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【つの版】度量衡比較・貨幣146

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 老中・田沼意次は18世紀後半の幕政を取り仕切り、貨幣改鋳など財政改革を行いました。彼の時代には江戸や上方で町人文化が栄え、社会には安定と成熟が訪れたかに見えました。しかし、天明年間に破局が到来します。

◆栄◆

◆一◆


天明噴火

 天明3年(1783年)、信濃国(長野県)と上野国(群馬県)の境に聳える浅間山が大噴火を起こしました。天仁元年(1108年)に大規模な噴火を起こして以来、この山は戦国時代から江戸時代にかけてしばしば噴火し、大きな被害をもたらしています。4月に始まった噴火は7月をピークとして3ヶ月続き、山麓の鎌原かんばら村は火砕流と土石流でほぼ壊滅しました。

 噴煙は成層圏まで達し、関東平野一円に大量の軽石や火山灰が降り注ぎ、吾妻川・利根川・江戸川に泥流が注ぎ入って洪水となります。流域の村落は押し流され、泥流は遥か太平洋や江戸湾にまで到達しました。犠牲者は1624人(うち上野国だけで1400人以上、鎌原村だけで570人のうち477人)、流失家屋1151戸、倒壊130戸余、焼失51戸という大災害です。

 幕府はただちに災害復旧に乗り出し、最も被害甚大だった鎌原村には850両(1両10万円として8500万円、15万円として1億2750万円)もの復興資金を投入します。中山道のうち上野・信濃がほぼ通行できなくなったのですから、すぐに復旧せねば沿線の宿場町も滅びます。しかし、これはさらなる災害の始まりでしかありませんでした。

天明飢饉

 天候不順による不作は天明元年頃から続いていましたが、浅間山の大噴火に先立つ天明2年11月から翌年6月にかけて、陸奥国津軽地方の岩木山が水蒸気噴火を起こし、奥羽各地に火山灰を降らせました。麓の弘前藩はもとより東の盛岡藩・八戸藩、南の秋田藩・米沢藩・仙台藩・会津藩・白河藩などにも影響が及び、一連の降灰と日射量の低下により信濃・北関東・奥羽にかけて深刻な凶作が訪れます。「天明の大飢饉」の始まりです。

 もともと信濃・北関東・奥羽は寒冷で米や農作物は育ちにくく、石高制で成り立っていた諸藩は恒常的な財政赤字に悩まされていました。そこで米や大豆など換金作物の栽培を奨励し、高い年貢率をかけて農村から搾取し、都市部へ廻米して換金することで、なんとかやりくりしていました。また飢饉が起きると米価は上昇するため、諸藩や商人は備蓄米を放出するどころか競って米を搾取して買い集め、廻米を行ってカネを確保しようとします(飢餓輸出)。農民は来年の種籾までも搾取され、米以外の農作物も不作となれば飢え死にするか、逃散して掠奪するしかなくなります。

 宝暦5年(1755年)から翌年にかけても、北関東から奥羽にかけて大飢饉が発生し、10数万人が飢餓や疫病で死んでいます。この時も諸藩は備蓄米を廻米にして財政再建を優先させましたが、同じことが繰り返されたのです。諸藩は改易など幕府からの処罰を恐れて被害を表沙汰にしませんでしたが、調査によれば弘前藩では人口20万のうち10万人、盛岡藩では人口30万のうち7万5000人、八戸藩では人口6万のうち3万人が餓死したといい、各地で人肉食も起きたことが記録されています。蝦夷地南端にあって食糧を輸入に頼る松前藩の被害も例によって深刻でした。

 この頃には地球の火山活動が活発化していたようで、1783年にはアイスランドのラキ火山やグリムスヴォトン火山で大噴火が発生し、ヨーロッパに大飢饉をもたらしました。フランス革命が勃発したのもこの影響です。

天明打毀

 出羽南部の米沢藩、陸奥南部の白河藩では適切な飢饉対策が行われ、麦作の奨励や越後などからの米の買い付けにより被害を最小限に抑えています。しかし信濃・北関東・奥羽の多くの藩では食糧を求めて一揆・打ちこわしが勃発しました。逃散した農民は江戸や大坂、京都など都市部へ難民となって流入し、そこでも都市貧民層と結託して一揆・打ちこわしを起こします。

 天明3年末から4年(1784年)閏正月にかけ、幕府は掠奪を煽動する者を「悪党」と認定して弾圧を加えるとともに、全国の諸藩や豪商・富農に対して米・麦・雑穀の放出・売却を命じ、買い占めを禁止して米価を下落させます。また米穀売買勝手令を発付し、問屋を介さず米穀を自由に売買してよいとしました。これにより大坂から大量の米が搬出されて飢民にばらまかれたものの、米相場を司る大坂から米が払底した事でかえって米価上昇を招き、同年9月には廃止されています。

 こうしたさなかの天明4年3月末、田沼意次の嫡男・意知が江戸城内で暗殺されます。犯人は旗本の佐野善左衛門政言まさことで「覚えがあろう」と三度叫んで脇差で斬り掛かったというのですから恨みがあったと思しいのですが、動機については判然としません。前年の冬、将軍の鷹狩に随行して手柄があったのに褒賞がなかったためとも、賄賂を贈ったのに昇進できなかったためとも、田沼家の主筋である佐野家の者として遺恨が重なっていたとも諸説あります。意知は即死しませんでしたが8日後に死亡し、善左衛門は切腹を命じられて家は断絶します(本家の旗本寄合佐野家は存続)。

 佐野善左衛門の切腹の翌日、高止まりだった米の相場が投機筋の売り参入で下落に転じます。米価高騰や田沼意次の倹約令に不満が鬱積していた江戸の庶民は、私怨とはいえ意次の嫡男を殺した善左衛門を「世直し大明神」と呼んで無責任に褒め称えました。幕府内の反田沼派もこれを契機として活気づき、意次は追い詰められていきます。

財源模索

 幸い飢饉の影響は信濃・関東・奥羽にとどまり、北陸や東海・畿内・西国から救援物資が届いたことで、次第に沈静化していきました。意次は災害対策法案を矢継ぎ早に実行する一方、印旛沼・手賀沼干拓事業を推進して新田開発を進めます。徳川吉宗は新田開発を促進して米価の下落に悩まされましたが、飢饉の時に米価が高騰すれば金銀や銭がいくらあろうが飢え死にするのですから、食料自給率を上げておくのは実際重要です。

 それでも幕府財政の赤字化はとどまるところを知らず、意次は緊縮政策や倹約令、事業民営化を継続して支出を削減するとともに、年貢以外での収入の増加を試みます。商人同士の組合である「株仲間」を許可して専売制など特権を与える代わりに運上金・冥加金を納めさせ、堺・大坂等に綿の先物取引所を設置し、諸藩にカネを貸し付けて利息を取るなど様々な財源が模索されました。これらのいくつかは短期間に挫折したものの、商品生産や流通・金融から広く利益を確保しようとする動きは田沼時代の特色です。しかし年貢率が下がったわけでもないため庶民からの評判は悪く、重農主義をとる保守派からも荻原重秀めいた怪しげな政策として批判を受けました。

 天明3年(1783年)には大坂の豪商たちに対して「御用金令」を出し、14万5000両の御用金を準備させ、大名から融資の申し込みがあれば大坂町奉行所が返済保証をつけ貸し付けることとしました。年利は8%で、うち幕府は2.5%、商人は5.5%の利益を得るとします。これは諸藩の財政危機の救済、幕府の財政支出(諸大名への資金援助/拝借金)の削減、新財源の創出という一石三鳥の施策でしたが、大名からの返済は滞りがちなため豪商たちによる貸し渋りが起き、企画倒れに終わっています。

 この失敗を受け、天明6年(1786年)には官製の金融機関「貸金会所」が設立されます。これは諸国の寺社・山伏には最高15両、百姓には持高100石につき銀25匁、町人には家屋敷の間口1間につき銀3匁の御用金を出資させ、これを資本として年利7%で大名に貸付を行い、5年後に利息をつけて出資者に返済するというものでした。一種の国債ですが、御用金を徴収される側には単なる負担増としか受け取られず、大名側も幕府が自分の領民からカネを巻き上げて諸藩に貸し付け利益を得るという阿漕な策だと反発します。そのためこれも事実上の企画倒れに終わりました。

 またこの頃、意次は最上徳内を蝦夷地に派遣し、調査を行わせています。天明元年に工藤平助が著述した『赤蝦夷風説考』によれば、蝦夷地の北から赤蝦夷(ロシア人)が南下して千島に到来し、蝦夷(アイヌ)を服属させて毛皮税を課し、日本に対して交易を求めていました。勘定奉行の松本秀持はこれを意次に提出し、「蝦夷地は砂金を産出し広大で肥沃であるから、幕府が先んじて進出して防衛・開発し、清やロシアとの交易を行うべきである」と上申します。そこで興味をもった意次は調査隊を派遣したのです。蝦夷地との交易を許可された松前藩によらず、幕府が直接蝦夷地を調査することはこれより始まりますが、蝦夷地開発構想は実現前に頓挫しました。

天明洪水

 天明6年(1786年)7月、関東地方が集中豪雨に見舞われ、利根川が氾濫を起こします。3年前の泥流で川底が浅くなっていたのが遠因で、江戸市中にも大量の濁流が襲いかかり、栗橋宿(現埼玉県久喜市栗橋)から南は海のようになりました。印旛沼・手賀沼の干拓もこの洪水によって失敗します。

 追い打ちをかけるように、同年8月には将軍・徳川家治が49歳で薨去します。反田沼派は家治の養子となっていた家斉の実父・一橋治済を筆頭として勢いづき、意次に老中を辞任させ、相良藩から2万石を没収し、大坂の蔵屋敷の財産および江戸屋敷も没収します。治済は御三家・御三卿ら譜代勢力を後ろ盾とし、天明の大飢饉で功績のあった白河藩主の松平定信を老中に擁立して田沼派に圧力をかけました。しかし翌天明7年(1787年)4月に家斉が15歳で将軍となると、田沼派は横田準松らを将軍側近に立てて巻き返しをはかり、幕府は田沼派と反田沼派に二分されます。

 田沼派へのトドメとなったのは、同年5月に勃発した全国規模での「打ちこわし」でした。この年は全国的に不作でまたも飢饉が発生し、幕府は江戸での米不足と米価高騰を解決するために米を江戸へ集中させていましたが、奥羽諸藩は前回の失策を反省して廻米を制限し、かえって全国的には米不足と米価高騰を招きます。同時に物価の高騰も起き、都市部に流入していた貧困層には死活問題となりました。大坂で勃発した米屋に対する打ちこわしは瞬く間に全国へ波及し、畿内・瀬戸内・九州・東海・関東・江戸・東北でも次々と勃発します。幕府は田沼意次失脚後の内紛で政治的空白が生じており適切な処置を講じず、むしろ反田沼派は「田沼らの失政によるものである」と責任を押し付ける始末でした。

 同年6月には群衆が京都の御所に数万人も集結し、その周囲を回りながら救済を求める「御所千度参り」運動が自然発生しました。恐れた朝廷や公家はリンゴや湯茶、水や握り飯などを群衆に振る舞い、京都所司代を通じて幕府に民衆救済を要請します。やむなく幕府は米1500俵を京都市民に放出しますが、これは朝廷が幕府の政治に口出しをする端緒となり、尊王論や倒幕運動に繋がることとなりました。

 一橋治済や松平定信はこれら一連の災害や事件の責任を田沼意次におっかぶせ、田沼派を次々と失脚させます。さらに意次に蟄居を命じ、相良城を打ち壊させ、城内に備蓄されていた8万両のうち1万3000両、塩・味噌までも没収しました。意次の嫡男意知はすでに死亡しており、他の3人の子も全て他家に養子に出ていたため、意知の子の龍助(意明)が陸奥下村1万石に転封されて家督を継ぎましたが、領地へ下向することも許されませんでした。

 定信は田沼意次の政策を批判しつつも受け継ぎ、「寛政の改革」を行って混乱した国内を立て直すべく奔走することになります。翌天明8年(1788年)6月、意次は失意のうちに70歳で逝去しました。

 田沼意次の死の翌年、1789年にはフランス革命が勃発しています。天明の打ちこわしは倒幕には至りませんでしたが、フランス革命は絶対王政を打倒して共和政を打ち立て、欧州全土を巻き込む大戦争を巻き起こすことになります。次回からは日本を離れ、欧州の様子を見ていきましょう。

◆革◆

◆命◆

【続く】

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