陳浩基 /玉田誠 『網内人』で、説明しとかないと分かんないかもしれないところを解説してみた。【ややネタバレあり】
本格+社会派のミステリー
『13・67』で日本の翻訳ミステリー界に衝撃を与えた香港の作家・陳浩基(ただし、著作は台湾の出版社から刊行されている)の新作長編『網内人』が翻訳された。
序章はnoteでも公開されている(ネットに潜む獣を撃て! 華文ミステリーの最高峰、序章を先行公開!)
遺書も残さずに突然時自殺した女子中学生の姉アイと、その依頼を受けたハッカー探偵アニエが、乗除を自殺に追い込んだ犯人を捜し、パズルのピースを一つずつ集めてはめていくように、真相に迫っていく前半は、謎解き要素が高く、楽しめる。
その主軸が走りつつ、登場人物の一人がのし上がろうとVCのトップと駆け引きを繰り広げるサブストーリーが展開する。
後半では、突き止めた犯人を追い込んでいく方向に話が展開し、非常に張り詰めた雰囲気が漂う。そして少女の自殺の意外な真相も明かされ、少女の姉で主人公のアイはある決断をする。
また、サブストーリーはここで本線に合流し、あっと驚く展開を見せる。
物語は抜群に面白いので、ぜひミステリーファン以外の人たちにも読んでもらいたい。
ただ、翻訳といっても文芸書である以上逐語訳ではないし、出版物である以上、様々な制約から紙幅も限りがあるため、止むを得ず簡略化した文章にしている部分もあるのは当然である。
そんなわけで、どうしても読んでいて、よく意味が分からなかったり、辻褄のあわないようになってしまったりという部分があるのはしかたがない。
特に、外国特有の習慣などが原文ではあまり説明されないままになっていると、これは翻訳者泣かせである。原文にないものを勝手に足すわけにはいかないからだ(勿論、注という手はある。本作品も専門用語などのほか、原書が台湾で出版されている関係から、香港特有の事象についても注が施されている)。
そこで、少々無粋な気もするが、そのままでは意味が通らないところや、読者には理解しにくいところを、参考までに原文と対照させて記しておきたい(中には単純に誤訳だった個所もあるが)。
いろんな人に読んで面白いと思ってもらうことが、華文ミステリーの次の作品の翻訳につながるのだから。
ただし、後の方になるとネタバレになってくるので、有料にはしたくないために途中で警告文をいておいた。未読の方は、そこまでで止めておいてほしい。
區雅怡は外売(テイクアウト)に慣れてない?
P143で、アニエはアイにワンタンメンを買いに行かせる。その注文が「大蓉加青扣底湯另上油菜走油」という漢字ばっかりの部分である。随分と細かい注文をしたものだと思うが、実はこれ、1品ではない。原文ではこの部分は以下のようになっている。
「上」と「油」の間に点が入っている。
「大蓉加青扣底湯另上」と「油菜走油」は別の料理なのである。このことはP144では、
と正しく説明されている。
ちなみに、店で麺とスープが別の状態のワンタンメンはこんな感じ。ワンタンは麺の下にある。
「油菜走油」がカッコ内に訳されていない部分で、これはゆでた野菜にオイスターソースをかけたもので、香港では極めて一般的な付け合わせの野菜料理である。訳文では青梗菜となっているが、野菜に何を使うかは店や季節によってさまざまで、一般的にはレタス、菜心(チョイサム)、芥蘭(ガイラン)なども使われている。
右が普通の油菜。これは芥蘭である。
次はP144。來記にやってきたアイと店主のやり取りの部分である。
注文を受けた店主が、どういうわけか突然「時間がかかるんだったら麺とスープを分けた方がいい」と講釈を始める。
訳では、どうしてそういう流れになるのかわからないが、原文では以下のようになっている。
アイは「一個大蓉加青扣底、湯另上(大盛りのワンタン麺を、ネギ増し麺少なめ、麺とスープは別々で)」「一碟油菜走油(油菜を油抜きで)」「一個細蓉(ワンタン麺小盛り)」の三つを注文しているて、最後の「一個細蓉(ワンタン麺小盛り)」はアイ自身の注文で、アイと店主のやり取りはこれについてである。ここも、原文に従うと、
ではなく、
になる。アイは自分の注文した「細蓉」の麺とスープを分けないと答えているのだ。だから、この後で店主が分けた方がいい理由を説明するのである。
そして料理が出来上がった後のP146
ビニール袋5つになっているが、それをまとまった状態とは言わないだろう。
ここの原文は
なので、
となる。
思い返してほしい。
注文の品は「一個大蓉加青扣底、湯另上(大盛りのワンタン麺を、ネギ増し麺少なめ、麺とスープは別々で)」「一碟油菜走油(油菜を油抜きで)」「一個細蓉(ワンタン麺小盛り)」の三つであり、アニエとアイのワンタン麺はそれぞれ麺とスープが分けられている。だから容器が5つある。店主はそれを1つのビニール袋にまとめて、アイに渡したのである。
なお、訳文では突然「老店主」になっているが、「老闆」はボス、店主、主人という意味で「老いた」という意味はない。「老公」「老婆」が「夫」「妻」という意味で「おじいさん」「おばあさん」という意味でないのと同じである。他の部分はちゃんと訳せているので、ここは単なるミスである。
ちなみに、「來記」は「屈地街」あたりにあるとされているが、この近辺だと「波記燒臘粉麵店」という店が実在する。
施仲南はのし上りたい
アイとアニエの物語と並行して走るもう一つの物語の主要人物・阿南こと施仲南、GTネットワークのプログラマーである。
ある時、GTネットワークはSIQというアメリカのベンチャーキャピタルの重役・司徒瑋の訪問を受ける。
司徒瑋が去った後のシーン、P116
実はこの2文の間には省略された一段がある。どうも紙幅の関係から、削除されたものらしい。確かに、ストーリー上あまり大きな意味はない部分である。
原文では以下のようになっている。
仮に訳すとすれば、以下のようになるだろうか。
さて、この後、施仲南は司徒瑋と個人的に会うチャンスを掴む。そして司徒瑋が車で施仲南をピックしてレストランへ向かうことになり、待ち合わせをする。
P258で、司徒瑋と施仲南は次のような会話をしている。
二人は尖沙咀のiSquareの高層階にあるレストランで食事をする。
そしてこの前のP257、時系列では上の会話の後になるが、
と、司徒瑋を待っている。ここの「朗豪坊」と「朗豪坊ホテル」、場所が異なっている。
「砵蘭街」と「上海街」に囲まれているのが「朗豪坊」というショッピングセンターである。
そして、「上海街」と「新填地街」に囲まれているのが「朗豪坊ホテル」現在は「Cordis, Hong Kong at Langham Place」という名前に変わっている。
なぜ「上海街」で待ち合わせかというと、九龍塘のインノ・センターから「旺角」まで来て、そのあと尖沙咀に向かうとなると、このあたりの道はほとんど一方通行でしかもあまり広くないなかで、「上海街」が南向きの一方通行で朗豪坊あたりは道幅が広いので、好都合なのである。
そのまま余り混まない「上海街」を「佐敦道」まで南下、右折して「廣東道」に出て、「海防道」「樂道」と通ってiSquareに行くことができる。
しかも、「朗豪坊」のすぐ南が「山東街」、「新填地街」の一本西の通りが「廣東道」である。施仲南の会社は、「山東街と廣東道の交差するあたり」の「惠富商業中心」の15階にあるから、目と鼻の先である。
ちなみに「山東街と廣東道の交差するあたり」には「嘉富商業中心」というビルが建っている。
ギター少年・趙國泰はスクワイヤーが欲しい
P189、アニエとアイは妹の同級生だった國泰、麗麗の二人と学食で話をしている。國泰はバンドでギターとベースを担当している。
國泰の「フェンダーは高いですよ」が唐突だが、これはおそらく翻訳読者でも気が付いただろう。
原文では、
で、アニエは
と言っている。
フェンダーはフェンダー社のフラッグシップブランド、スクワイヤーはフェンダー社の比較的安価な商品に使われるサブブランドである。
そして二人と別れた後、アニエはアイが余計な口を突っ込んだおかげで聞きたいことが聞けなかったとなじる。その聞きたいことというのが、クリスマスの夜に具合が悪くなったアイの妹シウマンを國泰と麗麗が送ってきたときのことだった。
P198でアニエはシウマンが薬を盛られていた可能性を指摘する。
アニエの説明が意味不明になってしまっている。「インスタントコーヒーのスティックに仕込んでお」くのも、「「(インスタント)コーヒーみたいに水に溶かして飲ませる」のも同じことである。ドラッグはインスタントコーヒーのスティックに偽装することになってしまっているので、スティックコーヒーが薬物を特定する根拠にはならない。
このセリフ、原文では
なので、
となる。「迷姦藥」は「迷姦粉」とも書かれる粉末の漢方薬系の催淫剤である。かつての報道(警官わいせつ行為・墜落死の少女の体から麻薬成分検出=中国 2010年9月30日 )によると、主成分は「ケタミン」と呼ばれる薬物であるらしい。「ケタミン」は、医療用としては催眠薬や疼痛の緩和などにして使われているようであるが、副作用として幻覚が報告されている。
学校での調査を終えたアニエとアイは、近くのコーヒーショップで國泰と再会し、詳しい話を聞く。
その中で、かつて同級生の密告で生徒が自主退学を強制された事件があったことが國泰の口から語られる。P242、
キスで退学というのは、いかにカトリック系の学校でも、あまりに「保守的」すぎないか?どうして「同性愛」の話が出てくるんだ?と疑問がわく。
ここ、原文では「うちはカトリックだから、そういうことにはすごく保守的なんです」の前にもう一文あるのである。原文では
となっている。つまり國泰は、
と説明している。邦訳では後の8章でこの説明がされている部分が登場するまで、同性愛の問題だったことが伏せられることになる。
メガネっ子美少女・杜紫渝は韓国料理がお好き?
主要登場人物の一人が、シウマンの同級生で、図書委員の杜紫渝。メガネをかけた地味な印象の少女だ。だが、最初に会った時にアイは夏なのに上着を着ている紫渝を見て、「好些上圍豐滿的女學生,穿上貼身的校服後身段一覽無遺,由於顧慮被男同學打量,於是不顧冷暖終日穿上深色毛衣遮掩身材。」と想像していることからかなりスタイルがよいのではないかと思われる。そして後半で明らかなになるが、実はメガネで、母親に似た美貌を隠しているのである。ということは、伊達メガネと考えてよいだろう。
さて、後半で彼女が一人又一城へ出かけて食事をするシーン(P412)で、
とある。
《いや、セットならともかく、メガネっ子美少女が一人でプルコギの単品は食べないだろう。飯ものか麺ものだろう、普通》と思って原文を見ると、
なので、これは「石焼ビビンバ」である。
安心してください。メガネっ子美少女・杜紫渝はそんなにがっつり系ではなかったのです。
【以降、ネタバレの危険あり。まだ読み終わっていない人は引き返してください】
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紫渝はある理由から、ネット掲示板を気にしている。そのスレッドの描写シーン、P414。
香港大生の酔っ払い学生の話題がそんなに珍しいのか?と思ってみてみると、原文は、
なので、「香港大中文学部蘭桂の酔いどれ野郎」ではなく、
というような意味になる。「系花」つまり学部一の美女が泥酔しているのでゴシップになっているのであって、「野郎」男子学生が泥酔していても、そこまでの話題性はないだろう。
つづくP421、ここでアニエは紫渝に、偽の移動型Wi-Fiスポットと電話の基地局に成りすます装置を使って中間者攻撃を仕掛けている。その説明、
ここでは、今までの流れから考えて、店の公衆Wi-Fiになりすましているはずなので、「店のWi-Fiに繫いだり」ではおかしい。実際、原文では
であり、「店のWi-Fi」を使うのではなく、「コーヒーショップの公衆PCを使ってネットに接続する」ことを言っている。公衆PCと公衆電話は有線で直接ネットワークにつながっているので、電波の利用を前提とした中間者攻撃が使えないから、この後の「そのときはちょっと面倒だ」につながるのである。
食事を終えた紫渝はミニバスで帰路に就く。それを中間者攻撃用の小型装置を持った「ダッキー」が尾行する。最寄りのところで紫渝が下りた後、ダッキーはミニバスに乗ったまましばらく行き過ぎる。P423
「降りたい停留所が近づいてきたら乗客が運転手に伝える仕組み」では普通のバスと大差ない仕組みで、同じ停留所で降りることがどうして怪しまれることになるのかよくわからない。誰かが、ボタンを押して止まった停留所でほかの人が下りても怪しむ人はいない(今はミニバスにもボタンがついている)。仮にそれが「降ります」という声かけであっても、先を越された格好になった人が降りても誰も不思議には思わないだろう。
日本ではそうだし、香港の普通のバスでもそうだろう。
ところが、このミニバスというのは、普通のバスとはかなり違う乗り物である。
まず、ミニバスはせいぜい16人しか乗ることができない。つまり乗客が圧倒的に少ないので、顔がわかる。
そして、香港の小巴は、屋根が赤いものと青いものがあり、赤いものは停留所が決まっていないし、たまにルートと違う道を通ることもある融通無碍なもの。緑はルートと停留所が決まっている。ただし、停留所に近づいたからと言って、普通のバスと違って知らせてくれない。外を見ていて、「あ、そろそろだ」とわからないと降りられない。
つまり、道をよく知っている人しか乗らないのである。ということは、ある人の家のそばであんまり見たことがない人が降りるということは少ないと考えられる。
しかも、ここは原文では、
となっていて「有落」のところに注がついている。
紫渝が食事をした又一城からは数本緑のミニバスが出ている(又一城から
廣播道方面へ行くのは、九龍區專線小巴72號線と九龍區專線小巴73號線。ちなみに樂富廣場と廣播道との間には無料バスがある)。
作者が「乘客可以隨時請司機停車(乗客は好きな時に運転手に頼んで停めてもらうことができる)」とし、わざわざ「『燈位有落(信号のところで降ろして)』や『街口有落(交差点で止めて)』などの派生がある」と注を付けていることや、香港在住の方の「香港グルメ日記」というブログの「【香港ミニバス】香港旅行初心者にはおすすめしない5つの理由(更新日:2020-01-25)」という記事には、「実際は赤バスも緑バスも同じように好きな場所で乗り降りできてます。」とあることからすると、私はやったことはないが、緑バスでも好きなところで降りられるのだろう。
こういうわけで、紫渝は帰宅に一番都合がいいところでミニバスを停めてもらって降りたはずということになる。もし、それにつづいてダッキーが降りると、これは当然怪しいということになる。
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