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中国──あの日に、あの国に

 11月1日、中国から帰国した私にとって一番大切な編入試験の合否発表。中国関係に強いと評判の大学を受け、緊張とは裏腹に寝ぼけ眼越しに映ったのは「合格」の2文字だった。
 お世話になった方や応援してくださった方に感謝のメッセージを送りながら、自分はまた中国に関わる人生を選び直したのかと、思わず苦笑してしまった。

 思えば中国という国を認識したのは小学校1年生だった。北京オリンピックが開かれる一年前、同級生のKくんが夏休みに中国に旅行したという話をしていたことを覚えている。万里の長城が大きくて、人がたくさんいると話していたが、今思えばあの時代に子供を中国に連れて行くという判断をした彼の親は相当大変だったろうなあと感じる。

 面白いことに次に中国に興味を持ったのは高校に進学してからのとこだ。当時自分は所謂文芸部の名義を一部間借りする形で弁論部を作っていたが、その時の副部長を務めた彼が、私が中国にのめり込むきっかけになったと言えよう。幼少期を上海で過ごしていた彼の中国語は流暢で、たまに横浜中華街外れの東北料理店に行ったことを昨日のように思い出せる。憲法学、法哲学にも明るかった彼の影響で法学にも興味を示したが、今思えばこの経験は文系分野の研究という道を意識するきっかけになっていたのかもしれない。
 少し話は脱線するが、結局高校を出て彼は東大に、私は北京外国語大学に進学し、(私の無礼というか)少しした頃には連絡を取らなくなってしまった。近況はどうなのかと思った矢先、イランの政府系メディアで紹介されていたときには流石に驚いてしまったが。

 彼の影響もあり、また朝鮮渡航という遠大な目標のために中国の大学に入った私だが、入学と同時にコロナ禍でオンラインを余儀なくされる。更にその間に大病を患い治療するなど色々あったが、オンライン体制も後半の方になると、同人サークル「83宣伝宣伝部」の活動を通じて、朝鮮研究に付随するように中国への興味を繋いできた。

 コロナも明け、待ちに待った中国留学で中国のゼロコロナ政策を体験し、コロナ後の中国を色々見聞していくにつれ、中国に対する興味は疑問に変わり、探求したいと思うようになった。
 しかし一方で、中国で研究するということの障壁、留学先でのごく一部の人間関係の疲れ、何より常に緊張感持って生活しなければならない環境(警察・公安系で本当に疲れる思いを何度もした故)に対する疲れが気力を奪い、志半ばで帰国することにした。

 正直、帰国してからは中国に関わるかどうかさえも悩んだこともある。しかしそんな中で、一本の講演への誘いを頂いた。内容のメインは朝鮮関係だったので快諾して講演を行ったら、私にとっては半ば慣れたしまった現地での日常、経験、人脈が想像していないほどに興味を持たれ、あるいは求められたのである。
 思えばそれが私を再起させたきっかけなのかも知れない。現にそれ以降は中国と朝鮮を絡めてかなりいろんな活動をするようになったし、旅行記も色々と評価をいただくようになった。

 今日まで応援してくれ、心配してくれ、支援をしてくれたすべての人に感謝が尽きないのは言うまでもない。あの日の「合格」の二文字で少しでも恩返しはできたのか、いや大切なのはこれから何を修めていくかなのかを考える日々である。

 そしていつか、一度は憧れ、焦がれたあの国を、半ば失意と不安と緊張のなかで去ったあの日に、 そしてあの国に、「好久不见(お久しぶりです)」と言える日は近いのかも知れない。

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