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宇宙島へ4「バベルの塔と天の御柱」

ロケットで目的とする軌道に衛星を投入するということは、簡単に言うと、ものすごい速さで衛星をぶん投げて、永遠に地平線の向うへ落ち続けるようにする、ということでした。

そう考えると、これはたとえば、2階に荷物を投げ上げているようなものということができます。

そういう観点で見れば、物を運ぶという用途では燃料問題以上に重大な欠点があり、より簡単な輸送方法があると考えられます。

では、2階に物を放り上げる方法にはどのような欠点があり、どのような「よりよい方法」が考えられるでしょうか。

簡単に言ってしまえば、ものすごいエネルギーを使っている割には、極端に重いものや量を持ち上げられないし、狙いも正確ではないということができます。
下手をすると、目標としたところとは違うところに荷物が言ってしまうかもしれないし、破損する可能性も少なくない。少なくとも壊れ物を運びたいとは思わないでしょう。

それよりは、階段やはしごやエレベーターをつかって荷物を運んだ方が圧倒的に楽だし、たくさんの荷物を正確に運ぶことができます。

宇宙開発以前、それこそ神話の時代から、人々は天に続く構造物を想像してきました。天まで到達するのに、それが一番確実だからです。おとぎ話の「ジャックと豆の木」などもその一種と言うことができるでしょう(これにちなんで、「宇宙エレベーター」が「ビーンストーク」と呼ばれることもある)。

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『旧約聖書』「創世記」11章に登場する、所謂「バベルの塔」が、天を目指した建築物としては非常に有名です。

全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。

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一般には、天罰を受けて崩壊したという話が知られていますが、実は『旧約聖書』にはそうした記述はなく、後世に付加されたものとされています。
また同じく「創世記」の28章には、ヤコブが夢に見た、天使が上り下りしている、天から地までを結ぶ梯子が登場しています。これは英語では「ジェイコブス・ラダー」と呼ばれていて、雲の切れ目から太陽の光が帯のように差し込む様子(科学的には「薄明光線」といいます)を表す言葉としても使われています。

中国の神話にも、天帝が住む天界に届く「崑崙」という山や、「建木」という天にいたる樹が出てきます。たとえば、『淮南子』墜形訓には以下のようにあります。

昆侖之丘,或上倍之,是謂涼風之山,登之而不死。或上倍之,是謂懸圃,登之乃靈,能使風雨。或上倍之,乃維上天,登之乃神,是謂太帝之居。扶木在陽州,日之所曊。建木在都廣,眾帝所自上下,日中無景,呼而無響,蓋天地之中也。
崑崙の丘は、登って倍の高さに達すると、これを涼風の山という。これに登ると不死になる。その倍の高さまで登ると、これを懸圃という。これに登ると霊となり、風雨を操ることが出来る。その倍の高さまで登ると、もう上天である。これに登ると神となる。これを太帝(天帝)の居という。扶木は陽州にあり、日の曊〔さ〕すところである。建木は都広にある。衆帝の上下するところである。日が中する時には影が無く、呼んでも響きがない。けだし天の中心なのであろう。


別の資料によると、「崑崙山は天の真ん中の柱」(『芸文類聚』巻7所収『龍魚河図』)であり、山そのものではなく、崑崙にある「天柱」という銅でできた柱が天に届いていると記されています(『芸文類聚』巻7所収『神異経』)。
注釈家の高誘はここに、「都広は南方の山の名である。……。衆帝が都広山によって天に登り、降ってくる。だから上下するというのである。日が中するときには、日は人の真上にあり、影が出来ない。だから、けだし天の中心でなのあろう、というのである」と注をつけています。「日が真上に」くるとすると、「建木」は、赤道を挟んで南北の回帰線までの地域にあるということになり、天に通じる梯子としては、面白いことに、物理学的に安定した位置にあるということになります。

日本神話にもいくつか、「天へと至る道」の記述があります。天地を行き来する「天浮船」はもちろんですが、『日本書紀』巻一第五段には以下のような記述もあります。

次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。既而伊弉諾尊・伊弉冉尊、共議曰、吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。於是、共生日神。號大日孁貴。(大日孁貴、此云於保比屢咩能武智。孁音力丁反)。一書云、天照大神。一書云、天照大日孁尊。此子光華明彩、照徹於六合之內。故二神喜曰、吾息雖多、未有若此靈異之兒。不宜久留此国。自當早送于天、而授以天上之事。是時、天地相去未遠。故以天柱、舉於天上也。次生月神。一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊。其光彩亞日。可以配日而治。故亦送之于天。次生蛭兒。雖已三歲、脚猶不立。故載之於天磐櫲樟船、而順風放棄。次生素戔鳴尊。一書云、神素戔鳴尊、速素戔鳴尊。此神、有勇悍以安忍。且常以哭泣爲行。故令国內人民、多以夭折。復使青山變枯。故其父母二神、勅素戔鳴尊、汝甚無道。不可以君臨宇宙。固當遠適之於根国矣、遂逐之。
(イザナギとイザナミは)次に海を生んだ。次に山を生んだ。次に木の祖となる句句廼馳〔ククノチ〕を生んだ。次に草の祖となる草野姫〔カヤノヒメ〕を生んだ。別名を野槌〔ノヅチ〕と言う。そしてイザナギとイザナミは、相談して言った。「私たちはすでに大八洲国や山川草木を生んだ。どうして天下を治めるものを生まないでおれようか?」 そこで、共に太陽の神を生んだ。名前を大日孁貴〔オオヒルメノムチ〕と言う。(大日孁貴は、これを於保比屢咩能武智〔オホヒルメノムチ〕という。孁の音は力丁の反)。ある書には天照大神〔アマテラスオオミカミ〕と言う。ある書には天照大日孁尊〔アマテラスオオヒルメ〕と言う。この子は光輝いて、天地の内を照らし尽くした。よって二柱の神は喜んで言った。「我が子は多いといっても、これほど霊力の強い子はいなかった。この国に長く留めておくべきではない。早く天に送って、天上のことを教えるべきだ」 このとき、天と地がまだ遠くは離れていなかった。そこで天の柱を使って、天に上げた。次に月の神を生んだ。ある書によると月弓尊〔ツクユミ〕、月夜見尊〔ツキヨミ〕、月読尊(ツキヨミ)と言う。その光は日の神の次いだ。日の傍にあって治めることが出来た。そこでまた天に送った。次に蛭児〔ヒルコ〕を生んだ。三歳になっても、足が立たなかった。そこで天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)に乗せ、風にまかせて捨ててしまった。次に素戔鳴尊(スサノオ)を生んだ。ある書によると神素戔鳴尊〔カムスサノオ〕、速素戔鳴尊〔ハヤスサノオ〕と言う〕。この神は、勇敢であるが忍耐がなく、いつも泣き喚いていた。そのため国内の人々の多くを死なせてしまった。また青い山々は枯れ果てさせた。そこで父母である二神は、スサノオの命じた。「お前ははなはだ無道である。宇宙に君臨することは出来ない。遠く根の国へ去るべきだ」とうとう追放してしまった。

ここでは、地上から天へと大日孁貴と月弓尊を送り届ける装置として「天柱」が登場しています。ここでは単に「天柱」とだけ書かれていますが、一般に「天之御柱〔アメノミハシラ〕」と呼ばれるもので、『旧事紀(先代旧事本紀)』によれば、イザナギ・イザナミ二神が国生みの後にオノゴロ島に突き立てた「天沼矛〔アメノヌボコ〕」であるとされています。

また、「天橋立」にまつわる神話にも興味深いものがあります。『釈日本紀』巻五に引く『丹波国風土記』の逸文に以下のようにあります。

丹後國風土記曰、與謝郡。郡家東北隅方、有速石里。此里之海、有長大前。長一千二百廾九丈、廣或所九丈以下、或所十丈以上廾丈以下。先名天椅立、後名久志濱。然云者、國生大神、伊射奈藝命、天爲通行、而椅作立。故云天椅立。神御寢坐間仆伏。仍恠久志備坐。故云久志備濱。此中間云久志。自此東海云與謝海、西海云阿蘇海。是二面海、雜魚貝等住、但蛤乏少。
丹後国風土記に言うところでは、与謝の郡、郡役所の東北隅の方向に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。長さ一千二百二十九丈、広さはある所は九丈以下、ある所は十丈以上で二十丈以下である。先ず天の椅立(はしだて)と名づけられ、後に久志の浜と名づけられた。そういうわけは、国生みの大神である伊射奈芸命〔イザナギノミコト〕が天に通うために梯子を造り立てた。それ故に天の椅立といった。ところが神がお寝みになっている間に倒れ伏した。そこで久志備〔くしび・神異〕でがあるのではないかと怪しまれた。それ故に久志備の浜といった。中ごろから久志というようになった。ここから東の海を 與謝の海といい、西の海を阿蘇の海という。この二面の海は様々な魚貝類が住むが、蛤だけは少ない。

『播磨国風土記』印南郡にも、以下のような記述があります。

此里有山、名曰斗形山。以石作斗與乎気、故曰斗形山。有石橋。伝云、上古之時、此橋至天、八十人衆、上下往來。故曰八十橋。
この里に山があり、名を斗形山という。この山の石で斗〔ます〕と乎気〔おけ〕を作ったので、斗形山という。この山に石の橋があり、伝承にこう言っている。大昔に、この橋は天に届き、八十人衆〔やそひとども〕(「たくさんの人々」の意)が上り下りしていた。だから、この橋を八十橋〔やそはし〕という。

「上古之時、此橋至天」という記述からは、「今は天に通じていない」という含意が読み取れます。これは、先の『丹後国風土記』が記す「天橋立倒壊」にも通じるかもしれません。
また、「八十人衆、上下往來」というのは、『淮南子』に見える「建木」の記述にも似ています(田中荘介(2007)では、これを「『八十人衆』とは多くの石工が、石を切り出すために岩山を登り下のであろう。」と極めて現実的な判断をしています)。

これらから分かるように、山・木・橋・梯子・塔など様々なイメージで、「天地を結ぶ橋」の物語は世界各地に存在しました。

しかし、これを現実の建築物として構想するというのは、19世紀末に至るまで登場しませんでした。次はその現実的な構想を見ていくことにしましょう。

【参考】
・舎人親王『日本書紀』(国立国会図書館デジタルコレクション
・佐伯有義(1940)『増補 六国史』朝日新聞社
・秋本吉郎(1958)『日本古典文学大系 風土記』岩波書店
・田中荘介(2007)「播磨国風土記編纂者の立場 : 賀古郡における印南別嬢伝承を中心に」神戸常盤短期大学紀要28,p60-55
・汪紹楹(1980)『芸文類聚』中文出版社
・馮逸、喬華(1989)『淮南鴻烈集解』中華書局
・袁珂(1986)『中国神話伝説詞典』上海辞書出版社
・川口秀樹(2014)「中国科学説話雑識~古代中国のSF的記述~3『軌道エレベーター』

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