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ネットに潜む獣を撃て! 華文ミステリーの最高峰、序章を先行公開!

2017年「週刊文春ミステリーベスト10」第1位に輝いた『13・67』の陳浩基が贈る、超弩級のミステリー! 9月28日の発売に先駆けて、序章を全文公開します。

<作品紹介>
ネットいじめを苦に女子中学生が自殺を遂げた。姉のアイはハイテク専門の探偵アニエの力を借りて、妹の死の真相に迫る。
高度情報化社会を生きる現代人の善と悪を問う渾身作!

◇ ◇ ◇

序章

 アイが出勤で朝の八時に家を出たそのとき──まさか今日という日が自分の人生の全てを一変させてしまうことになるとは考えてもいなかった。

 この一年の間、自分はどれだけ苦しんできたことだろう。でもこうして歯を食いしばっていればいつか幸せは巡ってくる。誰にでも運気が悪いときはあるけれど、いつかは良い運が巡ってくるものなのだから──そんな思いとは裏腹に現実は容赦なかった。神様はつくづく冗談がお好きらしい。それもとびっきり悪趣味な。

 夕方の六時を過ぎたころだった。家の冷蔵庫に残っているありあわせのもので二人分の食事がつくれるかしら──そんなことを考えながら、疲れ切った体をひきずるようにしてバス停から家まで続く道を歩いていた。

 最近の物価の上昇には計算が追いつかないほどで、以前はひとかたまりの豚肉が二十元ほどで買えたのに、今では同じ金額でその半分しか買うことができない。ほんの七、八年のあいだに肉も野菜も倍以上に値上がりしている。一方で給料は上がらない。卸値が上がれば食料品の値段も高騰する。そんな単純な話でないことはアイにだってわかっている。近所の年寄りが冗談っぽく『香港人が食べているのはおまんまじゃない。煉瓦なんだよ』と言っていたことを思い出す。商業ビルが政府から企業へと売却されたとたん、テナントとして入っているスーパーや市場の経営者はとにかく利益をあげなければと、跳ねあがった賃料ぶんを商品価格へと上乗せする。そしてそのとばっちりを被るのは決まって消費者だ。

 冷蔵庫のなかには豚肉とほうれん草があったはず。スライスした生姜と肉とほうれん草を一緒に炒めて、それに一手間かけた蒸水蛋(中華風茶碗蒸し)を付ければ、お手軽で栄養たっぷりな晩御飯のできあがりだ。

 アイにはシウマンという八歳年下の妹がいた。蒸水蛋は彼女が幼いころからの大好物で、おかずがないときの定番料理となっていた。卵二つをさっとかき混ぜて蒸水蛋をつくり、そこにみじん切りしたネギを散らして醬油を加えれば、立派な一品料理になる。料理で大切なのはなによりも簡単につくれることだ。一家が貧しかったころは、そんな卵料理で飢えを凌いでいたのである。

 家に夕飯の食材が残っていても、市場に特売品があるのではとついアイは考えてしまう。冷蔵庫が半分もからっぽだとどうにも落ち着かないのだ。幼いころの貧乏暮らしのせいで、備えあれば憂いなしという気持ちが常に頭の片隅にある。

 閉店前には売りきりの特売品が並べられる。今から行ってしばらく店のなかをぶらぶらしていれば、セールが始まってお買い得品を手に入れることができるかもしれない。今日食べなくても明日に回せばいいのだから。

 ──ウー

 そのとき一台のパトカーがけたたましいサイレンを鳴らして、アイのすぐそばを通り過ぎていった。

 スーパーの特売品にあれこれと考えを巡らせていたアイは、その音で現実へと引き戻され、ふと向こうを眺めやった。奐華樓(ウンワーラウ)の前に人だかりができている。

 いったいなにかしらと思いながら、アイはいつもと変わらぬ足取りでアパートの方へと歩いていく。子供のころからアイは人と群れるのが好きではなかった。中学生のときには陰口を叩くクラスメートたちから距離をおき、ひとりで本を読みふけっていたけれど、アイはそんな孤独をいやだと思ったことはない。誰にだって自由を選ぶ権利はある。他人は他人、自分は自分。他人の考えに自分を合わせるなんてばかばかしい。

「あ、アイ、アイ」

 数十人はいるかという野次馬のなかから、パーマ頭で小肥りのおばさんが慌てて飛び出してきて、大袈裟な手振りでしきりにアイを手招きしている。五十がらみのその女性は、たしか名前を陳(ちん)といい、自分と同じ二十二階に住んでいたはずだ。

 ふだんから特に親しい間柄ではない。顔を合わせればお互い頭をさげる程度だったが、彼女はアイのそばへ小走りにやってくると、いきなり腕を摑んでアパートの方へと引っ張っていこうとする。しきりになにかを言っているが、アイには陳おばさんがなにを話しているのかよくわからなかった。どうにか聞き取れたのは自分の名前だけで、それもなにかの呪文のようにしか聞こえない。

 話に耳を傾けているうちに、彼女がどうしてこんなに慌てているのかわかってきた。彼女はあまりの恐ろしさに、うまく話を伝えることができないのだ。そのうちに、彼女がしきりに「妹さんが」と言っているのが聞き取れるようになってきた。

 夕映えに照らされた野次馬をかきわけて前に出ると、そこには奇妙な光景が広がっていた。

 ふだんはコンクリートのなにもない空間だった、奐華樓の入口にほど近いその場所を、大勢の野次馬が取り囲んでいる。その輪の中に白い制服を着た少女がうつ伏せに倒れていた。

 乱れた黒髪の隙間から少しだけその表情をうかがうことができたが、誰なのかわからない。赤黒い液体が首の周りに小さな水たまりをつくっている。

 ──たしかあれはシウマンの学校の制服じゃなかったかしら。

 アイの頭にまず思い浮かんだのはそんなことだった。

 それからすぐに、地面に俯せて微動だにしないその少女こそが、自分の妹のシウマンであることに気がついた。

 コンクリートの上に冷たくなって横たわっている少女は、自分のただひとりの家族に違いなかった。

 その瞬間、アイにはまわりのすべてが自分の見知らぬ風景のように感じられた。

 これは夢でしょ? そうよ、夢がつくりだした風景なんだ──そんなふうに考えながら、アイは思わずあたりを見回した。みんな顔見知りのひとたちに違いなかったが、今は彼らすべてが白々しい他人のように見えてくる。

「アイ、アイってば!」

 陳おばさんは両掌をアイの肩に添えて揺さぶった。

「シ……シウマン?」

 妹の名前を口にしても、アイには眼の前に俯せている人形と自分の妹が意識の上でどうしても繫がらない。

 この時間、シウマンは家にいるはずよ。私が夕ご飯をつくるのを待ちながら──アイにとっては、それこそが「正しい現実」だった。

「下がって、ちょっと下がってください!」

 制服を着た警官が人混みを縫うようにして近づいてくる。皆が思わず脇に退くと、担架を担いだ二人の救急隊員がやってきて、アイの横を通り過ぎていった。

 眼の前にしゃがみ込んだ年上の救急隊員がシウマンの鼻先に手をかざしつつ左手の脈を探っている。続いてポケットからペンライトを取り出すと、左手で目を開きながら、シウマンの瞳孔を確かめていた。

 そのほんの数秒の間に行われた救急隊員の動作のすべてが、アイには映画のワンシーンのように感じられた。

 時間が止まってしまったようだった。

 それはアイがいま眼の前で起きている現実を無意識に拒絶していたからかもしれない。

 救急隊員はおもむろに立ち上がると、担架を持った同僚と周囲の野次馬を整理していた何人かの警官に向かってゆっくりと首を振った。

「どいてください。警察の邪魔をしないで……」

 アイは警官がそう言うのも構わずに、救急隊員が厳しい面持ちのままゆっくりとシウマンのそばから離れたのを見ると、陳おばさんの手を振りほどいた。

「シ、シウマン? シウマン! シウマン!」

 声を荒げて、俯せているシウマンのもとへと駆けだす。

「お嬢さん!」

 それを見た背の高い警官が、すかさず彼女を抱きとめて制止したが、

「シウマン!」

 アイは警官の腕を振りほどこうと、じれったそうな声になって、

「わ、私の妹なんです。助けてください!」

「お嬢さん、まずは落ち着いて……」

 警官はどうにかしてアイを慰めようとそう言ったものの、たいして効果のないことは経験から知っていた。

「た、助けて! そこにいる救急隊のひと!」

 アイは体を翻すと、そばにいた二人の救急隊員に青白い顔を振り向けた。睨(ね)めつけるように、

「どうしてシウマンを担架に乗せてくれないんです? 早くしてください! 早くシウマンを助けて!」

 一息にそう言ったが、二人の救急隊員はなすすべもなく救急車のそばに佇んでいた。年上の救急隊員は、アイに本当のことを告げたかったに違いない。しかしどんな言葉も眼の前にいる若い女性を傷つけてしまうことを彼は知っていた。言葉をかけることもできずひたすら堪えている彼の傍らで、

「お嬢さんはこの娘の姉さんかね? とにかく落ち着いて……」

 アイを制止していた警官がなだめるような口調でそう声をかけた。

「シウマン──」

 アイがふたたび人形のように倒れている妹を見つめるそばで、救急隊員の二人はモスグリーンのビニール布とポールを担架に組み立てていく。その上に彼女を乗せようとするのを見て、アイは、

「なにをしてるんです! やめて、やめてください!」

「お嬢さん、お嬢さん!」

「妹にそんな布をかぶせないで! まだ息をしているでしょ! それに心臓だって動いているはずだから!」

 力尽きたように前のめりに倒れ込もうとするアイの体を、とっさに警官が支えていた。彼に体を預けたままアイはいよいようつろな声になる。

「助けてよ! どうか助けてください……私の妹なんです……私の、たったひとりの妹なんだから……」

 ごくありふれた火曜日の黄昏どきだった。

 しかしそのとき、いつもであれば賑やかなはずの觀塘(クントン)の樂華邨(ロクワーエステート)にある奐華樓の前は深閑とし、冷たいビルの谷間には彼女の慟哭(どうこく)だけが絶えることなく響きわたる。その声はあたかも風のように、広場を包む夕闇のなかへと吸い込まれていった。

◇ ◇ ◇



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