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【つの版】ウマと人類史:近代編10・東方問題

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 18世紀から19世紀にかけて、ロシアはオスマン帝国に居住する正教徒に工作員を派遣して内通させ、反乱を起こさせて切り崩そうとしていました。フランスや英国、オーストリアなど列強の思惑も絡みつつ、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と化していきます。

◆東◆

◆方◆

秘密結社

 ルメリア南西部(現アルバニア南部からギリシア本土西部)を統治していた領主アリー・パシャは、列強の対立を利用して英国と手を組み、オスマン帝国から独立することを目論んでいました。それには足元の正教徒に反乱されては困りますから、彼は正教徒(ギリシア人)も取り立てて行政官や軍人とし、手懐けてはいます。また彼は各地を荒らしていた盗賊団を鎮圧し、手下に加えたりもしています。

 17世紀から19世紀にかけて、ハンガリーやポーランド、バルカン半島各地でゲリラ活動や盗賊行為を行う人々は、一般にハイドゥク(盗賊、牛泥棒)と呼ばれました(ギリシア語ではクレフテス)。彼らは民族主義が盛んになると自由で反体制の義賊として讃えられたものの、ムスリムばかりでなく正教徒も普通に襲撃していますし、オスマン帝国や領主ら権力者に雇われて私兵となり、民衆からミカジメを搾取することもしていました。

 一方、テッサリア地方のギリシア化したヴラフ人(ワラキア人)の家に生まれたリガス・ヴェレスティンリス・フェレオスという人物は、18世紀末にフランス革命に触れて啓蒙思想に傾倒していました。彼は「ギリシア人(ロミオイ)」が武装蜂起してオスマン帝国を打倒し、その跡地に共和政国家を創設すべきであると唱え、秘密結社を組織してナポレオンに呼応しようとしましたが、1797年に逮捕・処刑されています。しかしこれに続いて、各地で反オスマン帝国の秘密結社が創設されました。

 1814年、ロシア皇帝アレクサンドルらの支援を受けて「フィロムソス・エテリア(芸術愛好協会)」が設立され、イオニア七島連邦国の元首相にしてロシアの外交官(のち外務大臣)カポディストリアスが会長に就任しています。彼はロシアの手先として英国から警戒されました。

 同年、ロシア帝国の港町オデッサ(現ウクライナのオデーサ)において、ロシア在住ギリシア人らによる反オスマン帝国の革命を企図した秘密結社「フィリキ・エテリア(友愛協会)」が結成されます。これはフリーメーソンやカルボナリ(イタリア・フランスにおける急進的立憲自由主義組織)を参考とし、既存の反オスマン組織参加者を取り込んでいましたが、各国の貿易商人、役人やファナリオティスの間にも広がっていきます。しかし明確な指導者や方針を欠いていたため、いまいち一致団結できませんでした。

 フィリキ・エテリアはロシアに援助を求め、カポディストリアスを指導者に迎えようと再三要請しましたが、彼は「革命運動は欧州の秩序を乱す」として反対します。そこで1820年4月、フィリキ・エテリアはロシアの軍人であるイプシランティを招いて指導者とし、大規模な武装蜂起を計画します。

 アリー・パシャは対オスマン帝国のため、これと手を組みました。すでにセルビアはロシアの支援で半独立国となっていますから、ルメリアでもロシアの支援があれば同様のことになるのは目に見えています。同年末、オスマン帝国はアリー・パシャの勢力を滅ぼすべく兵を動かし始めました。

蜂起勃発

 1821年1月、ワラキア公スツが逝去すると、ワラキアの貴族らは統治委員会を結成し、民兵の首領であったワラキア人トゥドール・ヴラディミレスクとともに武装蜂起します。彼はカポディストリアス、イプシランティらと接触し、同時期に武装蜂起してオスマン帝国を脅かすことを計画してはいましたが、あくまでファナリオティスの政権を打倒し、オスマン帝国の宗主権を認める自治国を樹立することを目標としていました。

 多数の民兵や農民が加わったこの反乱はワラキア全土に波及し、トランシルヴァニアにも及びました。イプシランティはこれに乗じて挙兵すると、3月にロシア国境を越えてモルダヴィアへ進軍、義勇兵を率いて南下し、ワラキアの中心都市ブカレストへ進みます。

 ワラキアでの騒乱に呼応して、1821年3月にはペロポネソス半島で武装蜂起が勃発していました。イプシランティの弟ディミトリオスらはペロポネソス半島に軍事指揮官として派遣されていましたから、これはフィリキ・エテリアに同調したものとする説が有力です。オスマン帝国がワラキア蜂起に対処するため正教徒の有力者を呼び集めたら「人質を取られる」との噂が広がりパニックが起きたのだともいいます。いろいろあったのでしょう。

 ペロポネソス北部の街パトラでは、2月中旬頃からフィリキ・エテリアらによる反乱計画が準備されており、オスマン帝国は軍隊を派遣して鎮圧にかかります。3月25日(ユリウス暦4月6日)、反乱軍はパトラの広場でオスマン帝国からの独立を宣言し、革命政府が樹立されました。これ以前から各地で散発的に起きていた反乱は各地に燃え広がり、テッサリア、マケドニア、クレタ、キプロスにも飛び火していきます。独立戦争の始まりです。

 オスマン皇帝マフムト2世は、正教徒らの反乱に対して帝国とイスラム教徒(ムスリム)を守るべく「聖戦(ジハード)」を宣言し、4月には正教徒の長であるコンスタンティノポリス総主教グリゴリオス5世を殺害します。グリゴリオス自身は反乱を煽動しておらず、むしろ「反乱に参加した正教徒は破門する」と宣言していたのですが。またこれに乗じて帝国全土でムスリムによる正教徒への暴行・掠奪が相次ぎ、両者の対立が激化します。これにはロシアも抗議し、西欧諸国でも非難の声が上がり、十字軍めいてギリシア独立のための義勇軍に参加しようという者も現れました。

反動弾圧

 しかし意外にもロシア皇帝アレクサンドルは「国際秩序を脅かすものである」と非難し、ロシアによる軍事介入を拒んだばかりか、ブカレストからロシア総領事を退避させたうえでオスマン帝国による反乱鎮圧を支持します。彼はオーストリアの宰相メッテルニヒから強い影響を受け、帝国を揺るがす革命思想・自由主義を弾圧する反動主義者になっていたのです。実際同時期には欧州各地で革命運動が火を噴いており、勢力均衡と伝統主義で革命を封じ込めようとしたウィーン体制とは火と油でした。あまり弾圧するとフランス革命の二の舞いですから、ガス抜きは行わねばなりませんが。

 トゥドールはロシアに見捨てられ、ワラキア貴族やイプシランティと対立し、オスマン軍に打ち破られた末、裏切りを疑ったイプシランティに引き渡されて殺されます。イプシランティも7月に敗れてオーストリアへ亡命し、ワラキア蜂起は失敗に終わりました。しかし、騒乱はなおも続きます。

 この頃ロシアはカフカース地方を巡ってイランやオスマン帝国と争っていましたが、オスマン帝国が正教徒を弾圧・殺戮した報復としてか、イランをけしかけます。1821年9月、イランの皇太子アッバースは国境を越えてオスマン帝国東部辺境に侵攻し、別働隊はイラクに侵攻してバグダードに迫りました。オスマン軍は迎撃に出ますが11月にエルズルムで撃破され、オスマン帝国は東西に敵を抱えることになります。

 それでも、オスマン帝国は必死に反乱や外敵に立ち向かいました。セルビアやモルダヴィアは騒乱に加わらずオスマン帝国側につきましたし、ロシアや西欧諸国の政府はウィーン体制維持を名目として、正教徒/ギリシア人らの反乱を直接支援はしませんでした。ワラキア蜂起は失敗し、アリー・パシャも本拠地ヨアニナをオスマン軍に包囲され、1822年1月に処刑されます。

 同じく1822年1月、ペロポネソスおよび中央ギリシアの反乱軍は手を組んで共和国を樹立し、ファナリオティス出身のフィリキ・エテリア会員マヴロコルダトスを首領に選出します。しかし各地の反乱軍はなおも主導権を巡って内ゲバを繰り返し、各個撃破されていく有様でした。オスマン帝国は1823年にイランと講和条約を締結して東方国境を安定化させると、エジプト総督ムハンマド・アリーに援軍を要請します。

 1824年、彼はこれに応じて息子イブラヒム・パシャを派遣しました。エジプト軍はクレタ島やエーゲ海南部の島々を制圧し、1825年にはペロポネソス半島に上陸します。西欧列強やロシアは各々の思惑もあって迂闊に動けず、ギリシアの独立運動は風前の灯です。果たしてどうなることでしょうか。

◆I Want

◆You

【続く】

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