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【つの版】倭国から日本へ14・推古天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦600年、603年、604年、610年に、倭国の使者が隋に朝貢しました。特に604年には隋の返答使・裴世清が倭国へ派遣され、都の邪摩堆(ヤマト)で倭王多利思比孤と会見し、詳しく倭国の様子を報告しています。それでは『日本書紀』ではどのようにこの遣隋使・隋使を記しているのでしょうか。

◆聡◆

◆耳◆

推古天皇と聖徳太子

日本書紀巻第廿二 豐御食炊屋姬天皇 推古天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_22.html

では、推古紀を読んでいきます。なお雄略紀から崇峻紀までは漢字の読みが唐代の漢音で、漢文からの引用が多く洗練されていますが、推古紀と舒明紀は呉音で漢字を読み、漢文で綴られているものの倭風の訛りが酷く、洗練されていません。その次の皇極紀から持統紀までは、再び洗練された漢文となっています。つまり推古・舒明紀は古い史料を用いたか、あまり漢文が得意でない倭人系の史官が編纂したということになります。暦は雄略紀以来の元嘉暦が使用されています。

推古天皇の幼名(諱)は額田部(ぬかたべ)皇女といい、諡号ないし称号は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇といいます。「豊かに御食事を炊事する家の姫」という料理が得意そうな称号です。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘・堅塩媛で、蘇我馬子は母方の叔父にあたります(馬子は550年壬午生まれと思しく、推古と数歳しか違いませんが)。

欽明15年(554年)の生まれで、18歳の時に異母兄である敏達天皇の皇后となり2男5女を産みましたが、夫が在位14年で崩御したため32歳(34歳は誤り)で未亡人となります。同母兄の用明天皇、異母弟の崇峻天皇が短命で崩御した後、592年12月に群臣に推挙されて39歳で天皇(倭国の大王)に即位しました。宮は豊浦宮(奈良県高市郡明日香村大字豊浦の向原寺)です。

推古元年癸丑(593年)、用明天皇の第二皇子である厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子・摂政とし、政務を委ねました。彼は敏達3年甲午(574年)生まれで、母が厩の傍らで産み落としたというジーザスめいた生誕伝説を持ち(馬子と同じく午年の生まれです)、聡明で一度に十人の言うことを聴き分けたと言われ、父は彼を愛して宮の南の上殿に住まわせたので、上宮厩戸豊聡耳太子と呼ばれたと伝えます。仏教を高句麗僧慧慈に習い、仏教以外の学問を博士の覺哿に学びました。とはいえこの時には20歳ほどでしかなく、実際の政務は蘇我馬子が取り仕切っていたと見てよいでしょう。この年には用明天皇を改葬し、四天王寺を難波の荒陵に建立し始めました。

推古2年(594年)には三宝(仏教)興隆の詔勅を発し、大臣や皇族は競って仏寺を建立したといいます。3年(595年)には淡路島に沈水香木が漂着し、高麗僧の慧慈が帰化し百済僧の慧聡が来て、共に仏教を広めました。同年には崇峻天皇末年に筑紫へ赴いた将軍たちが都へ帰還します。4年(596年)の11月に法興寺が完成し、慧慈・慧聡を住まわせました。

推古5年(597年)4月、百済王が王子の阿佐を遣わして朝貢しました。11月には吉士磐金を新羅へ遣わし、推古6年(598年)4月に戻って来ます。彼は新羅が献上した鵲(カササギ)2羽を持ち帰り、難波の社で飼育したところ枝に巣をかけて雛を産んだといいます。8月には新羅が孔雀1羽を貢納し、10月には越国が白鹿1頭を献じ、推古7年(599年)9月には百済が駱駝1頭・驢馬1頭・羊2頭・白雉1羽を献上するなど動物ニュースが続きます。

ただ推古7年4月には地震があり、建物が多く破損したので、諸国に地震(なゐ)の神を祀らせたとあります。これは伝説的な允恭5年(416年?)の地震に次いで『日本書紀』に登場する地震記録で、推古地震と呼ばれています。

新羅征討計画

推古8年(600年)は『隋書』によれば最初の倭国からの遣隋使の年ですが、推古紀には一言も触れられていません。門前払いに近い扱いをされて恥ずかしかったのでしょうか。日本書紀編纂者は隋書も参考にしたでしょうが、多利思比孤とか「天を兄とし日を弟とする」とかいう発言がうまいこと推古天皇や天照大神に当てはめられず、スルーしたのかも知れません。倭の五王の時の遣劉宋使もスルーしていたので、日本書紀にはよくあることです。

その代わり、この年には倭国が新羅へ出兵したと書かれています。「新羅が任那を攻撃した」ので、境部臣を大将軍、穗積臣を副将軍とし、万余の兵を率いさせ、任那を助けて新羅を攻撃するため派遣しました。倭国の軍はたちまち5つの城を攻め落とし、新羅王は恐れおののいて白旗を挙げ、毎年貢物を献上いたしますと誓ったので、将軍たちは帰還しました。などとありますが、任那はとっくの昔に滅亡しており、どうも嘘くさい話です。隋書の記事をごまかすための作り話でしょうか。

百済では598年12月に威徳王餘昌が薨去し、弟の恵が即位しています(恵王)。しかし599年に恵王が、600年に法王宣(恵ないし昌の子)が相次いで薨去し、武王璋(昌ないし宣の子)が即位しました。新羅は真平王、高句麗は嬰陽王が引き続き在位しています。

推古9年(601年)2月、太子が斑鳩(いかるが)宮を築造しました。移住するのは4年後なのでその時に解説します。3月には高句麗と百済へ使者を遣わし、「任那を急ぎ救え」と詔勅を出します。5月に天皇は北の耳梨行宮(橿原市木原町樋口神社、耳成山北西麓)に遷りましたが、大雨が降って川(米川)が溢れ、宮の庭が水に浸かりました。

9月には新羅のスパイを対馬で逮捕し、上野国へ流しました。倭国と新羅が緊張状態にあったのは確かなようで、11月には新羅征討会議が開かれます。

推古10年(602年)2月、厩戸皇子の同母弟である来目皇子を「撃新羅将軍」とし、諸国から2万5000人もの兵を集めて筑紫へ赴かせます。6月には使者を百済へ派遣しますが、来目皇子は病気に罹り出兵できませんでした。この間にも百済や高麗からは僧が次々と訪れ、天文地理や遁甲・方術などを伝えています。新羅攻撃のための情報面でのサポートということでしょうか。

しかし推古11年(603年)2月、来目皇子は筑紫で薨去してしまいます。天皇も太子も蘇我馬子も驚き悲しみ、周防で殯させたのち、河内に葬りました。4月には来目皇子の兄である當麻皇子を征新羅将軍に任命し、7月に難波から出発させましたが、妻の舎人姫が播磨の明石で薨去してしまいます。皇子は悲しみのあまり帰って来たため、とうとう新羅征伐は中止となりました。

戦時でも平時でも、間諜(スパイ)網を張り巡らしておくことは兵法の基本です。倭国と新羅との間でニンジャめいたスパイたちが暗躍し、重要人物を暗殺したりしたのかも知れません。百済僧観勒が伝えた遁甲・方術は陰陽道の暦や占いの術であり、また兵法の一種とも言われています。

とっくに存在しない任那を救援するというのも妙な話ですが、たぶん百済が新羅との領土紛争に際して倭国に救援を求め、倭国も任那回復の機会だと思い出兵を計画した、というところでしょう。新羅はこれに対して妨害工作を行ったわけです。そして結局、倭国の新羅征討計画は頓挫しました。

小墾田宮での改革

同推古11年(603年)の10月、天皇は小墾田(おはりだ)宮に遷りました。これは明日香村豊浦の古宮遺跡、ないし雷丘南麓の雷内畑遺跡と思われ、豊浦宮からさほど離れておらず、飛鳥川のほとりにあります。隋使・裴世清を迎えたのは、この宮であったはずです。

11月、太子が群臣に「私は尊い仏像を持っているが、誰かこの像を恭しく礼拝する者はいるか」と問うと、秦河勝が進み出て「私が拝みます」と言いました。そこで彼は仏像を下賜され、蜂岡寺を建立したといいます。これは京都府京都市右京区太秦(うずまさ)の広隆寺で、かの有名な宝冠弥勒菩薩半跏思惟像が安置されています。これが太子から授かったものかは定かでありませんし、渡来仏なのか倭国で作られたのかも議論があります。

この月、太子は天皇に請い、大楯・靫・絵を描いた旗幟を作成しています。そして12月には冠位十二階を定め、翌推古12年(604年)には冠位を群臣に授けて序列をつけ、4月には憲法十七条を作りました。

儒教・仏教・法家などチャイナから伝来した思想によって作成されており、国民というよりは貴族や官僚、豪族に対して政治の心得を問いたものです。実際にこの頃制定されたか議論はあり、日本書紀編纂時に創作されたとも、ある程度の原本はあったが加筆修正されたとも諸説あります。まあこれほど立派でなくても、既にある程度の役人心得は存在したのかも知れません。

さらに9月には朝礼の制度を詔勅によって改め、「およそ宮門を出入りする時は、両手を地につけ、両脚で跪いて敷居を越え、それから立って進め」としています。ヤマト倭国の大王を、他の豪族とは違う、隔絶した権威を持つ存在として内外に演出しようというのです。

なぜこの時期にこのような政治改革がなされたかは日本書紀には記されませんが、やはり第一回遣隋使が隋の天子に叱責され、国際的に蛮夷とみなされていたからでしょう。また隋使が倭国を訪れた時、あまりみっともないところを見せると恥をかきますし、新羅や百済、高句麗にも面目がたちません。倭国内にも反ヤマト勢力がおり、彼らにナメられてもよくありません。

そこで遣隋使が持ち帰った隋の礼儀作法や官僚制度を研究し、百済など諸外国の制度や倭国の制度とすり合わせて、秩序立った文明国・先進国としての体裁を大急ぎで調え始めたわけです。小墾田宮もチャイナや百済の王宮を真似て作られ、中央豪族たちはチャイナ風の衣冠を着せられて官僚に早変わりします。幸い長年チャイナに朝貢して事情をわきまえている百済から大勢渡来人や帰化人が来ていますから、彼らに聞けばだいたい理解ります。

また第一回遣隋使が見栄を張ってか「倭王はアメタラシヒコ・オホキミといい、天を兄とし日を弟とします」などとぬかしたので、辻褄を合わせるため女性の推古天皇は御簾の後ろに隠れて戴き、蘇我馬子や厩戸皇子が応対することにしたのでしょう。国際社会でメンツを保つのは大変です。当然そうした理由は日本書紀では隠され、何食わぬ顔で綴られていますが、隋書を読めばありありと理解ります。お察し下さい。

さらに公的な絵を描く絵師たちを任命し、推古13年(605年)4月には君臣が共同で誓願を発し、銅と刺繍による丈六(等身大)仏像を各々1体作らせます。また仏像を作成する仏師として鞍作止利(鳥)が任命されました。この時、高句麗の大興王(嬰陽王)が黄金300両を贈って支援しています。閏7月には群臣が褶(平帯)を着けるよう命じられました。

斑鳩宮

推古13年(605年)10月、皇太子厩戸皇子は4年前に築造した斑鳩宮へ遷ります。これは奈良県生駒郡斑鳩町にあり、南の小墾田宮からは直線距離で16kmも離れています。太子が推古天皇や蘇我馬子から距離を置き、自らの政治勢力を強化するために移動したものでしょうか。

推古14年(606年)4月、銅と刺繍による丈六仏像が完成し、銅像を元興寺(法興寺、飛鳥寺)の金堂に安置しました。ただ設計ミスで仏像が金堂の戸を通れず、工人らは戸を破壊して入れようとしましたが、鞍作止利は戸を壊さずに仏像を入れました(横向きにしたのでしょうか)。金堂での斎会に集まる人は数知れず、この年から4月8日の灌仏会、7月15日の盂蘭盆会を各地の寺で行うようになったといいます。

これらの功業を嘉され、止利は大仁(冠位十二階の第三位)の位を賜り、近江国坂田郡に水田を授かりました。これをもとに寺を作り、のち飛鳥に遷しましたが、これが南淵の坂田の尼寺(明日香村坂田寺跡)の縁起です。

7月、天皇は太子を招いて『勝鬘経』を講じさせ、3日かけて終わりました。またこの年に岡本宮で『法華経』を講じました。天皇は大いに喜び、播磨国の水田100町を太子に施し、斑鳩寺(法隆寺)の寺領としました。

法隆寺の建立については日本書紀に語られませんが、『上宮聖徳法王帝説』によると四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺の七大寺は厩戸皇子(聖徳太子)が建立したとされます。

推古15年(607年)2月、幼い皇族を養うための壬生(みぶ)部が置かれました。また詔して神祇の祭祀を怠らぬよう群臣に命じ、太子と群臣・官僚は神祇を祀りました。仏教ばかりを重視するのではなく、古来の神祇祭祀も棄てはしないというアピールです。まだ「神道」という概念はありませんが、仏教や儒教や道教とは違う、倭国古来の宗教的ななんかとしてぼんやり意識されてはいたようです。この年の冬には倭国(ヤマト)に高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作り、山背国南部の栗隈(宇治)に大溝(運河)を掘り、河内国に戸苅池・依網池を作り、また諸国に屯倉を置きました。

そして同年7月、大禮の小野妹子を大使とし、鞍作福利(止利の子か)を通訳として「大唐」へ派遣しました。まだ唐はありませんが、日本書紀編纂者が隋と唐を混同していたのでしょうか。ともあれ、これが日本書紀に記録される最初の遣隋使となります。

◆俺◆

◆妹◆

【続く】

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