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【つの版】ウマと人類史:近代編08・聖地遠征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 18世紀から19世紀にかけて、オスマン帝国は北方のロシアから圧迫され、各地に豪族が割拠して独立し、内乱が頻発していました。このような危機的状況を、オスマン帝国はどう切り抜けていったのでしょうか。

◆MUHAMMAD◆

◆ALI◆

北方蜂起

 マフムト2世が即位した翌年、ロシアはオスマン帝国との戦争を再開しています。この戦争は1804年にセルビア(ベオグラード県)で起きたジョルジェ・ペトロヴィチ(カラジョルジェ)の武装蜂起に端を発していました。これは圧政を敷くイェニチェリを排除するため、セルビア人有力者やキリスト教聖職者、農民、山賊(ハイドゥク)が結託して起こしたもので、オーストリアやロシアに支援を要請しました。1787年にもオーストリアの呼びかけでセルビア人が武装蜂起したことがあり、その流れをくむ民族主義的な運動です。カラジョルジェはたちまちセルビア全土を支配下におさめ、オスマン帝国に自治権を要求しますが拒まれ、反オスマンの独立闘争へと発展します。

 オーストリアは対ナポレオン戦争で動けず、ロシアから義勇兵が送り込まれて露土戦争が始まると、オスマン帝国は一転してセルビアの自治を認めると申し出ます。カラジョルジェらはこれを拒んで完全独立を目指しますが、1807年にロシアはナポレオンおよびオスマン帝国と講和し、セルビアは孤立します。オスマン帝国もアーヤーンとイェニチェリの対立、皇帝の廃位などで動けず、一時休戦となりました。

 1812年5月、ナポレオンがロシアに侵攻する準備を整えていた頃、ロシアはこれに対抗するためオスマン帝国と講和します。これによりオスマン帝国はモルダヴィア公国の東半分で黒海に面したベッサラビア地方を失い、セルビアに自治権が与えられます。ジョージア西部などカフカース地方も失ったものの、1813年にはロシアが対ナポレオン戦争で動けぬ隙にベオグラードへ侵攻し、セルビアを奪還することには成功します。カラジョルジェたちはハンガリーへ逃亡し、反撃の機会を待つことになります。

 セルビアに戻ってきたオスマン帝国のイェニチェリやアルバニア人は、報復のために反乱者を弾圧し、またも不満が高まります。これに乗じて1815年4月、貧農出身のミロシュ・オブレノヴィッチがセルビアで武装蜂起し、ロシアの後ろ盾を得てオスマン帝国と交渉を進めました。カラジョルジェらは完全独立を目指してハンガリーから帰国しますが、ミロシュは彼らを暗殺して抑え込み、1817年11月に議会によって世襲のセルビア公に擁立されます。彼はオスマン帝国の宗主権を認め、貢納と軍隊の駐屯を承認して、ようやく属国としての自治権を獲得しました。しかしドナウ川の南にこの規模の自治公国が誕生したことは、周辺地域にも動揺を与えずにはおれませんでした。

南方自立

 オスマン帝国の南方では、エジプト総督のムハンマド・アリーが台頭していました。彼はマケドニア地方カヴァラ出身のアルバニア人で、父イブラーヒームは街道警備部隊の長、母ハドラはカヴァラ市長の親戚でした。ナポレオンとは同年(1769年)に生まれています。幼い時に父を亡くし、母の実家で育てられ、18歳の時に父の職務を継ぎました。

 1798年、ナポレオンの侵攻に対抗するためカヴァラからアルバニア人部隊300人が派遣された際、30歳のムハンマドはこれに参加し戦功を上げ、6000人を率いる副司令官にまで昇進します。1803年3月、フランスと英国が講和してエジプトから軍隊を撤退させると、エジプトではオスマン帝国の総督、アルバニア人部隊、在地マムルークによる激しい権力闘争が繰り広げられます。この中でムハンマド・アリーは頭角を現し、1803年5月にアルバニア人部隊の司令官に就任すると、マムルークと手を組んで総督を無力化します。次いで派閥抗争につけこんでマムルークを排除し、総督に対するカイロ市民の不安を煽り立て、1805年5月に自らをエジプト総督に推挙させます。

 オスマン帝国は一応これを承認しますが、カイロの周囲はまだ敵だらけでした。ムハンマドは1807年に英国によるエジプト侵攻を阻止し、各地の勢力と巧みに交渉して勢力基盤を固めます。そしてオスマン帝国は、彼に東のアラビア半島を支配するサウード家を討伐するよう命じました。

宗教改革

 このサウード家とは、現在のサウジアラビア(サウード家のアラビア)を統治するサウード家の先祖です。伝承によれば、彼らは預言者イブラーヒーム(アブラハム)の子イスマーイール(イシュマエル)の子孫のうちアドナーン系アニザ部族に属し、先祖はペルシア湾西岸の都市カティーフに住んでいたといいます。1446年、アラビア半島中央部のナジュド地方の街リヤドの入植者の長イブン・ディルという人が、カティーフから親戚のマニ・アル=ムライディを招き、彼にリヤド近郊の土地を与えました。マニはそこに街を築き、イブン・ディルにちなんでディルイーヤと名付けます。

 1720年頃、マニの子孫サウード・アル=ムクリンがディルイーヤの首長(アミール)となり、1726年に彼の子ムハンマド・イブン・サウードが跡を継ぎます。サウード家の直接の先祖です。そして1744年、彼はイスラム法学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブを庇護します。

 このイブン・アブドゥルワッハーブは、ナジュド地方の村ウヤイナの出身で、代々イスラム法学者でした。各地に巡礼・遊学して帰郷したのち、村の有力者ウスマン・イブン・ムゥアンマルの庇護を受け、厳格な唯一神崇拝(タウヒード)に立ち返れと唱えて宗教改革を行います。彼は聖人の霊廟を破壊したり神木を切り倒したり、密通した女性に石打ちの刑を課したりしたため、近隣の有力者から危険視されます。イブン・ムゥアンマルもかばいきれず彼を追放し、彼は48kmほど離れたディルイーヤへ庇護を求めたのです。

 イブン・サウードは、このルターめいた宗教改革者を利用して各地に聖戦(ジハード)をふっかけ、勢力を拡大し始めました。サウード王国の建国です。1765年にイブン・サウードが78歳で逝去すると、息子アブドゥルアズィーズが跡を継ぎ、1789年にはナジュドをほぼ統一します。イブン・アブドゥルワッハーブは1792年に90歳の高齢で逝去しますが、サウード家の拡大は止まらず、1794年にはカティーフ、1795年にはハサを占領します。

 1802年には西のヒジャーズ地方、東のカタールとバーレーン、北のイラクに侵攻し、彼らにとって「異教徒(カーフィル)」であるシーア派の聖地カルバラーとナジャフで殺戮と掠奪をほしいままにします。1803年にはついにヒジャーズ地方の聖地マッカ(メッカ)を占領し、シリアやイエメンにも出兵します。サウード家はここにほぼアラビア半島を征服したのです。オスマン帝国もガージャール朝イランも混乱が続いており、勇猛果敢なアラビアの軍勢に太刀打ちできませんでした。世が世であればサウード王国は二つの帝国を粉砕し、アラブ・イスラムの大征服を再び成し遂げたかも知れません。

 しかし1803年11月、アブドゥルアズィーズは首都ディルイーヤでシーア派のペルシア人イバジ・オスマンにより暗殺されます。当然シーア派の聖地を冒涜した復讐でした。跡を継いだサウードは征服活動を続け、東はオマーン、南はイエメン、西はヒジャーズに覇権を及ぼし、北はシリアとイラクに繰り返し出兵して、オスマン帝国を南から脅かしました。また1807年にはオスマン皇帝セリムに手紙を送り、ワッハーブ派の教義に従うことを求め、占領地から帝国の軍隊を追放しました。怒ったセリムはムハンマド・アリーにサウード家の討伐を命じますが、翌年クーデターで廃位されます。

聖地遠征

 マフムト2世も北方のセルビアやロシアへの対処で手一杯で、南方には手が出せないため、しばしばムハンマド・アリーにサウード家を討伐するよう命令しています。ムハンマド・アリーは1811年にアラビア遠征を行うと宣言し、3月に有力なマムルーク400人あまりをカイロへ招きました。そしてその場でマムルークを皆殺しにし、カイロや上エジプトのマムルークにも奇襲をしかけ、1812年までにエジプト全土からマムルークをほぼ駆逐します。

 かくてエジプト全土の支配権を握ると、ムハンマド・アリーは長男イブラヒム・パシャを総司令官としてようやくアラビアに遠征し、1813年にはヒジャーズを奪還します。1814年4月にサウードが66歳で病死すると、息子アブドゥッラーが跡を継ぎますが、オスマン帝国は本腰を入れてサウード家を滅ぼすべく、本国からも軍隊を派遣します。1818年にはディルイーヤが包囲され、9月にアブドゥッラーはオスマン帝国に降伏しました。彼は翌年処刑され、ここに第一次サウード王国は滅亡したのです。

 イスラム教の聖地を含むアラビア半島を奪還したことで、オスマン帝国とムハンマド・アリーの権威はともに高まりました。しかし残党はなお不穏な動きを見せており、バルカン半島でも民族自立の動きが強まっていました。1820年代には、帝国はさらなる苦境にさらされることになります。

◆猪◆

◆木

【続く】

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