初めて「琉球国」からの朝貢使節が到来しました。すなわち『明史』外国伝・琉球条にこうあります。

 琉球は(明国の)東南の大海中にあり、いにしえより中国(チャイナ)に通じなかった。元の世祖(クビライ)は官吏を遣わして招き諭させたが、到達しなかった。洪武初年(1368年)、その国には三王があり、中山、山南、山北といった。みな尚を姓とし、中山が最も強かった。洪武5年(1372年)正月、行人(外交官)の楊載に命じてその国に派遣し、即位建元の詔を告げさせたところ、中山王の察度は弟の泰期らを遣わし、楊載に従って入朝し貢納した。洪武帝は喜び、大統暦および文綺(紋様入りの錦)・紗羅(うすぎぬ)をそれぞれの地位に応じて授けた。

 この三王国は台湾島ではなく、現在の沖縄本島に存在した政権です。明朝でも日本でも台湾と奄美以南を「琉球(流求、龍及)」と総称したためわかりにくいですが、ここに史上初めて沖縄本島に本拠地を置く政権とその君主が文字記録に登場したのです。『おもろさうし』は1531-1623年に、正史『中山世鑑』は1650年に編纂され、『明史』は1735年に編纂されましたが、明史の種本である同時代の『明太祖実録』、1451年に成立した『高麗史』、『朝鮮王朝実録』にも中山王察度の名が見えます。次回は記録や伝説を鑑みつつ、王国の成立までを追って見ましょう。

◆Pon De◆

◆Beach◆

【続く】

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