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【つの版】度量衡比較・貨幣21

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1095年、東ローマ帝国はセルジューク朝への反撃のため、西欧諸侯に傭兵の提供を呼びかけます。これを受けて、ローマ教皇は聖地奪還のための聖戦を西欧諸侯に呼びかけました。これがいわゆる十字軍です。

◆Lion◆

◆Heart◆

聖地奪還

 第一回十字軍については前に触れました。フランク人の軍勢は東ローマに案内されてアナトリア各地を転戦したのち、キリキアを経てシリアに入り、聖地エルサレムを目指します。東ローマは彼らが蹂躙した後のアナトリアを接収し、セルジューク朝の地方政権とファーティマ朝が争っていた地域へと厄介払いしたのです。フランク人は破壊と殺戮を行いながら進軍し、ついにシリアとパレスチナを奪い取ってしまいました。

 この大成功は西欧諸国にさらなる熱狂を巻き起こし、続々と援軍が派遣されていきます。1101年にルーム・セルジューク朝へ立ち向かった連中はほとんどが撃破されますが、1107年にノルウェー王シグルズが率いて出発した軍勢はイングランド・イベリア半島・バレアレス諸島・シチリアを経て1110年にエルサレムに到達しました。彼らは行く先々で掠奪と殺戮を行い、多数の財宝を獲得したのち、キプロス・東ローマ・ブルガリア・ハンガリー・ドイツ・デンマークを経て1113年に帰国したといいます。

 フランク人たちは征服地に国を築いて割拠しますが、現地のムスリムはもちろんキリスト教徒同士でも争いが絶えませんでした。東ローマ皇帝ヨハネスはこれを利用して彼らを操り、シリアへの遠征に援軍を出させています。

 この頃、東ローマと西欧の間で台頭したのがヴェネツィア共和国です。7世紀末か8世紀頃、アドリア海の奥に位置する共和制の都市国家として形成されたヴェネツィアは一応東ローマ帝国領でしたが、西はランゴバルド王国やフランク王国、東はダルマチアのスラヴ諸族と手を組んで勢力を広げ、11世紀初めまでにアドリア海の制海権を確立しました。

 東ローマ皇帝アレクシオスは、南イタリアのノルマン人などへの対抗策としてヴェネツィア商人を優遇し、免税などの特権を授けました。ヴェネツィアにとってもアドリア海の出口を抑えられては死活問題ですから、1084年にはヴェネツィア艦隊がノルマン人と戦いましたが、敗北を喫しています。こうした状況で、フランク人が大量に海を渡る十字軍運動が始まったのです。

 ヴェネツィアはファーティマ朝とも交易関係があったため、当初は参加を見合わせていますが、1100年頃から十字軍国家への支援を開始し、1104年には国立造船所(アルセナーレ)を建設、多数の船を建造して海軍力を強化します。そして1123年にはエルサレム王国における名目上の自治権を獲得し、東方交易を掌握しました。アドリア海沿岸からギリシア、エーゲ海、東地中海の各地にはヴェネツィア商人が入植し、中継基地を築いていきます。

 こうしたヴェネツィアの台頭に焦ったのがピサ共和国です。ピサは西地中海の覇権をサラセン人やジェノヴァと争い、第一回十字軍を支援して東地中海各地に権益を有しており、東ローマからも各種特権を授かっていました。東ローマの商人もヴェネツィアの台頭を妬み、妨害工作を行います。

 ノルマン系シチリア伯のオートヴィル家は、1130年に教皇から王位を認められ、シチリアと南イタリアを支配するシチリア王国を開きました。外来のノルマン人が少数だったため、彼らは地元のイタリア人、ギリシア人(旧東ローマ人)、サラセン人(アラブ)やユダヤ人も平等に臣民として扱い、文化的・宗教的には極めて寛容でした。このためシチリア王国は欧州きっての文明国となり、地中海の中央部を支配する大国として栄えました。

回教反撃

 そうこうするうち、十字軍諸国はイスラム勢力の反撃を受け、1144年には内陸のエデッサ伯国がアレッポとモースルの太守ザンギーに征服されます。ザンギーは1146年に逝去しますが、教皇はこの情報を受けて再び十字軍を呼びかけ、ドイツやフランスなどの西欧諸侯がこぞって聖地へ出発します。ついでにイベリアのイスラム勢力や、バルト海南岸のポメラニア地方に住む異教徒ヴェンド人への十字軍も呼びかけられました。

 ドイツ・イタリア王(神聖ローマ皇帝)コンラート3世、フランス王ルイ7世らが参加したこの十字軍は、はなはだ連携を欠いていました。両王は別々に進軍し、ハンガリーを通って東ローマ領に入ったものの、皇帝マヌエルは特に支援要請もしていなかったので協力しませんでした。さらにアナトリアを通る途中でルーム・セルジューク朝の軍勢に打ち破られ、僅かな生き残りがエルサレムへ辿り着いただけでした。

 現地の十字軍国家も別に救援を要請していなかったので困惑し、暴走した西欧軍はエルサレム王国の同盟国であるダマスカスを攻撃しますが、苦戦した末に四日後に撤退します。諦めた西欧軍は何の成果も得られなかったどころか、ダマスカスをエルサレム王国から離反させてしまい、後始末もなしに帰国する始末でした。大西洋側を通った騎士たちがリスボンをイスラム勢力から奪還したものの、聖地においては全くいいところなしでした。

 ザンギーの息子ヌールッディーンはアレッポの太守となり、混乱に乗じて十字軍諸国を撃破したうえ、1154年にはダマスカスを占領します。東ローマは頼りにならぬ十字軍諸国を見捨ててヌールッディーンと同盟し、ルーム・セルジューク朝と戦わせています。ヌールッディーンの勢力はシリア全土に及び、11164-69年にはファーティマ朝の内紛に乗じて配下の将軍シールクーフを派遣し、これを乗っ取らせています。

 1169年にシールクーフが病死すると、彼の甥サラーフッディーン(サラディン)が跡を継いでエジプトを支配します(この政権は彼の父の名をとってアイユーブ朝と呼ばれます)。彼はヌールッディーンと対立しつつエジプトをスンニ派化し、ヒジャーズ・イエメン・ヌビアを制圧して北方に備えました。1174年5月、ヌールッディーンがダマスカスで病没すると内紛が生じ、サラーフッディーンは混乱に乗じて北上、10月にダマスカスを占領します。

 彼はヌールッディーンの寡婦と再婚してザンギー朝の跡継ぎを称し、ザンギー朝の残党やルーム・セルジューク朝、十字軍諸国と戦って勢力を拡大、アッバース朝カリフの承認も得て確固たる領土を築き上げました。1187年には度重なる条約違反を責めてエルサレム王国と戦い、7月にこれを撃破すると10月にはエルサレムを奪還します。エルサレム王ギーは海辺へ逃れ、テュロスを経てアッコンへ撤退しますが、これも奪われます。

三王遠征

 この報を受けた教皇は、西欧諸侯へまたも聖地奪還の十字軍を呼びかけます。英国王ヘンリー2世はフランス王フィリップ2世との戦争中でしたが、この呼びかけを受けて一応和睦します。しかしフィリップは英国王子リチャードを唆してヘンリーを裏切らせ、1189年にヘンリーが死ぬとリチャードが王位につきます。彼こそ名高き獅子心王リチャードです。この二人と神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ(赤髭)が第3回十字軍の主力を率いることになります。

 しかるに、聖地までの遠征には莫大なカネが必要です。皇帝や王侯貴族らは領民に「サラディン税」を課し、収入と動産の十分の一を拠出させます。また従軍しない騎士や兵士には代納金を課しますが、長年の戦争で国庫のカネが払底していた英国王リチャードは、各地の城や所領、官職までも次々と売り払ってカネに変えます。さらに父ヘンリーが得ていたスコットランド王の臣従を、1万マルク(1マルク70万円として70億円)と引き換えに手放し、「もし適当な買い手があればロンドンでも売る」と言い放ったといいます。

 リチャードの父ヘンリーは、1154年にイングランド王に即位するまではフランス北西部のアンジュー地方の伯でしたが、婚姻などによって南はアキテーヌから北はイングランド、アイルランド東部までを所領として持つ「アンジュー帝国」の主となりました。従って英国は王冠つきの属領のひとつに過ぎず、本家・本土・本国はフランス側にあり、王侯貴族はフランス語を話し、フランス風にアンリやリシャールと呼ばれていました。なので英国自体に愛着はなく、リチャードも在位中はほとんど英国に滞在していません。

 対するフィリップも資金繰りに苦慮しました。この頃の歩兵の日当は2-3ドゥニエ(1ドゥニエ/D=5000円として1万-1.5万円)、騎兵はその倍、爵位持ちの騎士はさらに倍です。騎士1人・馬2頭・従士1人・馬丁1人のセットを1ヶ月運用すれば1マルク(70万円)以上は必要のところ、フィリップは騎士650人、馬1200頭、従士・馬丁1300人を集め、何年かかるかもわからない海外遠征に駆り出すのです。血気盛んなリチャードとは違い、フィリップは冷静で現実主義者でしたから、もともと十字軍に乗り気ではありません。

 それでも、これだけの兵力を海外遠征させるだけの財力を持っていたのは流石にフランス王です。先代のルイ7世の代にはパリとオルレアン周辺にしか支配権が及びませんでしたが、年収22.8万リーヴル(1リーヴル120万円として2736億円)はありました。フィリップは策略や戦争で周辺諸侯の領地を手に入れ、アンジュー帝国を分裂させて勢力を広げていたのです。

 神聖ローマ皇帝フリードリヒは1189年に陸路で出発し、ドナウ川沿いにハンガリーへ向かい、東ローマ領を経てルーム・セルジューク朝に侵攻しました。彼は5月にイコニウム(コンヤ)を占領し、キリキアとシリアを経て聖地へ向かおうとしますが、6月にキリキアの川で落馬し、鎧の重さで起き上がれず溺死しました(暗殺とも)。皇帝軍は混乱して解散し、一部は先へ進んでアッコンに至りますが、さしたる兵力は残りませんでした。

 1190年夏、フィリップとリチャードは連れ立ってフランス・イタリアを南下し、ジェノヴァ・シチリア・クレタ・キプロスを経て聖地に到達します。しかし途中で仲違いして別行動となり、リチャードは大西洋側から来た海軍と合流、シチリアやキプロスなどで争いを起こしながらパレスチナに到着します。この間、フィリップはエルサレム王位を狙うモンフェラート侯コンラートと同盟し、リチャードは彼と対立するエルサレム王ギーと手を組んで、ギーにキプロスを与えました。

 1191年、アッコン包囲戦に加わったフィリップとリチャードは、攻城兵器を駆使して7月にこれを陥落させます。しかしフィリップは病気を理由として帰国の途につき、リチャード不在のアンジュー帝国に介入してノルマンディーに侵攻、リチャードの弟ジョンを王位につけようと画策します。オーストリア公レオポルト5世もリチャードと仲違いし、ドイツ兵を率いて十字軍から離脱、リチャードは単独でサラディンと戦うことになります。

 リチャードはアッコン降伏時に「イスラム教徒の捕虜の身代金を支払い、キリスト教徒の捕虜を解放し、奪われた聖なる十字架を返還すること」などを条件として協定を結びますが、サラディンはこれを履行しませんでした。しびれを切らしたリチャードは捕虜2700人を協定違反として処刑し、海沿いに南へ進み港町ヤッファ(現テルアビブ付近)を奪おうとします。サラディンはこれを防ぐべくアルスフで戦いますが打ち破られ、ヤッファなど海岸地方はリチャードの手に落ちます。戦場におけるリチャードは、獅子のごとく勇猛かつ狡猾であり、イスラム教徒からも強敵として恐れられました。

 サラディンはエルサレムの防備を固めて対抗し、1年近くも小競り合いと交渉を繰り返しました。母国がフランスに侵略されていると聞いた英国軍には厭戦ムードが広がり、リチャードはやむなく1192年9月に停戦に同意します。エルサレムはイスラム教徒の統治下に置かれたものの、非武装のキリスト教徒の巡礼者が訪れることは許可され、アッコンからヤッファに至るパレスチナ沿岸部はエルサレム王国の領土として認められました。力尽きたサラディンは、翌年にダマスカスで病没しています。

英王捕囚

 リチャードは海路で帰途につき、アドリア海に入ってヴェネツィア近くのアクィレイアに到達します。そこから姉マチルダが嫁いでいた元ザクセン・バイエルン公ハインリヒ3世を頼るべく、スロベニアを経てウィーンへ向かいました。ところがこの地でオーストリア公レオポルトに捕らえられ、敵対関係にある神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡されてしまいます。

 皇帝は彼を15万マルク(銀10万ポンド、1050億円)もの身代金と引き換えに釈放すると約束しますが、これはリチャードがサラディン税で調達した十字軍の遠征費用と同額であり、彼の英国王としての歳入の2倍か3倍にも相当しました。到底払える金額ではありません。本国ではリチャードの母エレオノーラが身代金を減額するよう働きかけ、領民と聖職者から財産の4分の1を没収するなどしてなんとかカネをかき集めます。フランス王フィリップは恩を着せるため8万マルクを提供しようとしますが、皇帝は断りました。

 1194年、リチャードはなんとか釈放されて帰国しますが、借金まみれの状態でした。これを打開すべくリチャードは借金の帳消しを宣言し、フランス王の侵略から領土を防衛するため各地で転戦しました。1196年から98年にかけては中東の技術を取り入れたガイヤール城をノルマンディーに建設しており、その費用は1.2万ポンド(144億円)に及んだといいます。

 1199年3月、リチャードはノルマンディーでの小競り合いで肩にクロスボウの矢を食らい、10日後に41歳で崩御しました。この頃、教皇はまたも西欧諸侯に十字軍を呼びかけています。これが悪名高い第4回十字軍です。

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【続く】

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