見出し画像

文化ということについて考えてみる。

今回のコロナにおいての文化についての扱いの違いについて考える中で、思ったことをただただ書き散らしてみようと思う。

欧米(および日本以外のアジア諸国)と比べて日本が文化政策やその保護において、何手も遅れているのはコミュニティを維持することについての忌避をすることによる市民の従属化が進んでいるからだ。行政だけでなく個人までもが縦割りにして、横のつながりを作らせることは国力を削ぐと考えた。

これがすべての始まりなのだと思う。
そして、それは戦前から始まって、戦後まで継承された。
為政者と市民にとっての戦いは市民の連帯が国家の脅威にならないことを目指すことだったのだと考えている。
それは各国の歴史を見ても明らかだと思う。
その大きな転換点になってきたのは19世紀だと思う。

もちろん、それよりも前から起きていたとも言えるし、現在の社会のベーシックはある意味でルネッサンス期が作ったと言ってもいいように思う。
そして、社会が社会の市民のコミュニティを許しつつ、封建的な制度設計で社会構造を続けてきたという見方も出来る。ただ、それは許されていた。

許可の中にある繋がりや文化というものは、非常に危ういもので、それが文化としての強度を形成していくことや継承されていくことは難しい。しかも、封建的制度が安定していて運営されている期間だけのものになってしまう。そう考えた時に本当の始まりは自然権が発生した後のことではないかと思う。

画像1

自然権という概念。今でいう基本的人権というものが「発見」された後も簡単に文化というものが市民の中で維持形成され、醸成されていくものだという認識にたどりつくまでには二回の大きな戦争が必要であったと考えている。それはたまたま歴史的な転換点としての戦争なのかどうかはここでは置く。

文化というものが特に重要だ。そして、それを維持していくためのコミュニティというものも重要である。
また、そのコミュニティというものが時の為政者にとって不便なものであると言うことも同時に発見された。そして、多くの国では国家というものが依拠するのは国民であると考えたのだと思う。

そうした結果、市民を教育していくプロセスにコミュニティ形成やコミュニティを維持することを求め、そのクラスターを基にして社会を形成し、国家を形成する方向に動いてきたと言ってもいい。ただし、我が国は他の道を選んだ。労働者の分断を行うことでコミュニティを弾圧し始めた。

このスタートラインには、レッドパージが大きな役割を果たしたことは言うまでもないと思う。
社会を分断する方便としてのレッドパージは大きな力を持ち、自由と連帯は対立概念にあたるという思考を根深く植えこんだ。また、自由や人権についての概念が弱い国にとっては容易だったのだと思う。

そして、ターゲットを一つずつ決めては、社会の橋頭保にあたるものを破壊していく。今でも的になっているのは自治体や学校、自治会、若者と老人というような塊がつながらないように分断することだ。それらが力を持つことは中央政府の力を削ぐことになると考えたからだ。

ここまでかけて、文化についての話をしているはずがコミュニティの破壊やその維持についてのことについてばかり話をしているように思うかもしれない。ただ、それこそが人間同士の間に存在し、人間が人間であるための最低限のものだと言うことを考えているからだ。そして、それを阻害したこと後の今。

いささか強引に結び付けすぎじゃないか。というように思うだろうし、僕もいまいままで考えていたことを一気に文字化して、それを推敲もしていない。ただ、こういう仮説も立てられるのでないか。という定義をしようと試みている。幸い、時間はあるので続けてみようと思う。

ステートメントとして、読みやすいものに転換をしていく必要もあると思う。
それもまた後でやろうと思う。
今はこれをぶん投げてみようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?